▼第三十話「怪物アルマ・ブトゥーリ」
ハウランは、アヌビスの話を聞いてのぼせあがった。すぐさま、駝券売り場へと直行した。
そして、アマル・ブトゥーリの単勝を熱に浮かされるがままに買った。
アヌビスも、アマル・ブトゥーリに、アイシャから貰った路銀の残りをすべて突っ込んだ。
宿も食事もマスダルが用意してくれるなら、問題あるまい、とたかを括っての大勝負だ。
ラーはさすがに小言を言ったが、アヌビスはここだけは勝負させてくれと食い下がった。
「アヌビス、負けても恨まぬぞ」
レースコース、ゴール板の真ん前の柵でハウランが言った。
「ギャンブルは自己責任ですからね」とアヌビスはいっぱしのギャンブラー気取りで言った。
楽隊が現れ出でて、コースの真ん中の砂丘で、勇壮なファンファーレを演奏した。
アヌビスの心臓の鼓動がぐっと高鳴り、こぶしを握り締める。手が汗で濡れている。
駱駝たちが騎手を乗せて、スタート地点の縄まで並ぶ。
そしてスタートのサインである、大きな円い金属板が叩いて鳴らされた。
騎手たちはいっせいに手綱をしごいた。駱駝たちが駆け出していく。
だが、一頭だけ出遅れた駱駝がいた。
アマル・ブトゥーリである。
「うわああああああッッ!!!!!!!!」
ハウランは絶叫した。
「何やってんだ馬鹿野郎、早く追えッッ!!!!!」
アマル・ブトゥーリは、縦に長い駝群の、さらに切れたあたりの最後方を追走していた。
「これは絶対届かないッッ!!!!」がくん、とアヌビスの膝が崩れた。
しかし幸いにもレースは長距離であり、第一コーナーを通過したあたりで、ぐっと流れが落ち着いてきた。
各駝に息の入る展開である。
アヌビスはあわあわとしながら、アマル・ブトゥーリの鞍上を見た。驚くべきことに、騎手はまったくふてぶてしいほど落ち着いていた。
「将軍、ジョッキーは落ち着いてますね」
「レースを諦めてるんじゃないか?」ハウランはすでに諦めている。
「闘志を秘めた顔をしているじゃないですか」
「お前、目がいいな」
常人には豆粒にしか見えない遠さである。それが時速六十キロにも達する速さで動いている。
第七位階のハウランともなれば、もちろんそれが見えるが、アヌビスは第二位階になったばかりではないか、と少々驚いた。
コースの向こう正面で、アマル・ブトゥーリは徐々に位置を押し上げた。ペースが落ち着いているあたりで、少しずつ挽回していく作戦であった。
しかし、そうは言ってもまだまだ後方である。ようやく後方から三番手といったところだ。
三コーナーにさしかかる場面で、徐々に各駝が進出していき、ペースアップしていった。
ここテーベの競駝場は右回りのコースで、三コーナーまで上り坂で、四コーナーから下り坂、直線は平坦というコースである。
アマル・ブトゥーリは坂で脚を使う愚を避け、まだ後方で鞍上ハラーラの手は動いていない。
そして四コーナー入り口で、各駝がいよいよロングスパートを開始する。
下り坂を、加速しながら駱駝たちが駆けてゆく。
ここで、アマル・ブトゥーリの鞍上ハラーラがようやく手を動かした。
まるでぎゅんぎゅんに圧縮されたゴムボールが突如解放されたかのように、アマル・ブトゥーリの筋肉が躍動する。
一完歩ごとに、大外をぶん回したアマル・ブトゥーリが、ぐいぐいと位置を上げていく。
当然のことながら、徒競走でもバイクでも車でも、並走してコースを回るとき、インにいる方が余計な力を使わなくて済む。
外から並走するためには、内にいるものよりもさらに大きな速度が必要とされる。
それをや、並走するばかりか、位置を上げていっているのである。
アマル・ブトゥーリ、強し。
この大レースで、コーナーを外からまったく違う手ごたえで襲い掛かるのは、抜けた実力があると言わざるを得ない。
ましてや、いったんは息の入ったスローペースである。先頭の駱駝たちも脚はまだ十分にある。
それを後方から飲み込んでゆくとは、まさに、駱駝界の怪物である。
四コーナー出口、直線入り口ですでにアマル・ブトゥーリは先頭集団を射程に入れていた。
下り坂での加速をそのままに、物凄い手ごたえである。
ここで鞍上ハラーラが鞭を入れる。アマル・ブトゥーリはこれに応え、ぐっと走行フォームを低く変えた。
「アマル・ブトゥーリ! アマル・ブトゥーリ! 先頭が入れ替わりました! アマル・ブトゥーリ! 二駝身、三駝身、どんどんちぎれてゆきます! これは強い! 六駝身! 七駝身! アマル・ブトゥーリひとり旅!! いま、悠々と、ゴールイン!! 大出遅れをものともせず、見事に勝ちましたのは、四番アマル・ブトゥーリ!! なんと最低人気の駱駝です!!」
実況の声を聞きながら、ハウランとアヌビスは呆然としていた。
なにが起きたのか、把握するのに時間がかかった。
大穴が、きた。
「うおおおおおおおおあああああッッ!!!!」ハウランがついに歓喜の絶叫をした。
「おっしゃああああああああッッ!!!!」アヌビスも拳を握り締めて叫んだ。
アヌビスは余りの興奮に脳が灼け付いてくらくらした。その場でドサッと座り込む。体中の力が、抜けた。大穴馬券的中、涅槃の脱力である。
「でかした!!!!」とハウランがアヌビスの頭をわしゃわしゃとする。
的中駝券は、高額の払い戻しとなるため、事務所の一室でこれを受け取った。貨幣はまだ存在していないため、金や銀での受け渡しとなる。それは、相当な量になった。
ハウランは大金を、アヌビスもかなりの金額を得た。
事務所を出たあたりで、即座にハウランはアヌビスの肩を掴んだ。
「弟子入りさせてくれ!!」
ハウランは本気である。興奮しきっていて、血走った眼をしている。なんでもする覚悟だった。
「将軍、ビギナーズラックですよ、ただの」とアヌビスは汗を浮かべながら言った。
「いいや違う。お前の目は本物だ。俺にはそれがわかる。俺と組んで賭博王になろう」
ハウランの目が、燃えている。
自分が弟子入りを頼もうと思っていたのに、妙なことになってしまった、とアヌビスは後じさりする。
「将軍、俺は賭博王なんて目指してる暇がありません!! 一秒でも速く最強になりたいんで!!」
「お前、そんな才能があるのに……」
ハウランは肩を落としてうなだれた。
「事情は話せないんですけど、ある強い奴に命を狙われてるんです、俺」
「なんと、剣呑な話だな。それは飯を食いながら聞こう」
ハウランは馴染みの店に入ると、アヌビスをたくさんの豪勢な食事でもてなした。どんどん持ってきてくれ、とハウランは店の主人にやかましく言う。
アヌビスは貧しい生い立ちだったから、大衆店の料理でも、とてつもないご馳走に見えた。
「いいん、です、か……!!」
「お前のお陰でこれまでの負けが一気に帳消しになった。どんどんやってくれ」
アヌビスは猛然と魚の香草焼きに手を伸ばした。そら豆を煮た料理や、パンも口に詰め込んだ。みるみるうちに皿が片付いていく。魚料理は豊富で、ナイル川から獲れた新鮮な魚が、焼かれたり蒸されたりして供された。
ハウランはビールを飲んでいる。この時代のビールは、煮たパンに水を混ぜ、甕に入れて発酵させてつくられていた。パンくずが溶けてどろどろになっていて、葦などのストローを使って飲むのが普通だった。そのぶん栄養価が非常に高く、飲むパンのようなもので、子供たちも貴重な栄養源として、ふつうに飲んでいた。貧しい育ちのアヌビスは、肉や蜂蜜が食べられず、パンと古代ビールだけで育っている。肉は貴重で、とても高かった。
だが、その肉の匂いが、どこからか漂ってきた。
そして、奥から、店主が現れ出でた。
なんと、肉をその手に持っているではないか。
アヌビスは思わず息を呑んで固まりついた。
そして、悠々と、いま、店主の手で卓上に運ばれてきた。
アヌビスには、王者の行進よりも高貴に見えた。
「鵞鳥のローストです」
アヌビスは、いま死んでもいい、と思った。その単語、その言葉の、どこをとってもきらびやかに輝いているではないか。
夢か、夢なのか、とアヌビスは信じられない心地で、鵞鳥の肉を口に運んだ。
アヌビスは気絶するかと思うほどの旨味を、生まれて初めて味わった。
(続く)




