▼第六十八話「母の名は」
(この顔は……俺とそっくりだ!! こ、この女が俺の母親なのかよッッ!!)
さきほど連れの女官を斬り殺した、この残忍な女が自分の母かと思うと——アヌビスは動揺し、顔を歪めた。
会話はぼんやりとしか聞こえなかったが、女官は、母のことをイシュタルと呼んではいなかったか?
セトの顔が、突然思い浮かぶ。
『やはり、そなたはあれに、じつによく似ていますね。姿も気性も瓜二つです』
『あなたの母親は、ひょっとしてイシュタルではないのですか?』
あの冷ややかな声色が、脳内でフラッシュバックし、アヌビスは瞬時に悟った。
あいつは俺の母親がイシュタルだって、知っていたんだ——
すべてのピースがしかるべき場所に収まっていくような感覚、そして震えがアヌビスの全身を貫いた。
(この人が、俺の母親なのか——)
アヌビスの胸が苦しく締め付けられる。知らず、涙を流していた。
圧倒的な寂莫の念、慕情の念、そして、深い悲しみと恨みの念が、心を覆い尽くす。感情の大いなる嵐が同時多発的に各所で荒ぶり、自分がいま何を感じているかさえ、わからなくなった。巨大すぎる感情が、アヌビスを塗りつぶしていく。
(あんたが、俺を捨てたのか……!!!! どうしてだよ!! 俺のことは要らなかったってのかよ!! 俺はその程度の存在だってことか!? なんで俺を愛してくれなかったんだよ!!!!)
慕わしく思う気持ちは、アヌビスにとって不快であった。それは負けを意味するからだ。自分が一方的に関係を断たれたという事実があるのにも関わらず、母を恋い慕うなど、許せなかった。
無意識に、それを感じまいと怒りを掻き立てる。そうでなければ、自分を保っていられなかった。
(チャクラの封印も、こいつがやったのか!! このせいで、俺がどんな一生を送って来たか……!!!! どれほど悲嘆のなかに沈んだ一生だったか、あんたにはわかるまい!!!!)
アヌビスの怒りが奔騰する。
(イシュタル、俺はお前を絶対に許さない……!!!! お前が、俺の人生のすべてをめちゃくちゃにした!!!! お前は、俺の生涯の仇だ!!!!)
アヌビスのハートが黒く濁り、ひびが入った。そして亀裂が広がっていき、中からどろどろとした黒い液体が溢れていく。
そのとき、月明かりに照らされたイシュタルが、おくるみに包まれた赤子に向かって言った。
「恨むなら私を恨め。だがこれもお前の運命だ。私のもとに産まれた、運命を受け入れるのだ」
そしてイシュタルは赤子の手を恐る恐るつつき、赤子は母の指を握った。
アヌビスは感情が千々に乱れ、何もわからなくなったまま、涙だけがとめどなく流れた。
認めたくはなかった。母を恨まねばならなかった。アヌビスは、生涯の仇、生涯の仇、と泣きながらひたすら呟くしかなかった。
「生きるも死ぬも、お前次第だ。アヌビス」
そう言い残して、母は去っていった。残された赤子は、ひとり眠っている。
アヌビスはその光景を見ながら、さんざん泣き喚いた。どうして置いていった、どうして捨てた、どうして俺を封印した、と惑乱し、怒りで頭がおかしくなりそうになる。
ついで、自分は不必要な人間なのだ、無価値な人間なのだ、誰にとっても他愛のないどうでもいい存在なのだ、と信じ込み、その場に力無く座り込んだ。
そして、生きてる価値すらない、と自分を罵った。
死を、想った。
アヌビスのハートの上半分は、すでに砕けてなくなっていた。残る半分も、ひびだらけで時間の問題だった。
(運命を受け入れろ? ああ、いいさ。だったらやってやるよ。お前に復讐するという運命を、俺は受け入れてやるさ——)
そしてついに、すべてのハートが砕けて割れた。
同時に、腹部の大きな黒い痣が黒紫色の光を放った。
光が治まると、痣はアヌビスの胸にまで達していた。目は光を失い、心は寒々しいほどに空虚であった。
(俺は一度死んだ。二度目の人生は、このために与えられたに違いない。イシュタルよ。お前を探して、同じ目に遭わせてやる。チャクラを潰し、復讐する……!!!!)
復讐という新たな生き方を見出したアヌビスは、イシュタルの腹部を裂く想像をして昂り、笑い出した。
「イシュタル、俺の母、そして、俺の仇……!!!! 俺を産み、捨てたことを後悔しろ!!!!」
激していた感情の波が、ようやく収まってきたころ、赤子の鳴き声が周囲に響き渡った。
アヌビスは我に返ると、葦藪をかき分け、赤子を探した。どれだけ自分が切迫した状況であろうとも、赤子の声を無視するほど薄情な男ではない。
そして赤子を見つけて拾い上げた。すでに雲が出てきていて、明かりはないが、内功を目に集中すると、その顔がよくわかる。
それは、ほんとうにかわいい赤子だった。愛くるしくてたまらぬ、珠のような赤子である。
アヌビスは、その子をぎゅうと抱き締めた。
「泣くな泣くな、俺がきた。俺がいる。な? 大丈夫だ。よしよし、よしよし」
赤子はやがて泣き止んだ。するとアヌビスは、赤子の目を見ながら優しい口調で話してやった。
「お前は確かに母親に捨てられた。そして、そのためにお前はこれから数奇な人生を送ることになる。驚くなよ、一度死んで、生まれ変わるんだ。でも、なんだかんだうまくやってる。一回目の人生では、廃品だとか厄病神だとか言われて苦労ばかりだったけど、おかげで人のさまざまな側面を見られたし、いろんなことも身に着けられた。それに、転生してからは武功も使えるようになったし、仲間も出来た。ラーっていうお前の祖父ちゃんもいろいろ教えてくれるし、ハウランって人もいい人だ。ディラっていう盗賊にも出会って、メンネフェル大神殿から宝物を盗み出したりもした! 何度か死にかけたりもしたけど、今はこうしてぴんぴんしてる。つまり、お前は、なんだかんだで楽しく生きられるってことだ」
赤子を安心させてやろうとして言った言葉だったが、言いながら、それがいまのアヌビスの心にも染み渡っていく。
「お前は、お前の人生を、楽しめ、アヌビス。お前の人生は、とんでもなく面白いぞ。すべてを味わえ」
そのとき、イシュタルの言葉が蘇ってきた。
『私のもとに産まれた、運命を受け入れるのだ』
(人から言われると腹が立つだけだけど、自分でそう思うのは、全然腹が立たないな)
アヌビスはどこか達観したように、自身の心の動きを見てくすりと笑った。
(あんたのしたことは許せない。だけど、あんたのおかげで凄く面白い人生を送れてるのは認めよう。それに、受け入れるも受け入れぬもない。もうこの人生を生きているのだから)
アヌビスは赤子をまた抱き締めた。
「小さいお前は、これからたくさんの感情を味わうだろう。俺もいままさに味わっているところだよ。だけど、一緒に乗り越えよう。せっかくの人生だ、すべてを糧にして、めちゃくちゃ面白く生きてやろう」
アヌビスは赤子に優しい気持ち、温かい気持ち、大事だよという気持ち、愛の気持ちを注ぎ入れた。
生まれたばかりのアヌビスは、白い光を放った。
巨大な炉の口から、光が溢れた。同時に、闇のチャクラにまとわりつく黒い鎖が、炉の中で煙のように消えていった。
「よし、成功した!!!!」ラーが叫んだ。そして、倒れたアヌビスに駆け寄り、助け起こした。「しっかりしろ!! ここからが精錬の正念場だ!!」
アヌビスはすぐに気が付いたものの、まだ混乱していた。突然あんなものが見えたのだから、仕方がない。
「あの鎖は心魔だったろう、何を見た?」
「べつに、なんでもねえよ」
アヌビスは親への葛藤のことなど、誰にも話す気はなかった。中身は十七歳、思春期のただ中である。
「ふん、いっぱしの口を聞きよってからに。生意気な奴め」
ラーはどこか嬉しそうですらある。孫の成長を喜ばぬ男ではなかった。
「さあ、仕上げにかかるぞ!」
「応ッッ!!!!」
(つづく)




