29
ヤッフェの私室を辞したツェリルは、もう一度祭壇へと足を向けた。
先ほど来た時とはまるで違う思いでここにいることが、ヤッフェが先ほど言ってくれた言葉の意味を指している気がしていた。
『ただの人間は、生きていれば日々変化していく。
その変化を受け入れなければならん』
男を知ってしまった身体になったことで、もしかしたら聖女としての資格はなくなったのではないかと恐れていた。
だが、水鏡に映る次期皇帝の姿は再度見ることができたし、ヤッフェやナメルの言葉からも、先に進むように背中を押してもらった気がする。
いつまでもうじうじと考え込むのは、それこそやめなければならない。
「また、来ます」
ここでこうして祈りを捧げるのが一番ほっとする。
一刻も早く目的を遂げて戻ってきたい……そう改めて思いながらツェリルは外に出た。
「あ」
「……」
「どうして、ここに……」
神殿を出て間もなく、また歩いて宮殿に戻ろうとしたツェリルは、馬に乗ったドゥラコンの姿を見て驚いてしまう。
日中、いつも行方不明になる男と、まさかこの神殿で会うとは想像もしていなかったからだ。
「所用で、近くにきた」
「そう、ですか」
「今から宮殿に戻る。
……ついでに、運んでやろうか」
ツェリルのことをまるで荷物のように表現するドゥラコンに呆気にとられたが、不思議と抵抗感もなく話している自分がいた。
むしろ今は、どうにかしてこの男が次期皇帝なのか否か確かめたい、という挑戦的な気持ちさえわいているほどだ。
いくら自分からドゥラコンの手に落ちたとはいえ、あれほどの暴挙に出た彼に、さほど嫌悪は感じない。
それよりも、どうして好都合よくここに現れたのだろうと不思議に思う気持ちの方が大きかった。
黙ったままツェリルが馬上のドゥラコンを見上げていると、なぜか視線を逸らされる。
その表情の中に気まずさが見えたのは目の錯覚ではないはずだ。
まさかこの男に罪悪感があるのだろうかと意外に思っていれば、すぐに最近見慣れた不敵な笑みを浮かべて馬から下りると、いきなりツェリルを抱き上げた。
「……元気そうだ」
「な、何をする!」
「……こういう時は、もう少し色っぽい話をするもんだぞ」
「い、色っぽいって、突然こんなことをされて……きゃあっ」
抵抗する間もなく、ツェリルは肩に担がれる格好のままドゥラコンに馬に乗せられ、少々乱暴にその背に下ろされる。
一瞬、下肢にじんっと鈍い痛みが響いて、ツェリルはそのまま鬣を握りしめて身体を丸めた。
「痛かったか?」
「あ、当たり前だっ」
誰のためにこんな痛みを抱えているのだと、ツェリルは必死に顔を上げて睨みつけようとしたが、急激な動きは余計に身体に痛みを感じさせた。
(え?)
次の瞬間、髪を撫でられたと思ったのは気のせいだろうか。
ヤッフェがしてくれるように大きな手が何度か髪を撫でた後、ツェリルの身体はできるだけ下肢に痛みが走らない体勢にされて、馬は歩き始めた。
こんなふうにドゥラコンと共に馬に乗るなんて何だか不思議だと思いながら、やはり緊張感も消し切れず、ツェリルは背中に感じる男の存在に神経を尖らせる。
「……」
「……」
馬はまるで子供を乗せているかのようにゆっくりと宮殿に向かって歩いていた。
ドゥラコンならばツェリルが怖がるほどに速く走らせそうなものなのに……気になったツェリルはぽつりと尋ねる。
「……走らせないのか?」
「せっかくの逢い引きの時間だ。
急いで帰ることもないだろう」
周りには人影もなく、ここにいるのはツェリルとドゥラコンの二人きりだ。
これは、もう一度ドゥラコンにはっきりと聞くいい機会ではないか。
ツェリルは前方に視線を向けたまま、ドゥラコンに話しかけた。
「ドゥラコン殿」
「何だ」
「……身体を見せてくれ」
真向から言うと、ふっと笑う気配がした。
「諦めていないのか」
「当たり前だ。
私は絶対に次期皇帝を見つけなけれはならない!」
さっき、ヤッフェと話してその思いはさらに強くなった。
そのためになら、何だってしてやると思えるほどだ。
ツェリルの揺るぎない本気を認めたのか、ドゥラコンはすぐに笑い飛ばすことはなかった。
しかし、やはり肯定の言葉は返ってこず、支えてくれるように抱きしめてくる腕にさらに力がこもるだけだ。
「ドゥラコン殿」
「……面白い女だな」
「どこがだ」
真面目に話しているのに、面白いなどと言われるのは心外だ。
「褒めているんだ」
「どこがだっ」
「そう聞こえないか?」
「あなたは面白いと言われて嬉しいと感じるのか?」
「言われる相手によるな」
そう言いながらも、言葉に笑いを含んでいるのが腹立たしい。
「ツェリル」
「何だっ」
声を荒らげると、さらに声を出して笑われる。
「皇帝の座になど興味はないが、お前には興味が出てきた」
「う、うるさい!」
これ以上ドゥラコンに口を開かせては余計に疲労が蓄積してしまう。
ツェリルは口を開かないという意思表示に背筋を伸ばし、背後にいるドゥラコンからできるだけ距離をとった。
そのせいで下肢の痛みはじんじんと疼くが、朝から比べたら我慢できないものでもない。
「ナメルに会ったか?」
しばらく黙って馬に揺られていると、不意にドゥラコンが切り出した。
「あいつはいい加減だが、神に対しては真摯だ。
朝の祈りと夕方の祈りは欠かさずしているはずだが」
確かに、ナメルはちゃんと祈りをしていたようだ。
昨夜の、ドゥラコンやネツと組んで破廉恥な真似をした男にはとても見えなかった。
「騙されるなよ?」
「え?」
気になる言葉に思わず背後を見てしまうと、視線が合ったドゥラコンの緑の瞳が細められる。
「あいつは、やっかいだ」
「やっかい?」
「ネツもな」
ナメルだけではなく、ネツの名前も出してきたドゥラコンは、いったい何を考えているのか表情を見ているだけではわからなかった。
しかし、悪口を言うのは感心できない。
彼らは幼友達で、あんな場にまでいることを許したくらいなのだ。
「友人なのだろう?」
「友人だが、気に入った女をみすみす取られたくないからな」
「……?」
気に入った女とは誰かとは聞けない雰囲気で、ツェリルは無理矢理ドゥラコンの顔から顔を引き離すと、早く宮殿に着くように馬の腹を蹴った。




