第八話 恋しくて
ハミルトン領に帰還したヒューデリカは真っ先にハミルトン伯爵の無事を確認した。
ハミルトン伯爵家の邸宅、ハミルトン伯爵は体調を崩してはいたが、それは呪いのせいだろう。あのあと、新たになにかされたわけではない。
「…呪い?」
「はい」
邸宅の伯爵の自室、ヒューデリカの言葉に伯爵は驚きに目を瞠る。
「身体のどこかに、漆黒の痣のような刻印はございませんか?」
「痣…。そういえば妻が言っていたような」
「それです。それが、おそらく呪いの証」
やはり、と思った。
やはり伯爵の体調は、呪いのせい。その確証だ。
「なるほど…。通りで最近なおさらに体調が優れぬわけだ」
それにドキリとする。
もしも、と考えた。あのマゼイラ公爵の遺体。
あれがもし新たな呪いに使用されていたなら、一番の矛先となるのは伯爵だ。
もしそうだったとして、伯爵がまだ死に至っていないのは護法の地の精霊の加護のおかげ。
それでも、もう時間がない。
「しかし腑に落ちぬ。マゼイラ公爵自身が亡くなっては意味がなかろう」
「私もそれは…。しかし公爵が亡くなったのは揺らがない事実です」
「…そうか」
確かにそこは腑に落ちない。だが、事実は動かせない。
あの死体は間違いなく、マゼイラ公爵だったのだから。
「…ご苦労だった」
ハミルトン伯爵もそれ以上はわからないと判断したのだろう。
そう、静かに告げた。
なにも役に立てなかった。そう気落ちしながら屋敷を出たところで、庭でヴァンデッシュに呼び止められた。その傍らに見知らぬ青年の姿がある。
「初めまして。お嬢さん」
「あなたは」
ヒューザリオンの姿をした自分を「お嬢さん」と呼んだということは、信頼出来る人物だとヴァンデッシュが判断したということだ。
そのヒューデリカの視線を受け止めて、青年の隣に立ったヴァンデッシュが頷いた。
「僕はアンリ。ヴァンデッシュの先輩だ」
「俺が王立魔法学院にいた頃の先輩なんすよぉ」
「そうだったの。私のために動いてくれたと聞いたわ。ありがとうございます」
アンリという名を聞いて思い出す。投獄された自分を解放するため、動いてくれたというヴァンデッシュの先輩。
「いいえー、お気になさらず。
あんなに必死なヴァンデッシュは初めて見たので、面白かった」
「ちょ、先輩! バラさないで!」
アンリが話した初耳の内容に、ヒューデリカは目を瞬いた。
必死? ヴァンデッシュが?
いや、でも、自分が呪いをかけられそうになった時も、必死で。
「いつでもお嬢の前では余裕のある大人の男でいたいって言うか」
「安心しろ。端からそんな余裕はお前にはない」
黙り込んでしまったヒューデリカを余所に、二人はやいやいと話している。
「ひどっ」
「こいつと来たら学生時代から落ち着きがなくてだな」
「でも」
思わず口を開いていたのは、小さな棘のような感情から。
「私、それより早く必死なヴァンデッシュを見たわ」
それにアンリが目を丸くし、ヴァンデッシュがいつのことか理解して頬を赤らめた。
その顔を見たらなんだか棘がなくなって、胸の奥がくすぐったくなる。
「なんだ、お嬢さん。嫉妬か」
「嫉妬…?」
「しかも無自覚と来た」
嫉妬? これが? なんの?
だって、ヴァンデッシュとは出会ったばかりで、ただの護衛で。
「ちょっと先輩! おかしなことお嬢に言わないでくださいっす!」
「思ったこと言っただけじゃん」
「お嬢にそういうこと言っちゃダメなんすぅ!」
楽しそう。
そう思った。
すごく、気心が知れたやりとりに見える。
いつも飄々としているヴァンデッシュが、子どもみたい。
そうだ。
私、ヴァンデッシュのことなにも知らない。
散々ヴァンデッシュをからかった後、アンリは「僕もしばらくここに泊まるから」と屋敷の中に向かっていった。
「もう、アンリ先輩ってば好き勝手しゃべって行っちゃうんだからぁ」
そう不満を零す姿も、ヒューデリカの知らないヴァンデッシュの姿だ。
「じゃあお嬢、俺は調査の続きに」
そう言って自分から離れようとしたヴァンデッシュの袖を思わず摘まんで引いていた。
「待って。まだ行かないで」
その口から思わず出たか細い声に、自分で驚いてしまう。
待って。私こんな声出せたの? なんて。
「お嬢…?」
戸惑ったヴァンデッシュの声が頭上から聞こえる。
身体がそれにカッと熱くなった。
「だから、その」
なにか、なにか言わなきゃ、と焦るほど体温が上がる。
でも、知りたいの。
「昔の話、教えて」
そう、勇気を振り絞って口にした。
「ヴァンデッシュの、昔の話」
じっと見上げた先、目を丸くしたヴァンデッシュはふと仕方ないなあと言うような、柔らかい微笑を浮かべて袖を引くヒューデリカの手をそっと握った。
「不真面目でしたよぉ。サボってばっかりで」
「そうなの」
「ああ、でも実技訓練は好きだったなあ。
幼い頃は身体が弱くてあまり外で遊べなかったからぁ、身体を動かすのは好きなんすよぉ」
「…想像がつかないわ」
そう返すとあなたの声が聞こえる。それだけで楽しくて、嬉しくて。
初めての、感覚。
不意にヴァンデッシュがこちらを見つめて、優しく微笑んだ。
「ねえ、お嬢」
そう囁いて、顔を寄せる。
「お嬢の昔の話も、教えて?」
甘やかな声が、自分を知りたがるのがくすぐったい。
「アーノルド殿下の婚約者だったわ。8歳のときから」
「好きだったんすか?」
「…そりゃあ、でも、」
あれ、いつだったろう。初恋。
少なくとも、アーノルドではなかった気がする。
「初恋のひとだったんすか?」
少し低い声が頭上から降って、目を瞠る。
顔を上げると少し拗ねたような顔をしたヴァンデッシュの表情。
「お嬢は今も、アーノルド殿下が好き?」
『嫉妬か』
アンリの声が脳裏によみがえる。
そうだったらいいのに。
「百年の恋も冷めるわよ」
ふいっと照れ隠しに顔を背けて言ってやる。
「そっかぁ。よかった」
響いた安堵しきった声音が、やけに真に迫った声でまた心拍数が速くなる。
「あなたこそ初恋、いつだったのよ」
素っ気なく口にしたのは、知りたいの裏返し。
「内緒」
「私のは聞いておいて卑怯よ」
「お嬢だってちゃんと答えてくれなかったじゃないっすかぁ」
「そうだけど」
そうだけど、だってわからなかったんだもの。
「本当に、」
不意に優しい声が落ちた。視線を向けると暖かな表情をしたヴァンデッシュがこちらを見つめている。
「本当に、今でも好きなひと。
だから、誰にも見せないんすよぉ」
ちくん、と胸になにかが刺さる。
「…そう」
喉元がせり上がる感覚がして、それしか言えなかった。
王都は夜になっても賑やかだ。
その中を馬車が走っていく。馬車はある邸宅の庭で停まり、そこから一人の少女が下りてきた。亜麻色の髪の、可愛らしい少女。
彼女は邸宅の玄関の警備の兵士になにか言い、中に入る。
長い通路を歩いて、正面の大きな扉を開く。
「来たか。ビビアナ」
男の声が彼女を呼んだ。
壮年の男性が室内の奥の椅子に腰掛けている。
それにとろりと微笑んで、少女──ビビアナは鈴が鳴るような声で尋ねた。
「ご無事ですか?」
「それはもちろん」
答えるのは渋みのある低い声だ。
「なにか余計な真似はしていないだろうな」
「当然です。
ああ、わたしの王子様になってくれそうなひとは見つけましたけど」
「この男狂いめ」
「あら、じゃああなたは権力狂い?」
マゼイラ公爵家の邸宅の中で、ビビアナは女王のように振る舞って笑う。
正面の壮年の男性を見つめて、
「ねえ、マゼイラ公爵閣下」
そう呼んで。