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「こっちは晴れてる!」
馬車の窓から半身を乗り出すようにして空を見上げたツェリルは、雲一つない青空を見上げて思わず声を上げた。
風に揺れ、おかっぱにしている髪がくしゃくしゃに揺れる。
少し前から雨期に入っていて、この時期の雨は半月続くことも珍しくない。
それでも今年は例年に比べて雨の日が多く、各地の農作物にも大きな被害が出ているらしい。
バラッハ帝国の皇帝が暮らすこの王都は、河岸の整備や物資の流通もしっかりしているので問題はないのだろうが、各地の小さな町や村は大打撃を受けていた。
当然のことながら、ツェリルの暮らす村も、長雨対策のために大人たちが日々話し合っている。
だが、その結論はいまだ出ていないらしい。
(王都は、何もかも違う……)
ツェリルの乗った馬車は二日前から王都、メルカズに入ったが、すぐに整然と並んだ家並みと、整備された道に驚いた。
それまで、一度も自分が生まれた村から出たことのなかったツェリルは、道というものは大小の石がごろごろと転がった、人が踏み均した草地を言うのだろうと思っていたからだ。
だからかもしれないが、馬車はかなりゆっくりとした速度で走るしかなかった。
しかし、メルカズに入つて整備された道を行き始めた途端、馬車は驚くほど早く進むようになった。
どうやら今日の夕方には、目的地である王都の神殿に着くらしい。
「あの、アリイェさま、王都にはこんなにも店が多いの? ……ですか?」
村の長以上に高位の、神官長という立場の人間と話したことがないツェリルは、精一杯の敬語で尋ねてみる。
すると、神官長アリイェは、優しく柔らかな笑みを向けて答えてくれた。
「皇帝のお膝元ゆえ、商業も盛んなのですよ。
ツェリル殿、そのように身を乗り出していては馬車から落ちてしまいます」
自分のような子供にも、きちんと誠意をもって丁寧に応えてくれることが嬉しくて、ツェリルは満面の笑みを浮かべて頷く。
「大丈夫です!」
そして、もっと外の景色を見てみたくて、ツェリルはさらに窓枠をしっかりと握りしめて胸元まで外に出た。
(私、本当に王都に来たんだ)
つい五日前までツェリルが暮らしていたのは、バラッハ帝国の北の国境近くにあるアルシェクという小さな村だ。
村人の多くは農業に従事しており、食べ物に苦労するほど貧しくはないが、それでも豊かとはとても言えない村だった。
七歳のツェリルはそこで両親と妹と四人、平凡ながらも幸せに暮らしていたのだが、ひと月ほど前、村に場違いなほど立派な馬に乗った人間がやってきた。
『そなたが、アルシェクのツェリルか』
バラッハ帝国の王印が施された立派な馬車から降りてきたのは、厳つい顔をした武人で、突然の高貴な人の訪問に恐れ戦いた村人の前で、彼は思いがけないことを告げたのだ。
『アルシェクのツェリル。
そなたを次期聖女候補としてメルカズに召す』
その一言で、ツェリルは今こうして生まれて初めて立派な馬車に乗り、一生来ることがないだろうと思っていた王都にやってきた。
(でも)
言われるがままに来たが、ツェリルはふと思った。
自分のような平民の子供が、周辺国からも一目置かれるほどの存在であるバラッハ帝国の聖女になれるのだろうか。
ツェリルは椅子に座り直し、アリイェをじっと見つめる。
「アリイェさま、私は……私には本当に、聖女の素養があるんですか?」
そのものズバリな質問にアリイェは一瞬だけ驚いたように目を瞠ったが、すぐにくすりと笑った。
「我がバラッハ帝国の偉大なる聖女、ヤッフェさまの霊力はとても強い。
その方がそなたの名を名指ししたのてす、信じなさい」
「……」
信じると言っても、ツェリルは聖女に会ったこともない。
もう数十年もこのバラッハ帝国を良き方向へと導いてきた功労者の一人として名高いが、それでも片田舎に住むツェリルには夢物語の登場人物と一緒だった。
千年もの長きにわたり、国力を増強し、近隣諸国の国土を奪って広大な国になったとされるバラッハ帝国。
多くの国民から敬愛され、一方で恐れられている皇帝が、唯一その膝を折る存在、聖女。
国中にいる聖女の中の、最高位にその女性はいるのだ。
神官長のアリイェの言葉でも、ツェリルは自分がその聖女候補に選ばれたこと自体、信じられない。
しかし、それを今アリイェに訴えても、彼もどうすることもできないだろう。
間違いだとは思うが、どちらにせよ一度神殿へ赴き、はっきりと否定されるしかない。
(父さんも母さんも、一生に一度の王都見物を楽しめばいいと言っていたし)
自分が候補に選ばれただけで、村は一年分の税を免除されると聞いた。
両親は名誉なことだと喜び、村長は村で一番綺麗な衣装をあつらえてくれたくらいだ。
父親はなけなしの金もこっそりとくれたので、これで家族への土産を買おうと思っている。
村では手に入れることができないような、とても珍しいものを。
「みんな、綺麗」
馬車の中から見掛ける少女や女たちは誰もが、ツェリルが見たこともないほど綺麗な髪飾りをつけ、衣装をまとっている。
自分には贅沢過ぎて身につける想像もできないが、それでも綺麗なものを見るのはやはり楽しい。
「ツェリル殿も、艶やかな黒髪も、輝く黒い瞳も、とても可愛らしいですよ」
「へ、ヘヘ」
お世辞でもそう言われて嬉しくて、ツェリルは照れ隠しに視線をさまよわせた。
やがて馬車はもっとも賑やかな町中を通り抜け、今度は緑の草原と、青々と生い茂った森の中を走った。
「もうすぐ神殿ですよ」
そう声を掛けられ、ツェリルは再び窓の外へと顔を向ける。
「この辺りは静かなんですね」
「神殿の周りには他の建物はありませんから」
「へえ」
見た限り、建物どころか人影もない。
聖地だからそれが当たり前なのだろうか。
「あ」
そんなツェリルの視線の先、生い茂った木々の向こうに人影が見えた。
(男の、人?)
上半身裸なのと、水飛沫が飛びかっている様子に、水遊びをしているのだろうと思った。
人数は……三人。
視力は良かったが木々が邪魔してその容姿はよくわからず、かろうじて若い男だと言うことだけはわかった。
いや、それだけではない。
(……あれ、何だろう)
中の一人の腰辺りに、何やら赤いものが見えた。
傷というよりは、鮮やかな色に思う。
妙に気になって、もっとよく見ようと身を乗り出そうとしたが、馬車はあっという間に通り過ぎてしまった。
「!」
「ツェリル殿?」
「今、あそこに……」
「どこに?」
アリイェに説明しようと思ったものの、あまりにも一瞬だったせいであれが現実だったのかどうかがあやふやだ。
幻としても、どうしてあんなものを見たのかと不思議に思ったまま、馬車は神殿に到着してしまった。




