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その頃、将太のことを託された津本はというと。のんびりとした足取りを、自分のねぐらへと向けているところだった。
津本が住居としてあてがわれているのは、脇坂邸の母屋から渡り廊下で繋がっている離れだ。大して広くはないが、かと言って狭いわけでもない。独り者には十分なスペース、というところか。
だが、津本が何より気に入っているのは、プライバシーが十二分に保たれるという点だった。通いの家政婦や定期的に訪れる清掃員、それに二十四時間体制で詰めている警備員たちにわずらわされるのは、まっぴらごめんだからだ。加えて、警備システムセンターの目と鼻の先にあり、内部の一室にシステムが直結しているこの離れは、警備という点においても非常に有利な条件を兼ね備えていた。
自宅の扉の前に到着すると、津本は視線を落として、ふと微笑んだ。
小さな木製の猿がない。
それは本当に小さな、高さにして1センチもないぐらい小さな木彫りの猿で、部屋を出る時にドアの前に置いておくために作られた物だった。侵入者の有無を確かめる単純な小道具だ。
脇坂の敷地に侵入するような輩がこんな離れなど狙うわけがないし、ましてやこんなにわかりやすいトラップに引っかかるはずもない。それはわかっているのだが、そうしなければ気がすまないのだ。習慣は第二の天性なり、という言葉通り、身に染み付いてしまった習慣を削ぎ落とすのはたやすいことではない。津本は今では、用心というよりささやかな楽しみとしてその行為を続けていた。
それに、ちょっとしたこだわりもある。今年は申年だから、猿。来年の干支は酉だから、ひよこ。玄関脇の物入れの中には、元日から使うための小さな木彫りのひよこたちが既にスタンバイ済みだ。長年頼んでいるため、この時期になると特に注文しなくても馴染みの店から新しいものが送られてくるのだ。
今までに不審者が侵入したことはないが、それでも小さな目印がなくなることはある。小さな野生動物に持っていかれたり、幼い闖入者がドアを開けた拍子に吹っ飛ばされたり。そう、今日のように、そういうことが確かにあるのだ。そのため、年明けにはいつも数十個ほどが手元にある。
将太がここに忍び込んだのは今日が初めてではないが、目印が影も形もなくなっているのは初めてだった。普段は誰にも見つからないようにそっとドアを開けているようで、目印はいつもドアの前で控えめに倒れているのだ。
目印がなくなっているということは、そんな気遣いなどする余裕すらなかったということだろう。津本が微笑んだのは、そう想像したからだった。
悩め、青少年。そうやって男は成長するんだ。
心の中でそうつぶやいてから鍵のかかっていないドアを開けると、津本は静かに奥に進んだ。
室内でも靴は脱がない。ここを増築する時に、津本自らがそう注文をつけた。いちいち靴の着脱などしていては、いざという時に身動きが取れないからだ。それに、そうすることにはもう一つ利点があった。
床にくっきりと残った靴跡。子供サイズの小さなものだ。それがまっすぐにクローゼットに向かっているのを確認して、津本はにやりと笑った。
いつの頃からか、将太は何かあるとここに逃げ込むようになった。親でもない、かといって全くの他人というわけでもない、そして気が済むまで放っておいてくれる存在。そんな津本のそばがよほど心地いいのだろう。浩司や蕗子が黙認していることもあって、津本は将太のそんな行動を黙って受け入れていた。
だが、今回ばかりはちょっとした手助けが必要なようだ。津本は寝室のドア枠に左肩をゆったりと預け、左足の前で右足をクロスさせるようにして立ち止まった。
胸の前で腕を組みながら、のんびりとした口調で告げる。
「逃げ出すのはいただけませんね」
クローゼットのルーバー式扉の内側で、将太がびくりと体をすくませる気配がした。津本は更に微笑んだ。
「……にげたんじゃないやい」
まだ少し涙に震える声で、将太が言い返してくる。津本は低い笑い声をあげてから、からかうように尋ねた。
「戦略的撤退、というわけですか」
が、今回の質問に答える声はなかった。どうやらご機嫌を損ねてしまったらしい。津本は軽い身のこなしで体を真っ直ぐに起こすと、のんびりとソファに歩み寄った。
部屋の真ん中には三人がけのソファとテーブルが、そして、壁際にはテレビやビデオデッキ、ステレオなどの機器が所狭しと置かれている。津本にとって、一番安らげる空間だ。特に広い部屋ではないため、雑然とした感があるのは否めないが。
ドアは三つ。一つは寝室へ、もう一つは書斎へ。そしてもう一つのドアが、警備システムセンターに直結している制御室へと続いている。ちなみに制御室は、寝室と書斎、それにもちろん外部からも入れるようになっている。
津本はゆったりとソファに腰掛け、長い足を優雅に組んだ。
「それで、浩司様は何とおっしゃったんです?」
何気ない口調で問う。
しばらくは何の返答もなかったが、辛抱強く待っているとやがて小さな声がした。
「うそをついてたって。サンタさんはいないんだって」
思い出したらまた涙がこみ上げてきたのか、その声は震えていた。
「おじさんは、ぼくのこと、いらないんだよ。ぼく、ぶたれ、たんだよ」
しゃくりあげながらつぶやいて、くぐもった泣き声を漏らし始める。
たったそれだけの説明では、あまりにも脈絡がなさ過ぎて事情がさっぱり掴めないはずだった。だが、津本は将太の言わんとしていることをきちんと理解していた。書斎に仕掛けてある盗聴器で、二人の会話を全て聞いていたからだ。
津本は組んでいた足をほどいて立ち上がり、静かにクローゼットの前に歩み寄った。ルーバーの隙間から、隅の方にうずくまって体を震わせている将太の姿が見える。津本の胸がずきりと痛んだ。
「いらないだなんて、そんなことはありませんよ」
力づけるように、やさしく言う。だが将太はクローゼットの中で泣きじゃくるばかりだ。津本はそっとドアを開け、将太の前にしゃがみこんだ。
「浩司様は、将太様のことが大好きですよ」
「うそだ!」
「嘘なんかじゃありません。私が保証します」
「うそだ、うそだ、うそだぁ!」
立てた膝に顔をこすり付けるようにしながら、将太が叫ぶ。津本は声をあげて泣き始めた少年をしばらく見つめてから、小さな体をふわりとくるみこんだ。
「私が今までに嘘をついたことがありましたか?」
将太の耳元で、囁くように問う。途端に、腕の中の存在が強張りを解いたのがわかった。
「……ない」
津本の胸元から、小さな小さな声が答えた。津本は将太の背中をぽんぽんと叩きながら、にっこりと微笑んだ。
「でしょう?」
その問いに対する答えは、もうなかった。津本にしがみつくなり、将太がわあっと泣き出したのだ。津本は涙と鼻水で服がぐしょぐしょになるのも構わず、ただじっと将太の体を抱きしめていた。気が済むまで泣けばいい、そう囁きながら。
思う存分泣いた後、将太はゆっくりと頭を起こした。そうして、赤くなった目をまっすぐ津本に向けてきた。
「津本は?」
時間が経った今となっては、唐突過ぎる質問だ。だが、津本がうろたえることはなかった。ゆったりと微笑んで、深く頷きながら答える。
「もちろん、大好きですよ。津本は将太様のことが大好きです」
すると将太は、やっと安心したというように口元をほころばせた。が、すぐにまた眉根を寄せる。
「サンタさん、本当にいないの?」
ほんの一瞬、津本は何と答えようか迷った。だが結局、残念そうに頷く。
「私が知る限りでは、世間一般に言われているようなサンタクロースは存在しませんね。モデルになった人物がいるという説はあるようですが」
将太はがっくりとうなだれた。
「……どうして大人は、サンタさんがいるだなんて嘘をつくのかな」
うつむいたまま、不満そうにつぶやく。津本は将太の顔を覗き込んだ。
「さて、どうしてでしょう。将太様はどうしてだと思いますか?」
余裕の笑みを浮かべて問い返してやると、将太は気難しげな表情を浮かべた。その表情があまりにも浩司にそっくりで、津本は軽く目をみはった。
もちろん、二人は実の伯父と甥だ。似ていても不思議ではない。だが、ここまで似ていると思ったのは初めてだ。どちらかといえば実母に似ていると思っていたが――。
「おじさんは、ぼくたちが喜ぶ顔が見たかったから、って言ってた」
むっつりとした顔のまま、将太がつぶやいた。津本はそこで思考を途切れさせて、にっこりと微笑んだ。
「なるほど。では、将太様は? どうお考えですか?」
まだ訊くか、という表情で将太が津本を見る。
その仕草も表情も、本当に浩司にそっくりだった。それを見て津本は、血の繋がりだけではない、もっと根元のしっかりとした部分で二人は繋がっているのだ、と感慨深く考えた。
「……わかんないよ」
津本から目をそらして、将太がぽつりとつぶやいた。そんな将太に、津本は愛しげな眼差しを向けた。
「では、少し話を変えましょうか。将太様は今日から冬休みですが、実は浩司様の会社も今日はお休みなんですよ。ご存知でしたか?」
すると将太は、馬鹿にするなと言いたげに鼻を鳴らした。
「知ってるよ。だって祝日だもん」(注*2004年当時、12月23日は天皇誕生日でした)
「ほう、さすがですね。でも、浩司様は出勤なさるおつもりなんですよ。どうしてだと思いますか?」
問われた将太は、津本の真意がわからないとでもいうように目をぱちくりさせた。津本はにっこりと微笑んだまま、将太の答えを待った。
「……お仕事がいそがしいから、でしょう?」
やがて答えた将太の顔には、自信のなさがありありと映しだされていた。津本はゆっくりとかぶりを振った。
「残念、ハズレです。正解は、『家族全員でクリスマスを過ごすため』。二十五日は土曜日ですが、二十四日は平日でしょう。その日に休めるように、休日出勤なさるんですよ」
将太の顔を覗き込むようにして、続ける。
「浩司様ご自身も、楽しみにしてらっしゃるんです。クリスマスを」
将太の顔に怪訝そうな表情が浮かんだ。
「楽しみに……?」
津本は大きく頷いた。
「そうです」
「大人なのに?」
疑り深い口調で将太が訊く。津本は可笑しそうに微笑んだ。
「大人には大人の楽しみ方がありますからね」
「例えば?」
「例えば、子供たちがプレゼントの中味を見て大喜びするところを見る、とか、子供たちと一緒に遊ぶ、とか。ほらね、いろいろあるでしょう?」
静かに答えて、将太の様子を見守る。将太はもう質問しようとはせず、何かを考え込むようにうつむいていた。
静かな時間が流れる。
このままいつまでも、将太の気が済むまで抱いていてやりたい。それが今の津本の偽らざる気持ちだった。
だが、そういうわけにはいかないのだ。腕時計にちらりと目をやって時間を確かめると、彼は微かなため息をついて将太の背中をぽんぽんと叩いた。
はっとしたように顔を上げた将太に微笑みかけてから、すらりとした長身をまっすぐに伸ばして立ち上がる。将太の細い腕が首にかじりついてきた。
「さあ、そろそろお家にお帰りなさい。皆さんがやきもきしながら待っていらっしゃいますよ」
さりげない口調で告げ、腰を曲げて将太の足を床に下ろす。だが、将太の腕が外れることはなかった。
津本に抱きついたまま、将太は不安そうな声をあげた。
「でも」
「大丈夫。私はこのまま浩司様と会社に向かいますから。車の音がしてからここを出れば、顔を合わせることはありませんよ」
言いながら、優しい、だが断固とした手つきで将太の腕をほどく。最初は抵抗していた将太も、やがて諦めたようにだらりと手を下ろした。
「だって……」
それでもまだ言い募ろうとする往生際の悪い唇に、津本は右手の人差し指をそっとあてた。不安げな瞳を向けてくる将太に、首をゆっくりと左右に振って見せる。将太は肩を落として口をつぐんだ。
「蕗子様にはすぐにお謝りなさい。後になればなるほど言いにくくなりますから。蕗子様になら素直に謝れますね?」
優しい口調で、諭すように言う。だが将太は気まずそうな視線をあちこちにさまよわせるだけで、すぐには頷かなかった。
反論することもできず、さりとて素直に「はい」と言うこともできず、というところか。津本は将太の強情そうな顔をしばらく眺めてから、先ほどより少し強い口調で繰り返した。
「謝れますね?」
しばらく逡巡した末に、将太がようやく首を縦に振る。津本は微笑んで指を離した。
「それと、すず様にも謝っておかれた方がよろしいかと。大好きなお兄ちゃまに何が起こったのかと、泣きべそをかいていらっしゃいましたからね」
その助言には、将太はすぐに頷いた。やはり彼は彼なりに、妹に悪いことをしたと思っていたのだろう。津本は、よくできました、というように将太の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「ここを出る時に鍵をかけるのを忘れないように。いいですね?」
将太はこの家の合鍵を持っているのだ。
「うん。わかった」
やっといつもの元気を取り戻した将太が、明るい声で答える。津本は満足そうに頷いた。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
無邪気に手を振る将太の声を背中に受けながら、津本は出かけていった。一度も振り返ることなく。それは、将太が約束を守ることを信じているという無言のメッセージだった。
しばらく待っていると、津本の宣言通り車のエンジン音が聞こえてきた。将太は窓際に駆け寄って、前庭に続く道を見慣れた車が通り過ぎていくのをじっと見つめていた。車が段々小さくなっていっても、ついには見えなくなっても。将太は窓の外を見つめ続けた。
やがて、将太の口から小さなため息が漏れた。
津本はぼくにうそをつかない。だからぼくも、津本にうそをついちゃダメなんだ。
決意するように心の中でつぶやくと、彼は決然と居心地のいい場所を後にした。
蕗子はキッチンにいた。
朝食の後片付けも終わり、今は誰もいない。すずすらも。
チャンスだ!
将太は、いやなことは急いで済ませるに限るとばかりに、足早に中に入った。
近づいてくる小さな足音に気付いた蕗子が、ちらりと目を上げる。が、その手が止まることはなかった。どうやら今日のおやつを作っているらしい。彼女の手の中にある物体が何になるのかが気になって、将太はじっと目を凝らした。
「それで?」
どれほどの間、夢中になってその作業を見つめていたのだろう。いきなりそう問いかけられて、将太はぽかんとした顔を上げた。
生地をこねる手を止めた蕗子が、ちょっと怖い顔でこちらを見つめている。将太はそもそも何のためにここに来たのかを思い出して、ばつの悪い表情になった。
「……あの」
もじもじとしてから、口を開く。蕗子が問いかけるように片眉を上げた。
「……ごめんなさい」
上目遣いに蕗子を見つめながら、小さくつぶやく。そんな甥の様子を、蕗子はしばらく黙って観察した。
やがて、蕗子の口から大きなため息がもれた。
「しようのない子ね。いいわ、許してあげる。そのかわり」
ほっとしたような笑みを浮かべた将太に釘を刺すように、厳しい声で続ける。
「浩司さんにもきちんと謝るのよ。私からは何も言いませんからね」
将太はしばらく不満そうに黙り込んでいたが、やがていかにも渋々という様子で、はい、とつぶやいた。蕗子には逆らえないと悟ったのだろう。
蕗子はにこりと微笑むと、再び手を動かし始めた。
「それで、今までどこにいたの?」
蕗子の普段通りの態度にほっとして、将太はすかさず、
「津本の家」
と答えてしまった。
あっ、と思った時にはもう遅い。お菓子作りを再開していた手をまた止めた蕗子が、怒った目を向けていた。
「将太……」
お小言を食らう前にと、将太は慌てて口を挟んだ。
「津本って呼んじゃダメって言うんでしょ。わかってるよ」
だが、効果はなかった。蕗子の目は既に三角になっている。
「わかっているのなら、いい加減に直したらどうなの」
「だって、津本がそう呼べって言うんだもん」
言い返しながら、こっそりと逃げる準備を始める。
「それは立場上仕方ないでしょう? だからってそれに甘えて……」
ため息をついた蕗子がちょっと目をそらした隙に、将太はドアに向かって走り出した。蕗子が、あっ、と声をあげる。
「こら、将太、待ちなさい!」
「おやつ、楽しみにしてるよ!」
笑いながら言い返して、将太はばたんとドアを閉めた。背後で蕗子が、もう! と叫んでいるのが聞こえる。脱出成功だ。将太は得意満面で部屋に引き上げた。
その後、すずのご機嫌を取り、朋生のところにも謝りに行くと、いつもの日常が戻ってきた。将太は冬休みの初日を、朋生と野山を駆け回ったり、朋生の両親の仕事を手伝ったりして過ごした。
やがて夜になり、寝る時間になった。
が、浩司が帰ってこない。
仕事が忙しいのだろうか?
蕗子に促されてベッドに入ったものの何かすっきりせず、将太はいつまでも寝付けなかった。