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 翌朝、将太が起きたのはいつもよりかなり遅い時刻だった。寝過ごした、と飛び起きてから、冬休みだったっけ、と思い直す。昨夜の夜更かしがかなり効いているようだ。

 寝ぼけ(まなこ)のまま部屋を出ると、すずの笑い声が聞こえてきた。将太は廊下の端までぺたぺたと歩いていき、手すり越しに階下を見下ろした。途端に浩司の顔が見えて、ぎくりとする。将太は思わず一歩後退った。

 すずが何かを言っている声に続いて、浩司の穏やかな低い声が聞こえる。二人が何をしているのかが気になって、将太はもう一度、恐る恐る階下を覗き込んだ。

 大きなツリーに隠れてよく見えないが、どうやらすずはお絵描きをしているらしい。カーペットに寝そべって、白い画用紙の上で一心不乱に手を動かしている。そんな娘の様子を、くつろいだ恰好でソファに座っている浩司が見守っていた。

「できた! ほら、見て、パパ!」

 いきなり大きな声を上げたかと思うと、すずは素早く立ち上がって、あっという間に父親のもとに走り寄った。手に大きな白い紙を持って。

 いかにも得意そうな仕草で差し出されたそれを、浩司がにこにこしながら受け取る。膝の上によじ登ってくる娘に当たらないように気をつけながら、彼は受け取ったものを大事そうに広げてみせた。将太の目の前で、二つの頭が仲睦まじげに寄り添った。

 空いている方の手で娘の背中をしっかりと抱きかかえながら、浩司が大袈裟に感心した声を出す。

「上手に描けたなあ、すず。特にこのヒゲなんか……」

 父親が指差した部分を見たすずが、途端に不満の声を上げた。

「ちがうでしょ、パパ! これはおくつ!」

「おく……? ああ、靴なのか。そうか、それはすまなかった。じゃあ、このもじゃもじゃは何なんだ?」

「サンタさんのおくつには白いふわふわがついてるのよ。知らないの?」

「ああ、知らなかったよ。すずは物知りだな」

「んもお、パパったら、しょうがないわね。じゃあもしかして、おようふくにも おぼうしにも ついてるってこと、知らないの?」

「ああ」

 神妙な顔で浩司が頷く。すずはませた仕草でかぶりをふった。

「だめねえ、パパ。そんなことじゃサンタさんは来てくれませんよ」

 そうだね、ともう一度頷いてから、浩司はすずの頭を愛しそうに撫でた。

「でも、パパはもう大人だから、サンタさんからプレゼントをもらうことはできないんだよ」

「ええっ、そうなの?」

 驚いたような声をあげたすずは、やがてもみじのような小さな手で父親の顔を挟み、かわいらしい仕草で彼の頬にキスをした。

「かわいそうなパパ……」

 つぶやくように言いながら、父親の肩に小さな頭をもたせかける。浩司の顔に、心に染み入るような温かい微笑みが浮かんだ。

 本来ならば、心温まる名場面といったところであっただろう。いや、これが浩司とすず以外の人間であれば、将太も素直に微笑んだはずなのだ。だが、現実には。

 将太の顔は深い哀しみに染まり、その唇はきつく噛みしめられていた。

 ……おじさんのあんな顔、ぼくは見たことがない。

 胸が締めつけられるような心持ちで二人の様子を見つめながら、将太は心の中でつぶやいた。

 なんてわかりやすいんだろう。

 おじさんの本当の子供の、すず。

 おじさんにとって本当は単なるおいっ子の、ぼく。

 おじさんに甘えて当然の、すず。

 おじさんに甘えられない、ぼく。

 そして――。

 サンタクロースがいることを信じて疑わない、すず。

 サンタクロースがいないことを知ってしまった、ぼく。

 おじさんがどちらをかわいがるかなんて、考えなくてもわかるじゃないか。

 苦しい思いに耐え切れず、将太が自室に戻ろうとしたその時。

「あっ、おにいちゃま!」

 すずの天真爛漫な声が吹き抜けのホールに響いた。

 将太は渋々手すりの方に戻り、もう一度階下をのぞき見た。すずが嬉しそうに笑いながら、将太の真下に走り寄ってくる。

 いつもの将太なら、その顔を見ただけで心が温かくなるはずだった。かわいくてしょうがない、と思うはずだった。なのに、今日はどうしてもそんな風には思えない。それどころか、憎しみのような気持ちすら抱いてしまうのだ。

「おにいちゃま、見て! すず、サンタさんをかいたのよ!」

 父親の手から奪い取ったのであろう画用紙を戦利品のように振りかざしながらすずが叫んでも、それに応えることはできなかった。将太は黙ったまま後退り、おにいちゃま、と不思議そうに呼びかけるすずの声を遮るように、自室のドアをバタンと閉めた。

 最後にちらりと見た浩司の顔には、怒っているような、困っているような。すずに向けたものとはまったく異質の表情が浮かんでいた。




 クリスマス・イブだというのに、どうしてこんなに息苦しいのかしら……。

 子供向けのボードゲームに興じている夫と娘の姿を眺めながら、蕗子はぼんやりと考えた。

 一昨日のように将太が部屋に閉じこもってしまった、ということではない。いつもよりだいぶ遅い時間ではあったが、将太は服に着替えてきちんと階下に下りてきたし、遅い朝食も食べた。すずにはいつものお兄ちゃんぶりを発揮して優しく接していたし、クリスマスらしく家族でゲームに興じたりもした。

 だが、浩司を見ようとしないのだ。ただの一度たりとも。そしてその態度は、簡単に叱り飛ばしてしまえるほど単純なものではないようだった。

 将太は今、一人でテレビゲームに向かっている。普段あまり家にいない父親がそばにいてくれることにはしゃいでいるすずとは対照的な態度だ。

 居間という同じ空間にいても、これだけ離れていては……。広すぎる家というのも良し悪しだ、と蕗子は内心でため息をついた。

 津本に昨日の経緯を詳しく聞いてみたが、大方は蕗子の予想通りの内容だった。そう、確かに昨夜の将太は、浩司に謝るつもりでいたはずなのだ。津本との約束を守って。

 ということは、朝起きてから気が変わったということになる。

 浩司は落ち込んでいるし、頼みの津本も心当たりはないというし。これにはさすがの蕗子も困ってしまった。

 だが、のんきに手をこまねいている場合ではない。この緊迫した雰囲気の中でクリスマス・イブのディナーを迎えることだけは避けなければ。この日のために大勢の使用人たちが準備してきたのだ。その努力を無駄にするわけにはいかない。

 すずの午睡を浩司に任せて、蕗子は将太と共にサンルームに向かった。

 ここは蕗子のお気に入りの場所だ。キミが丹精込めて育てている植物と太陽の光でいっぱいのこの部屋は、落ち込んでいる時でも元気をくれる。

 将太が部屋に入ったことを確認してから、蕗子は静かにドアを閉めた。そうして、丈の高い熱帯植物の葉陰に置いてあるガーデンテーブルの方に将太を促す。彼は蕗子に促されるまま、テーブルとおそろいの椅子に従順に腰掛けた。

「さてと」

 軽く組んだ両手をテーブルの上に置きながら蕗子がつぶやくと、うつむき加減の将太の肩がぴくりと震えた。蕗子は将太の顔を覗き込むように、上半身をかがめた。

「それで、将太は何を怒ってるのかな。それとも、拗ねてる?」

「……すねてなんか」

 ないやい、と小さな声が答える。

「じゃあ、何」

 しばらく黙り込んでいた将太は、やがて顔を上げ、強い視線を蕗子に当てた。

「津本はうそつきだ」

 あまりにも意外な台詞に、蕗子は目を見開いた。

 あの『津本信奉者』の将太が、こんなことを言うなんて。

「どうして? 津本さんは絶対に嘘をつかないんでしょう?」

 将太がまた津本を呼び捨てにしたことを諌めるのも忘れて、蕗子は訊ねた。

「だって……」

「だって?」

「……おじさんが、ぼくのこと大好きだなんて言うんだもの」

 それは、将太の口元に耳を寄せなければ聞こえないほど小さな声だった。

 蕗子は安心させるようににっこり笑った。

「じゃあ、大丈夫。嘘なんかじゃないもの」

 だが、顔を上げた将太の目には、まだ反抗的な光が宿っていた。

「蕗ちゃんまで嘘をつくの?」

「どうして嘘だと思うの」

「だって昨日……」

 言いにくそうに言われて、蕗子は大きなため息をついた。

「そうね、昨日の浩司さんは確かに大人げなかったわね。でも、そもそも将太が浩司さんを怒らせるようなことを言ったのが悪かったんじゃないの? 将太だって、自分が悪いと思ったから私のところに謝りにきたんでしょう? だから浩司さんにも謝ろうと思ったんでしょう?」

 すると将太はもじもじした。

「それは……そうだけど」

「でしょう。きちんと納得してくれてたのよね?」

「……うん」

 それでもやはり将太はまだどこか不満そうな ―― いや、不安そうな表情を崩さない。蕗子は将太のそばに椅子を寄せて、膝の上で握り締められている幼い手をそっと包み込んだ。

「ねえ、将太。なぜそんなに疑うの? ただ言葉にしただけでは、信じることはできない? ……私たちが本当の親じゃないから?」

 蕗子の最後の言葉を聞いた瞬間、将太は弾かれたように頭を上げた。

「そんな……そんなこと思ってないよ」

 蕗子は悲しげに微笑み、将太の頭をそっと抱き寄せた。小学校に上がってからこういう類の愛情表現を拒んできた将太も、この時ばかりはおとなしく蕗子の肩にもたれかかる。

「浩司さんも、おばあ様も、すずも、そしてもちろん私も。みんな、あなたが大好きよ。とっても大切に思ってる。だって家族だもの。そうでしょう?」

 蕗子に抱き寄せられたまま、それでも将太は何も答えなかった。

「それとも、そう思ってるのは私たちだけ?」

 蕗子の声が哀しみに揺れる。将太は蕗子の胸の中でぶんぶんと頭を横に振った。

「ぼく……ぼく、家族になりたいよ。本当の家族に」

 うつむいたままの将太の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。

「本当だよ。おじさんと蕗ちゃんの子供になりたいよ。だけど、だけどそんなの無理じゃないか。ぼくの本当のお父さんとお母さんはもう死んじゃってて、ぼくはそのことを知ってて、だから、だから……」

 ぽろぽろと透明な雫をこぼしながら、将太は懸命に訴えた。

「将太……!」

 蕗子は小さくしゃくりあげる体をぎゅっと抱き締めた。熱いものが喉元にせりあがってくるのを感じながら、声を絞り出す。

「ごめん、将太、ごめんね。そんな風に思っていたなんて知らなかった。そんな思いをさせていたなんて、全然気付かなかった。ごめんなさい、本当にごめんなさい……!」

 それ以上の言葉を声にすることはできなかった。哀しげに肩を震わせる薄い体を、胸元にかき抱くだけで精一杯だったのだ。

 この子は一体いつからこんなことを考えていたんだろう。本当の両親の記憶があるということがこんなにもこの子を苦しめていたなんて。そして、そのことにずっと気付かずにいたなんて……。

 生まれた時からずっと一緒にいた、ただそれだけの理由で、将太が遠慮などするはずがないと思い込んでいた。疎外感など感じるわけがないと。

 だが、そうではなかったのだ。蕗子たちと同じように将太も血の繋がりに悩み、甘えきれずに日々を過ごしてきたのだ。そのことに気付いてやれなかった自分の迂闊さを、蕗子は悔いた。

 将太には本当の両親がいて、本人もそのことを知っていて。その事実が、蕗子の心のどこかに垣根を作っていたのだろうと思う。こんなことを言ったら気にするんじゃないか、とか、こんな風に接したらまずいんじゃないか、とか。そうして、無意識のうちに行動を制限していたのかもしれない。そして、きっとそれは将太も同じだったのだ。

 互いが互いに遠慮して、いつの間にかあってはならない溝ができてしまっていた。今回のサンタ騒動は、将太の心が発した無意識のSOSではなかったか――。

 今まで、一体どんな気持ちですずを可愛がってくれていたのだろう。どんな気持ちで蕗子たちのそばにいたのだろう……!

 そう考えると、どんなに謝っても謝り足りないような気がした。

 しばらく二人は、そのままの体勢で思う存分涙を流した。

 やがて、将太のしゃくりあげる声がおさまった頃。蕗子は将太の肩を掴んでゆっくりと体を離した。将太が服の袖でごしごしと目を拭う。蕗子はそばの棚からティッシュを取り出して、将太に渡した。ついでに自分の顔もそれで拭う。

 鼻をかんですっきりすると、将太も落ち着いたようだった。微笑みながら自分を見つめている蕗子に、はにかんだような笑みを見せる。蕗子は再び将太の手を取った。

「あのね、将太。浩司さんも私も、将太の親としてはまだまだ新米なの。それは、将太が私たちの本当の子供じゃないからとか、そんなことじゃなくて。将太は私たちにとって、初めての子供だから。何をするにも手探りで、どうすればいいのかわからなくて。だから、一緒に成長していけたらいいなと思うの」

 将太の反応を探るように、そこで言葉を切る。将太は何も言わず、ただ蕗子の顔を見つめていた。じっと、真剣な眼差しで。

「将太にとっては頼りないかもしれない。じれったくて、歯がゆいかもしれない。でも、縁があってこうして親子になったんだもの、理解し合いたいの。黙って我慢するんじゃなくて、こうして何でも話して欲しいの。そして、一歩一歩進んでいきましょう。みんなで一緒に。本当の家族になるために」

 言いながら、将太の手をぐっと握り締める。

「本当の親子じゃないから家族にはなれないなんて、そんな哀しいことは言わないで。確かに努力は必要だけど、それでも私たちはいつか本物の家族になれると思う。私はそう信じてる。だから頑張ろうよ、みんなで。ね?」

 真剣な表情で蕗子が言うと、将太は無言のまま、深く頷いた。

 蕗子は晴れやかな笑みを浮かべて、将太を抱き締めた。だがすぐに、やめてよ恥ずかしい、と邪険に振り解かれる。それでも蕗子の表情は曇らなかった。いつもの将太に戻ったことが嬉しかったのだ。

「それじゃあ浩司さんとも仲直りできるわよね」

 椅子から立ち上がりながら、何気ない口調で言う。だが、将太の反応はかんばしいものではなかった。蕗子は上げかけた腰をもう一度下ろした。

「そういえば、今朝になったら浩司さんに謝るのが嫌になっちゃったのよね。どうして?」

「……いやになったんじゃなくて……」

 そうつぶやいてから、将太は今朝見たことをありのままに告白した。

 浩司とすずが仲良さそうにしていたこと。

 その時の浩司が見たこともないほど優しい顔をしていたこと。

 すずには何の罪もないのに、憎らしく思ってしまったこと。そして、そんな自分がいやだったこと……。

 黙って将太の話を聞いていた蕗子は、やがて複雑な表情になった。

「そっか。見たことがない、か……」

 そうつぶやき、うーんと唸る。将太は不安そうな、それでいてどこか挑戦的な表情で叔母を見守っていた。

「ね。将太はこの家に初めて来た時のこと、憶えてる?」

 いきなりそう問うと、将太は戸惑ったようにまばたきした。

「えっと……なんとなく……」

「そうよね、まだ三つだったものね……。じゃあ、あの頃の将太が浩司さんにものすごく懐いていたことは、憶えてる?」

 すると将太は、今度は申し訳なさそうにかぶりを振った。蕗子は、そうだよね、とため息をついた。

「うーん、どこから話せばいいのかな……」

 つぶやいて、組んだ手を顎の下に引き寄せる。蕗子は昔を思い出すように、目を遠くに泳がせた。

「あの頃の将太はね、浩司さんのことが大好きだったの。おいたん、おいたんってどこにでもついていって。……ずっと一緒に暮らしていた私より、浩司さんの言うことをきいたのよ? 本気で腹を立てたことも一度や二度じゃなかったわ」

 言いながら、いたずらっぽく睨んでやる。将太は驚いたように目を見開いた。

「浩司さんもあなたのことをそりゃあかわいがって。いい加減にしてちょうだいと思うほどおもちゃを買ったりしていたわ。浩司さんがいる時は、将太の指定席は彼の膝の上で、その隣が私で。そんな私たちをおばあ様が微笑みながら見守っていて。そんな毎日だった」

 そこで蕗子はまたため息をついた。

「それが、いつの間に変わっちゃったのかなあ。なんだか将太はどんどん大きくなって、昔のように甘えてくれなくなっちゃって。すずが生まれて、お兄ちゃんとしての自覚ができたせいかなと思ってたんだけど……。今思えばそうじゃなかったのね。遠慮、してたのよね?」

 優しい声で問いかけると、将太はおずおずと頷いた。蕗子は、そっか、とつぶやいて将太の髪を撫でつけた。

「気付いてあげられなくて、ごめんね。でも、将太も我慢なんてすることないのよ。わがまま言っていいんだからね。怒ることはあっても、それで嫌いになるなんてことはないんだから。いい子でいなくてもいいの。ありのままの将太でいいのよ」

 すると将太は、上目遣いに蕗子を見上げてきた。

「おじさんも……?」

 蕗子は困ったように笑い、将太の頭を軽く小突きながら答えた。

「当たり前よ」

 だが、将太の表情は曇ったままだ。蕗子は、しょうがないわね、と言うように微笑んだ。

「ねえ、将太。それまでずっと自分にべったりだった人が突然離れてしまったら、どう思う?」

 将太が戸惑いがちに、え、とつぶやく。蕗子は微笑んだまま続けた。

「そうね、例えば、すず。すずが将太の顔を見ても走り寄ってこなくなっちゃったら? それどころか逃げるように部屋から出て行っちゃったとしたら? どう思う?」

 将太の幼い顔に、難しい表情が浮かんだ。

「……きらわれちゃったのかな、と思う。何か悪いことをしたかなって」

 蕗子の笑みが深まった。

「でしょう。将太が離れていった時の浩司さんも同じだったの。何か嫌われるようなことをしたのかな、将太はどうしたのかなって、悩んでいたわ。でも最終的には、将太もそういう年頃になったんだって自分に言い聞かせていたみたいだったけど」

 ほろ苦い笑みを浮かべた叔母の顔を食い入るように見つめてから、将太は小さく視線を落とした。

 大人が子供である自分と同じように悩むものなのだとは、にわかには信じられないのだろう。子供の目から見る大人とは、教え導く存在なのだから。

 だが、将太も成長すればわかるはずだ。大人と言われる歳になっても、悩み、苦しみながら目の前の壁を乗り越えていかなければならないということが。大人になったからといって、完璧な存在になれるわけではないということが。

「……ぼく、おじさんのこと、嫌いになったんじゃないよ」

 唐突に、将太がぼそりとつぶやいた。蕗子は微笑み、わかってる、と頷いた。

「……蕗ちゃんも、すずも、おばあちゃんも。みんな、みんな大好きだ」

 それもわかっている。蕗子は黙ったまま頷いて、将太の言葉を肯定した。

「だけど、素直になれないんだ。自分でもどうしてだかわからないけど、いやなことを言っちゃいそうなんだ。でも、そんなこと言ってきらわれるのもいやで……。だから、つい……」

「逃げ出してしまう?」

 言いよどんだ将太に、そっと助け舟を出してみる。すると、将太はこっくりと頷いた。

「それも、浩司さん限定なのね?」

 確認のために訊くと、将太はやはり小さく頷いた。蕗子は安心したように息をついたあと、ふふっと笑い声をあげた。将太が怪訝そうな顔を上げる。

「あのね、将太。それって当たり前のことみたいよ? 今度、朋くんに訊いてごらんなさいな。将太と同じようなことを考えてると思うから」

 くすくすと笑う蕗子を、狐につままれたような表情の将太が見つめてくる。その表情がまた可笑しくて、蕗子はいつまでもくすくすと笑い続けていた。

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