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ツェリルの声に、振り向いた紫の瞳が細められた。
「こんにちは、聖女殿」
「こ、こんにちは」
「こんな場所で会うなんて奇遇ですね。
ここの気はとても澄んでいて、私は時折訪れるのですけど」
「あのっ」
「……」
「あの……私……」
ツェリルは服を握りしめ、ただナメルを見つめる。
多分、ナメルは何らかの異変をそこで感じたのだろうが、自分からは問い掛けてこないままツェリルの口が開くのを待っているように見えた。
慈悲深い大司教ならば人の気持ちの先を読んでくれるはずだが……どうやらナメルは、少なくともツェリルを甘えさせてくれないらしい。
そしてツェリルも、それを自分から切り出さなくてはいけないことを自覚していた。
「大司教さま」
「はい」
「……先ほど、私、ネツ殿の肌を見ました」
じっと見ていたナメルの表情に、俺かな驚きが見えた。
「そうですか。それで?」
「あなたは知っているはずです。
彼の腰にあるあれは、傷ですか?
それとも……痣ですか?」
遠目ではっきりしなかったあれを、ナメルならば当然見たことがあるはずだった。
以前、ツェリルはネツ本人の口から聞いた。
『生憎俺の身体には戦の傷がある。
女相手にあまり見せられるものじゃない』
親衛隊長という立場上、身体に傷があるのは当然考えられる。
それが、ちょうど腰にあったとしても不思議ではなかった。
それが傷だと思いたがっているわけではないと、ツェリルは自分に言い聞かせる。
「その目で確認したのではないんですか?」
「……遠目でしか、確認していません」
「ああ、それで」
合点がいったかのように頷くナメルの表情には、もうあの穏やかな笑みが戻っていた。
僅かな時間の間でどんな心の変化があったのだろうか。
ツェリルが問うようにナメルの顔を見ると、彼はふっと口元を綻ばせた。
「あいつも、間が悪い男ですね」
「え?」
「僅かな隙に切り札を覗かれるなんて」
「それって、どういう……」
ナメルが言おうとしている意味がわからず、ツェリルは先を促す。
すると、ナメルはいきなり手を伸ばしてツェリルの唇に指で触れていた。
「な、何をっ?」
反射的に身体を引いたツェリルに、ナメルは笑みを含ませながら言った。
「あなたを抱かせてくれたら、私の肌も見せてあげますよ」
「え……?」
「……そう言ったら、どうしますか?」
そんな仮定の話をされても、すぐに答えられるはずもない。
頭の中ではそんな条件を受けられないと思っていても、今見たばかりのネツの腰の赤いもののせいで、もしかしたらナメルまで……と想像すると即座に否定できなかった。
「……」
「……嫌?」
「あのっ」
今、こんな話をしたいわけではない。
ツェリルがここまで来たのはネツのことを確かめるためだ。
そう思ってもう一度話を元に戻そうとしたが、ナメルはそのまま間合いを詰めてきた。
もう一歩後ずさったツェリルは、そこが泉の縁だと気づかず、大きく体勢を崩してしまう。
「あっ」
泉に落ちてしまう衝撃を予期してとっさに目をつぶったが、身体は伸ばされた腕にしっかりと抱き寄せられていた。
助けてくれたのは側にいたナメルだ。
優美に見える外見とは裏腹に鍛えているらしい身体が密着した服越しに伝わり、ツェリルは急に意識してしまった。
大司教といえど、ナメルもまた、人間の男だ。
「あ、ありがとうございます」
とにかく礼を言って離れようとしたものの、ナメルの腕はますます強く抱きしめてくる。
視線を逸らさなければと思うのに、覗き込んでくる紫の瞳から視線を外すことができない。
「ねだってみなさい」
「……え?」
「可愛くおねだりされれば、私もあなたに裸身を見せるかもしれませんよ?
ああ、ドゥラコンが条件にしたように、あなたの裸身を見るのと引き換えにしてもいいんですが」
冗談か、本気か。
声の調子ではまったくわからない。
それでも、逃げられない腕の中、徐々に近づいてくる綺麗な顔をツェリルは呆然と見つめた。
重なった唇は、意外にも柔らかかった。
強引に中へと押し入ってきたドゥラコンの乱暴なものとは違い、何度も軽く触れてくるだけのそれには不思議といやらしさは感じない。
「ふ……んぅ」
思わず声を漏らすと、触れた唇に笑う気配がした。
その途端、急に恥ずかしさが湧き上がり、ツェリルはナメルの胸を押し返す。
ナメルはおとなしく離れてくれた。
そればかりか、視線はツェリルから逸らさないまま、滑かな仕草で上着を脱いでいく。
「ちょ、ちょっと!」
「思い出深いこの場所で、あなたと会ったのも神のご意志かもしれません」
「ナメルさまっ」
くちづけをした直後の行動に、さすがのツェリルも身の危険を感じた。
ギュっと胸元を掴み、どうやって逃げようかという機会を探っていたが、ふと視界に入ってきたものに思わず息をのむ。
「そ……れ……」
綺麗に筋肉のついた色白の上半身が露になっていた。
そしてその腰の部分には、鮮やかなバラッハ帝国の紋章がある。
「その、紋章は……」
遠目で見たネツの腰のものよりも、はっきり突きつけられたもの。
それをどう判断していいのかわからないツェリルの耳に、楽しげなナメルの声が届いた。
「さて、どちらが君の求めているものでしょうか?」




