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 その翌朝。

 浩司の予想とは裏腹に、将太はなかなか姿を見せようとはしなかった。将太を待って出社を遅らせていた浩司も、七時を告げる音を聞くとついに立ち上がった。

 この屋敷の二階の廊下は、大きな居間の吹き抜けを取り囲むように設えられている。その廊下に繋がる幅の広い階段を上る浩司の姿を、その場にいる全員が固唾を呑んで見守っていた。蕗子、すず、脇坂夫人は言うに及ばず、キミや、キミの夫であるシェフの関本、通いの家政婦、そして勿論、津本も。昨日の小さな事件のことは、既に屋敷中に知れ渡っているようだった。

 浩司が将太の部屋の前で立ち止まり、力強くノックをした。が、返事はない。蕗子ははらはらしながら事の成り行きを見守っていた。

「将太、開けなさい。起きているんだろう?」

 それでも返事はない。浩司は両手を腰に当てた。

「開けないなら合鍵を使うまでだぞ。それでもいいのか?」

 厳しい声音で最後通牒を突きつけてから数秒後、ドアは小さな音をたてて開いた。

 細く開けた隙間から、将太が覗き見ているのがわかる。状態はどうあれ、とりあえず出てきてくれたのだ。蕗子はほっと胸を撫で下ろした。

「ややこしい話は後だ。とにかくご飯を食べなさい。腹が減ってるだろう?」

 安堵感をにじませた声で浩司が言うと、将太は渋々のようにドアを大きく開いて姿を現した。

 くしゃくしゃになった服は、昨日のままだ。どうやらあのまま眠ってしまったらしい。怒り疲れたのか、それとも泣き疲れたのか。将太の顔を見ても、どちらとは言いかねた。

 不服そうな顔でことりことりと階段を下りてきた将太は、黙り込んだまま自分の席についた。あまりの不機嫌さに、すずでさえ寄り付こうとはしない。いつもなら将太の顔を見た途端に駆け寄るというのに。

 が、間を置かずに運ばれてきた朝食を見た途端、将太はいつもの子供らしい表情になって大きな口を開け始めた。皿の上の食べ物が、みるみるうちに将太の腹に収まっていく。健康な食欲を見せた将太の姿に、皆が笑顔になった。

 やがて将太が朝食をぺろりとたいらげると、浩司は食卓から立ち上がった。

「将太、ちょっと話をしよう。来なさい」

 言われた将太はしばらく迷っていたようだ。が、逃げられないと観念したのだろう、黙って立ち上がった。

 どうやら浩司は将太を書斎に連れて行くつもりらしい。普段は子供たちを入れないようにしているのだが、今回ばかりは特別なのだろう。

 昨日はあんな澄ましたことを言っていたくせに、やっぱり心配なんじゃないの。そう考えて、蕗子は微笑んだ。

 ぐずる娘を義母に任せて、当たり前のように二人の後を追う。だが、固く閉ざされた書斎のドアの前で、蕗子ははたと立ち止まった。

 ドアが閉まっているのは、すずに聞かれては困る話だからだ。だが……。

 もしかしたら、浩司は邪魔をされたくないのかもしれない。例え妻といえども、女性には。歳の差はあれ、男同士なのだ。腹を割って話したいことだってあるに違いない。でなければ、どうして蕗子に声をかけなかったのか。

 そう考えると、どうしてもドアを開けることはできなかった。蕗子はため息をついて壁にもたれかかった。




 一方書斎の中では、表情を固く強張らせた将太と、相手を探るように見つめる浩司が、ローテーブルを挟んだソファに向かい合って座っていた。

 ソファに深く腰掛け、両肘を膝の上に置いて軽くかがみこんでいる浩司と、ぴんと背筋を伸ばして両手を膝の上で固く結んだ将太。どちらがより緊張しているかは明白だった。

「話は蕗子から聞いたよ」

 浩司の口から静かな言葉が放たれる。将太はぴくりと体を震わせた。

「それで、将太はどうしたいんだ。文句を言いたいのか、真実を知りたいのか、それともただ単に拗ねたいだけなのか」

「ぼくはっ!」

 義父の言葉を遮るようにして、将太はきっと目を上げた。

「……ぼくは、本当のことが知りたい。子供だと思ってごまかさないで」

 少年の張りつめた声を聞いて、浩司は頷いた。利発な子だ、ごまかされはしないだろう。

「わかった。それでは、正直に言おう」

 睨みつけてくる息子の視線を受け止めたまま、続ける。

「クリスマスの朝、枕元に置かれているプレゼントは、僕たちが買ったものだ。サンタクロースが置いていったわけではない」

 将太の顔に衝撃が走った。

 覚悟はしていたはずだが、やはり実際に肯定されるのはショックだったのだろう。浩司は胸がずきりと痛むのを感じながら、じっと息子の表情の変化を見守っていた。

「……どうして、だましてたの」

 目に涙をいっぱいためた将太が、ぽつりとつぶやく。浩司は痛ましげに目を細めた。

「騙していたわけじゃない。子供でいられる間くらいは、夢を見ていて欲しかったんだ。サンタクロースがいるふりをすることできみたちが幸せになってくれるのなら、罪のない嘘も悪くない。そう、思った」

 うつむいたまま、しばらく黙って浩司の言葉を吟味していた将太の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

「将太……」

 言いながら立ち上がりかけた浩司は、だが、顔を上げた将太の目を見た途端、動きを止めた。幼い双眸には、はっきりと憎しみの色が浮かんでいたのだ。

「うそはうそじゃないか! うそつき! うそつき!」

 がたんと音をたてて将太が立ち上がる。そのまま飛び出そうとする息子の腕を、浩司はしっかりと掴んだ。

「話はまだ終わってない」

「いやだ! うそつきはキライだ!」

「いいから、聞きなさい! 友達から馬鹿にされて口惜しい思いをしたのはわかる。もう少し早く、本当のことを言っておくべきだった。すまない」

 細い二の腕を大きな手でがっちりと掴まれていては身動きが取れない。将太は義父を睨みつけた。

 だが、そんなことで怯む浩司ではない。射抜くような視線で将太の目を釘付けにしながら、彼はゆっくりと床に片膝をついた。

「だがな、将太。だからといって家族に心配をかけるような真似はするな。特にお母さんには――」

「ぼくのお母さんは死んじゃったじゃないか」

 すかさず将太が言い返す。浩司は一旦口をつぐんで、言葉の本意を探るように小さな顔を覗き込んだ。

「……今のお母さんは蕗子だろう?」

 静かな声をはねのけるように、将太が大きく首を振った。

「蕗ちゃんはお母さんじゃない。蕗ちゃんは蕗ちゃんだ。お母さんの妹だ。ぼくのお母さんは死んだお母さんだけだ!」

「将太」

 浩司の呼びかけを無視して、将太が両手をがむしゃらに振り回す。浩司はその攻撃をよけるように手を離し、腰を上げた。それでも将太は両手の動きを止めなかった。泣きながら、わめきながら、浩司に向かってくる。

「おじさんだってそうだ。おじさんはぼくのお父さんなんかじゃない。ぼくにこんなに偉そうに言う権利はないのに!」

「やめるんだ」

 見かねて、浩司は将太の手首を掴んだ。だが将太の力は存外に強く、子供だからと見くびっていた浩司の手は乱暴に払いのけられた。

「だって、そうじゃないか! すずだってぼくの妹なんかじゃない、ただのいとこだ!」

 どんどんと浩司の胸に握りこぶしを叩きつけながら、将太が涙ながらに叫ぶ。

「なのに何だよ、いつだって『お兄ちゃんなんだから』ってぼくにがまんさせて! 蕗ちゃんもおじさんも、ぼくのことなんかどうだっていいんだ。すずの方がかわいいから、すずばっかりかわいがるんだ!」

「何を言っている」

 浩司の声にも、さすがに苛立ちが混じり始めた。だが、将太の勢いは止まらない。

「本当はぼくなんかこの家からいなくなればいいと思ってるんだ!」

「そんなこと思ってるわけがないだろう! いい加減にしないか!」

「うそだ! うそだうそだうそだ! サンタさんのことだってうそだったじゃないか! おじさんの言うことはうそばっかりだ!」

「嘘じゃない!」

「信じられるもんか! もう信じない! おじさんの言うことも、蕗ちゃんの言うことも信じない! ぼくはこの家ではじゃまものなんだ! いらない子なんだ!」

「将太!」

 バシッ。

 静かな書斎に、乾いた音が響いた。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。わかっているのは、将太の手首を掴もうとしていたはずの両手が、未だに何も掴んでいないこと。憎々しげな目を真っ直ぐにこちらに向けていたはずの将太の顔が、いつの間にか横を向いていること。そして……。

 右の手のひらが、じんじん痛むこと。

 将太が信じられないというような表情でゆっくりとこちらを向き、やがてぼろぼろと新たな涙をこぼし始めた。左側の頬が赤くなっている。それを見て初めて、浩司は自分が何をしたのかを悟った。

「す……」

 自分の右手首をきつく握り締めながら、口を開く。が、言葉を発したのは将太の方が先だった。

「おじさんのばか! 大きらいだ!」

 そのまま、声をあげて泣きながら部屋を出て行ってしまう。小さな後ろ姿がものすごい勢いで走り去るのを、浩司はただ呆然と見送るしかなかった。




 いきなりドアが開いて、将太が弾丸のように飛び出してきた。蕗子は驚いて身を起こし、慌てて彼を呼び止めた。

「将太?」

 ぐるりと振り返った将太の顔は、涙と鼻水で目も当てられない様子だった。だがそれよりも衝撃だったのは、将太の頬が微かに赤くなっていることだ。蕗子は信じられない思いで口をつぐんだ。

「おじさんも、蕗ちゃんも、大きらいだ!」

 それだけ言うと、将太はまた走り出した。

 追おうとした蕗子の肩を、何かが引き止める。

 津本だった。

 一体いつの間に、と目を白黒させている蕗子に微笑みかけると、彼は、あとは私が、とだけ言い置いてゆったりと歩み去った。

 しばらくどうしようか悩んだ末に、蕗子は将太のことは津本に任せようと決めた。津本の自信に満ちた足取りは、将太がどこに向かっているかわかっているようだったからだ。

 それに、将太は昔から津本に懐いていて、何かあると決まって彼のところに逃げ込んでいた。他愛もないことから将太なりに深く悩んでいることまで、他の誰に話せないことでも、津本には話せるようなのだ。

 いつだったか、そのことを津本に愚痴ったことがある。その時彼は、男には親に言えないことがたくさんあるんですよ、と笑いながら言っていたっけ……。

 この時ほど津本の存在をありがたく思ったことはなかった。蕗子は既に見えなくなっている津本の後ろ姿に向かって、深々と頭を下げた。そして、開けっ放しだったドアから書斎に入った。

 浩司は頭を抱え込んだ格好でソファに沈み込んでいた。そのあまりにも悄然とした様子に胸が痛む。蕗子はそっとドアを閉め、肩を落としている夫のもとに歩み寄った。

 浩司はまだ蕗子の存在に気づいていないようだ。蕗子は静かに手を上げ、彼の肩に優しく置いた。

 浩司の体がぴくりと震える。やがて彼はゆっくりと顔を上げて、妻の顔をぼんやりと眺めた。その口元が苦悩を押し隠すように固く引き結ばれているのを見て、蕗子は彼の肩に置いた手に力をこめた。

「……将太は?」

「津本さんが」

 蕗子の簡潔な答えに、浩司が、そうか、と頷く。蕗子はそれ以上何も言わず、ただ静かに浩司の右隣に座った。

 やがて、浩司が右手を自分の顔の前に持ち上げた。その手は少し震えていた。

「……すまないと、言うつもりだった」

 蕗子はそっと夫の右手を握り締めた。

「僕は……父親失格だな」

 苦悩に顔を歪めながら、浩司がぽつりとつぶやく。蕗子はだらりと力を抜いた右手に何度も口づけた。

「どうして?」

 蕗子と目を合わせないまま、浩司は捨て鉢な笑いを漏らした。

「子供を殴るような親には決してなるまいと思っていた。なのに僕は」

「殴ったりしてないじゃない」

 先を言わせまいとするかのように蕗子が素早く言葉を挟むと、浩司はものすごい形相で振り返った。

「殴ったさ! 見ろよ、この手を! こんな大きな手で、あんなに小さな子の頬をぶったんだ! こんなひどい父親がいるか!?」

「殴ったりなんかしてない。殴るっていうのは、悪意が必要なのよ。そんなもの、なかったでしょ?」

 冷静に言い返されて、浩司は言葉を失ったように黙り込んだ。が、すぐに目をそらしてしまう。

「……まことしやかに屁理屈を言わないでくれ」

 苦しげに言いながら、蕗子の手を振り払おうとする。その手を離すまいと、蕗子はすかさず言い募った。

「それに、手加減したでしょう?」

 一瞬口をつぐんでから、浩司は掠れた声で答えた。

「……とっさに、少しぐらいは」

 蕗子はほっとしたように微笑んだ。

「ほらね。思い切り殴るなんてこと、できっこない。だって、あなたはあの子を愛してるんだもの。父親失格だなんて、そんなこと絶対無いわよ」

 しばらくうつむいて考えこんだ後、浩司は再び顔を上げた。その顔には弱々しい笑みが浮かんでいた。

「そうだといいが」

「私がそうだと言ったらそうなの!」

 夫の弱気を断ち切るように、強い口調で断言する。浩司は妻の強気な瞳をしばらくじっと見つめてから、口元をふっとほころばせた。

「きみには参るよ。女は強いな」

 蕗子は安心したようにふふっと笑うと、浩司の腕に腕を絡めた。

「いーえ、違います。女じゃなくて、母が強いのです」

 浩司の顔に、やっと明るい表情が浮かぶ。ぎゅっと抱き締められながら蕗子は、優しい夫がこれ以上傷つかなければいいが、と願わずにはいられなかった。

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