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夢を見ていた。ふわふわと、雲の上で揺られている夢。
蕗子は雲の手触りを確かめようと、そっと手を伸ばした。
が、実際に触れたのは雲のように不確かなものではなく、上質な布の感触。蕗子は軽く眉根を寄せて、ゆっくりと瞼を上げた。
途端に、夫の横顔が視界いっぱいに広がる。いつもなら優しい笑みを浮かべているそれは、今は気難しげにしかめられていた。
どうやら、居間で夫の帰りを待っている間にうたた寝してしまったらしい。確かな足取りで寝室へ運ばれながら、蕗子はひそやかなため息をついた。
「待たずに先に寝ていなさいといつも言っているだろう」
突然、浩司がむっつりとした声を出した。ちょっと身じろぎしただけなのに、目覚めたことがばれてしまったらしい。蕗子は少しためらってから、小声で反論を試みた。
「……それはそう、なんだけど」
「だけど、じゃない。今は大事にしなければならない時期じゃないか。ソファでうたた寝するなんて、もってのほかだ」
確かにその通りだ。蕗子はしゅんとうなだれた。
「ごめんなさい」
素直に謝る。すると浩司は口の端にちらりと笑みを乗せて、蕗子の額に唇を寄せてきた。
「そうこられると、いつまでも怒ってはいられないな。何か理由があるなら、言ってごらん」
そこで夫婦の寝室に着いた。浩司が足を止めたことでそうと知って、蕗子は手を伸ばしてドアを開けた。
途端に広がる、青白い光。
寝室は、透明な月の光輝に満たされていた。今宵は満月。窓の向こうの中空に浮かぶ冴え冴えとしたそれが、まるで二人の姿を見守っているように見える。浩司は月明かりに照らされたベッドの上に、愛しい妻をゆっくりと下ろした。
「もうだいぶ遅いの?」
ベッドに体重を預けながら、蕗子が囁くような声で訊く。浩司は不安そうな妻の唇に軽いキスを置くと、笑いのにじんだ声で答えた。
「いや、そうでもない」
さらりと言ってから、思い出したようにくっと笑う。
「僕の帰りが早かったことに感謝してくれよ。もっと遅ければ、今頃キミさんにこっぴどく叱られてたんだぞ」
キミとは、この屋敷の住み込み家政婦のことだ。といっても、浩司が生まれる前から脇坂家に仕えているため、使用人というよりは家族のような存在なのだが。
そんなキミの現在の最大の関心事は、もちろん蕗子の妊娠だ。そのこと自体はありがたいと思っている。だが。
問題は、キミが言うところの「妊娠中の『べからず』集」なる代物なのだ。
あれは駄目、これも駄目、と生活を制限される。腫れ物に触るように扱って、簡単な家事もやらせてくれない。しかもことあるごとに、もっと体を大事にしろという類のお小言を頂戴するのだ。気遣ってくれるのはありがたいが、今の状況には心底うんざりしている、というのが蕗子の正直な気持ちだった。
そんな状況で、ソファでうたた寝しているところをキミに見つかりでもしたら!
監視体制を更に強化された自分の生活を思い浮かべて、蕗子はぶるっと身震いした。唯一の住み込み家政婦であるキミは、就寝前に必ず家中の戸締りと消灯を確認する。浩司の脅しはあながち嘘ではないのだ。
「いやね、もう、脅かさないで!」
開け放されたままのドアを閉めに向かっていた浩司は、蕗子の恐れおののいた表情を見て声をあげて笑った。
「脅かしてなんかいないさ」
ドアが静かに閉まる。すると居間の吹き抜け部分に下がっているシャンデリアの灯りが寸断されて、室内に残る灯りは月の光だけになった。
青白く透き通った光を浴びて、浩司がこちらに向かってくる。ダークグレイのスーツの上にキャメル色のカシミヤのコートを羽織った彼の姿は、この世のものではないのではないかと思うほどに凄艶だった。
「それで?」
うっとりと夫に見惚れていた蕗子は、とっさにはその質問の意味を理解できなかった。
「それで、って?」
きょとんとして問い返す。すると浩司は可笑しそうな笑みを浮かべた。
「だから、僕の帰りを待っていた理由だよ。何かあったんだろう?」
「あっ、そうだった!」
蕗子は慌てて起き上がった。
「おいおい、しっかりしてくれよ」
そう言って笑う夫に、蕗子は将太が学校から帰ってきた時の出来事を詳しく話して聞かせた。その間に浩司は、コートを脱ぎ、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外してくつろいだ格好になっていく。
ワイシャツの袖からカフスボタンを外してサイドテーブルに置くと、彼は蕗子の隣に腰をおろした。
「そうか。まあ、いつかはそうなるだろうと思っていたが」
呑気にそんなことを言う。蕗子は夫をにらみつけた。
「そんな他人事みたいに。将太はお昼も晩も何も食べてないのよ?」
「そりゃあ腹が減ってるだろう」
「んもう! だから、その他人事みたいな口調は何なの? もうちょっと心配してくれたっていいじゃない!」
「まあまあ、落ち着いて。子供はいつまでも小さいままではいられないものさ。反抗するのは成長した証拠だ。心配するどころか、喜ぶべきだと思うがね」
あくまでも冷静な浩司に、蕗子はむっとした声で反論した。
「将太はまだ小学二年生なのよ。そんな風に理路整然と考えられるものではないわ。考えてもみて。あの子は、自分が今までずっと信じてきたことを、面と向かって否定されたのよ? ショックを受けて当然でしょう? 将太にとっては、成長云々というレベルの話じゃないのよ」
すると浩司は苦笑を浮かべた。
「そうなのか。僕は何も信じさせてもらえない子供だったから、よくわからないな」
いきなりそんなことを言われて、蕗子は言いかけていた言葉を飲み込んだ。口をつぐんで、夫の顔を見上げる。
いつも通りの優しい顔。だがその瞳には、精神的に恵まれなかった子供時代に育まれた、痛みの色が宿っていた。
少しためらってから、蕗子は夫のうなじに手を置いた。ちょっと力を入れただけで、浩司が頭を下げてくれる。二人は穏やかなキスをかわした。
心ゆくまで互いの唇を味わってからゆっくりと離れ、しばし見つめ合う。浩司が唇の端にちらっと笑みを浮かべて、蕗子の体を軽々と持ち上げた。そのまま硬い太腿の上に横抱きにされる。蕗子は浩司の胸にもたれかかった。
浩司は蕗子の肩と腰を、蕗子は浩司の腰を。お互いの体をいつくしむように抱きながら、二人は会話を続けた。
「何も信じさせてもらえなかったの?」
囁くような声で蕗子が問う。
「ああ」
対する浩司の声も、聞き取れないほど小さかった。
「サンタクロースも? トナカイも?」
「クリスマスに限ったことじゃない。神も、仏も、愛情さえも。何もかも父は否定した。目に見えないものは信じない。信じられるのは自分と数字だけ。そんな人だった」
蕗子は浩司を抱く腕に力をこめた。
「辛かった?」
「いや」
くすっと笑って浩司は答えた。
「元々無いものを惜しむことはできないからね。辛いと感じたことはなかったよ。それどころか、クリスマスを祝う人たちを蔑んでさえいたかもしれない。子供の頃の僕は、父と同じように目に見えないものは信じない主義だったから」
こんな風に最近の浩司は、過去の出来事を時々、ぽつりぽつりとではあるが話してくれるようになった。その度に蕗子は、父親に気に入られようと必死に努力している男の子の姿を夫の中に垣間見る。そして、精一杯慰めてあげたくなるのだ。蕗子は夫の体をぎゅっと抱き締めた。
だが今回は、夫の言葉の中に気になることが一つだけ含まれていた。しばらく夫を抱擁した後、蕗子はふっと息をついて腕を緩め、彼の瞳をのぞきこんだ。
「……じゃあ、今は?」
蕗子と結婚してから浩司は、広い居間に二階の廊下にまで届くような巨大なクリスマス・ツリーを毎年欠かさず飾ってくれている。身内だけではなく、家で働く全員にプレゼントを用意してくれてもいる。だがそれは、無理に合わせてくれていたのだろうか。本当は、くだらないと思っていたのだろうか……。
浩司は無言のままもう一度頭を下げて、蕗子の不安を吹き飛ばすようなキスをした。彼の愛情を疑うことなどできないようなキスを。
熱く長い時間を過ごしたあと、二つの唇が名残惜しげに離れる。だが、シルエットは一つになったまま離れなかった。浩司は蕗子を腕の中に閉じ込めたまま、静かに話しだした。
「今は、楽しいよ。きみがいて、子供たちがいて、母も幸せそうで。クリスマスを祝うことがこんなに楽しいとは思わなかった。サンタクロースがいるふりをしてこっそりプレゼントを用意する時間も、サンタクロースに手紙を書いている子供たちを眺める時間も。その全てが愛おしい。時々、こんなに幸せでいいのかと思うことがあるくらいだ」
「浩司さん……」
「将太のことはあまり心配するな。明日、話してみるよ。腹が減っているだろうから、朝になれば部屋から出てくるさ」
「でも、何て言うの?」
「正直に話すしかないだろう。サンタクロースなどいないんだから。ただ、すずにはもう少し黙っておいて欲しいと頼むつもりだ」
浩司の言葉をじっくりと吟味してから、蕗子は頷いた。
「そう、そうね、そうするしかないわね」
「ああ」
安心したように寄りかかってくる妻の唇にもう一度だけキスを落とすと、浩司はそっと体を離した。
「風呂に入ってくる。眠かったら先に寝ていなさい」
だが、蕗子は手を離さない。浩司が戸惑っていると、彼女の顔に妖艶な笑みが浮かんだ。
「後で一緒に入ればいいじゃない」
蕗子が言いたいことを察して、浩司は眉間に皺を寄せた。
「……それは構わないが。大丈夫なのか?」
「もう安定期に入ってるから、大丈夫だってば」
「だが……」
「いやなの?」
蕗子がからかうように訊くと、浩司は素早く否定の言葉を吐き出した。
「そんなわけないだろう」
蕗子の顔に、満面の笑みが浮かぶ。
「じゃあいいじゃない」
それでも浩司はためらった。蕗子はどちらかといえば悪阻が軽い方らしいが、それでもやはり朝方は辛そうなのだ。
「……寝不足は体に良くない」
「お昼寝するから、いいの」
『全く、ああ言えばこう言うんだから』。普段からよく妻に言われている言葉が、ふと頭をよぎる。浩司は、今回ばかりはその言葉をそっくりそのままお返しするよ、と内心でぼやいた。
だが、こんなにも甘美な誘いを断ることなど、できるはずがあるだろうか? 愛しい妻を抱きたいと思う気持ちがあふれそうになっている、今、この時に。
浩司は諦めのため息をついた。
「後悔しても知らないぞ」
ちっとも凄みの効いていない脅し文句を最後に、二人の躯はシーツの波に呑み込まれていった。