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「……ドゥ、ラコン、どのが?」
「そうだ。
父上の命を受け、洪水対策の指揮を執ることになった。
ツェリル、お前は落ち着いて俺からの連絡を待て」
そして、ツェリルを追ってそこにいたネツを見る。
「お前もだ、ネツ」
片手で自分を支えてくれるドゥラコンの顔は、初めて見るほどに厳しく、真摯なものだった。
軽薄で、女にだらしない男と同一人物だとはとても思えない。
「既にツァフォン地区の兵は向かっている。
お前は三軍隊率いてすぐに出立っ」
「御意」
ネツは即座に踵を返して、訓練場に向かいながら側の官兵に何事かの指示を出している。
急に周りの時間が大きく動き出したようだ。
その時、ツェリルを抱きしめていたドゥラコンの腕が離れた。
(あ……)
それが無性に寂しくて、不安で、ツェリルは思わず手を伸ばしてドゥラコンの腕を握る。
そんなツェリルの行動に、ドゥラコンは目を細めてそっと頬に指を触れてきた。
「安心しろ」
「……私は……」
「お前は、神に祈る大切な役目があるだろう」
「でもっ」
「後は任せてくれたらいい」
指が離れるのと同時に、軽くくちづけされたかと思うと、ドゥラコンも足早に宮殿に向かっていく。
さっき言っていたことを考えると、出達の準備を整えるためだろう。
一人取り残されたツェリルは、自分がどうしたらいいのかわからなくなった。
だが、ここでじっとしていていいのかと、何度も自分の心に問いかける。
「あ……」
ぽつんと、頰に何かが当たったような気がして空を見上げれば、いつの間にか真っ黒な雲が覆っていて、まばらな雨粒が落ち始めていた。
王都で降り始めたならば、アルシェクはきっと嵐になっているはずだ。
「私は、ここで……」
命の危険もなく、雨風をしのげる立派な建物の中で、ただ神に祈るしかないのか。
ツェリルは唇に触れた。
ネツに奪われるようにされたくちづけは、先ほどのドゥラコンの優しいそれで完全に塗り替えられている。
(ドゥラコン殿……)
『後は任せてくれたらいい』
その言葉を……。
「……っつ」
ツェリルは走り始めた。
つい先ほど、むやみやたらに走り出した時の気持ちとはまったく違う、しっかりとした目的を持つて走り続ける。
(私は、聖女失格だ!)
聖女は、誰にでも国民全員に平等な愛を注がなければならない。
私欲のために、行動はしてはならない。
何度も言い聞かせてきた教訓は、ツェリルの血肉にはならなかった。
そればかりか、神を信じて静かに待つということさえもできない。
しかし、今動かなければ、きっと後悔するだろうともわかっていた。
そのために資格を奪われても、ヤッフェに喚かれても、責任をとる覚悟はある。
いつの間にか激しくなった雨の中、休まずに走り続けたツェリルは神殿の中に飛び込んだ。
「ヤッフェさま!」
求める名を呼び、必死にその姿を探す。
「ツェリル殿」
「ナメルさまっ?」
その声に気づいたらしいナメルの姿に、ツェリルは駆け寄って訴えた。
「ヤッフェさまにお伝えくださいっ、私は今からアルシェクに向かいますっ!」
「アルシェクに?
まさか、洪水のことでですか?」
柔らかな笑みを消し、厳しい表情を向けてくるナメルに、ツェリルは何度も頷いてみせる。
「そうですっ」
「しかし、聖女のあなたが行っても……」
「私だけが安全な場所にいることなどできません!」
「ツェリル殿っ」
「よい」
「ヤッフェさま!」
難色を示すナメルの声を遮ったのは、朗々と響くヤッフェの声だった
「行くがよい、ツェリル」
「……いいのですか?」
「止めても、お前は行くだろう?」
「……はいっ」
ツェリルの返事にヤッフェは笑う。
いつもの、皺くちゃの笑顔だ。
「聖女として、お前にもできることがある。
さあ、雨が酷くならぬうちに」
「ありがとうございますっ、ばあばさま!」
深く頭を下げ、ツェリルはすぐに外に出ようとしたが、
「待ちなさい」
再び、ナメルに止められてしまった。
大司教として、聖女の勝手な行動を許すことはできないのかと身体を硬くしたが、次の彼の言葉は思いがけないものだった。
「まずは旅支度を整えなさい。
そのまま行く気ですか?」
「あっ」
確かに、女官の衣装では馬に乗るのも心許ない。
「用意ができたら門前に。
私も同行します」
「ナメルさまっ?」
「さあ、早く」
背を押され、そのままツェリルは駆け出す。
心はもう、アルシェクに向かって走り出していた。




