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その日は十二月にしてはぽかぽかと暖かい日だった。室内には、テラスに面した壁一面のガラスから冬の陽射しがあふれんばかりに注がれている。
吹き抜けになっているリビングの床から天井までを覆うそのガラス壁は、防弾仕様になっていた。下部は折れ壁式のドアになっており、今は女主人の意向で全て開け放たれている。
そのドアを抜けてすぐの場所から聞こえる、小さな少女の声に耳を傾けながら編み物をしていた女主人は、ふと顔をあげて微笑んだ。
温かい色調のレンガが敷きつめられたテラスには、彼女の四歳になる娘と夫の母がいる。暖かいからというので、ひなたぼっこを兼ねて遊んでいるのだ。頭を寄せ合ってくすくすと笑い合っている姿は、まるで友達同士のように見えた。
壁にかかっている時計を見上げて時間を確認すると、彼女は編み物を置いてゆっくりと立ち上がった。すらりとした体を真っ直ぐに伸ばして、テラスに向かう。母親の姿を認めた少女の顔が、ぱっと明るくなった。
「おにいちゃま、かえってきた?」
勢い込んだ口調で、少女が訊ねる。母親は微笑んだまま、ゆっくりとかぶりを振った。
「いいえ、まだよ。今日は終業式だから早く帰ってくるはずなのに、遅いわね。先にお昼をいただきましょうか? お腹がすいたでしょう?」
すると少女はむっとしたように頬を膨らませた。
「おにいちゃまといっしょじゃなきゃイヤ! すず、まつもん!」
はきはきとした口調でそれだけ言うと、彼女はもう母親には興味を失ったとばかりに手元のおままごとセットに目を戻した。
そう言うと思った、とばかりに苦笑している母親に、祖母が声をかける。
「私たちはいいから、蕗子さんは先におあがりなさいな。あまりお腹が空きすぎると、また気分が悪くなるのではないの?」
心配そうに言う彼女の視線は、目の前の女性の腹部に注がれている。それは柔らかな生地でできたスリップドレス風のジャンパースカートをひそやかに押し上げて、ほんのりとした隆起を見せていた。
脇坂蕗子はいたずらっぽく微笑んだ。
「実はさっき、キッチンに行ってちょっとつまんできたんです。だから大丈夫」
するとすかさず、
「あーっ、ママ、ずるーい!」
という幼い抗議の声があがった。
蕗子と脇坂夫人は顔を見合わせてから、声を揃えて笑い始めた。
四歳という年齢ながら、すずは驚くほど口が達者だ。それどころか、大人顔負けな台詞を言ってのけることなど日常茶飯事なのだ。男の子しか知らなかった蕗子にとって、すずと過ごす毎日は驚きの連続だった。
「仕方ないわよ、すずちゃん。ママはお腹の中にいる赤ちゃんの分も食べなくちゃならないんだもの。すずちゃんだって、赤ちゃんが元気な方がいいでしょう?」
笑いをにじませた口調で祖母に言われると、すずは渋々というように頷いた。
「うん……じゃあ――」
その時、玄関のドアが開く音がした。
「おにいちゃまだ!」
すずがぱっと顔を輝かせて走り出す。
だが、後に残された蕗子と脇坂夫人は、怪訝そうに顔を見合わせていた。ドアの開け方があまりにも乱暴だったのだ。将太は普段そんなことをする子ではない。
首をかしげながらも玄関に向かった蕗子と脇坂夫人の目の前で、居間のドアがばたんと開いた。びっくりしている二人の目の前を、ものすごい勢いで小さな影が通り過ぎていく。ばたばたと階段を上っていくその影を、蕗子は階段の手すりに手をかけながら呼び止めた。
「将太? 一体どうしたの?」
すると少年は立ち止まり、くるりと振り返ってものすごい形相で蕗子を睨みつけた。
「蕗ちゃんのうそつき!」
言うなり、また走り出す。彼は自分の部屋の前まで来るとドアを開け、派手な音をたててそれを閉めた。
一連の出来事を呆気に取られたように眺めていた大人たちは、またもや顔を見合わせなければならなかった。
「おにいちゃま、どうしたの?」
半べそをかいたすずが、蕗子の脚にすがりつく。蕗子はすずの頭を撫でながら、一緒にいるはずのもう一人の少年を目で探した。
蕗子の様子でそうと察したのか、ドアの陰から現れた少年がおずおずと進み出てきた。その顔に罪悪感を見つけて、蕗子は安心させるように微笑んだ。
「お帰りなさい、朋くん。いつもありがとう」
少年は、敷地内にある一軒家に住んでいる庭師一家の息子、朋生だった。蕗子たちが脇坂邸に来た時からずっと、将太と仲良くしてくれている。
「ただいま帰りました」
とお行儀よく頭を下げた後、朋生はしばらく黙り込んだ。蕗子が問いかけるように首をかしげるのを、上目遣いに見ている。やがて彼は思い切ったように顔を上げて、口を開いた。
「あのね、あの……。将太くんが怒ってるのは……」
言いかけて、あっというように言葉を切る。可哀相なくらい萎縮しながら『将太さま』と言い直す彼を、蕗子はやんわりと咎めた。
「いいのよ、いつも通りの呼び方で。お友達でしょう?」
気がつくたびにそう諭してはいるのだが、家に帰るとやはり両親から厳しく言われるのだろう、大人たちの前ではいつも言いにくそうに、『将太さま』と友人を呼ぶ彼だった。
「あの……」
だが、そう言ったきり、朋生は黙りこんでしまった。
よほど言いにくい話なのかしら?
怪訝そうに眉をひそめた蕗子は、朋生がすずをちらちらと盗み見ていることに気がついた。すずがいてはまずい話なのか、と察して、すずを義母に託す。最初は少しぐずったすずも、やがて義母に連れられてテラスの方へ姿を消した。
「さて、これで二人だけよ。将太があんな風に帰ってきた訳を聞かせてくれる?」
すると朋生は、せき止められていた水が流れるような勢いでまくしたて始めた。
「サンタさんなんです。クリスマスの話になって、サンタさんがいるとかいないとかって言い合いになって。将太……さまは、絶対にいるって頑張ったんだけど、吉田くんや中西くんが、そんなの嘘っぱちだって。プレゼントをくれるのは親なのに、そんなことも知らないのかってバカにして……。しょ、将太さまは真っ赤な顔をしてぼくを見て、いるよなって」
朋生の目に、みるみるうちに涙が溢れ出した。
「ぼ、ぼく、去年、見ちゃったんだ。お父さんとお母さんがプレゼントを置くところ。サ、サンタさんを見てみたくて、いっぱいお昼寝して、夜、遅くまで起きてて……。そしたら、そしたら、来たのはお父さんと、お、母さんで、ぼ、ぼく、ぼく、そのことは、言わなかったけど、嘘、つけなくて、サンタさんがいるって、言えなくて、しょ、将太さまは、それ見て……」
涙をぽろぽろこぼしながら、しゃくりあげながら、朋生が一生懸命説明してくれる。つたないながらも、精一杯。
大体の事情を理解した蕗子は、朋生の前にそっとかがみこむと、ポケットからハンカチを取り出した。彼の汚れた顔を拭い、小さな両手をしっかりと握り締める。朋生は赤く潤んだ瞳をまっすぐに蕗子に向けてきた。
「ありがとう、朋くん。よくわかったわ。でもね、朋くんが悪いんじゃないのよ。誰も悪くない。私だって子供の頃、そうやって友達と喧嘩したことがあるもの。だから、朋くんが気にしなければならないことはなにもないの。ほんとよ。将太だって今は怒ってるかもしれないけど、すぐに元に戻るわ。その時にはまた遊んでやって欲しいの」
微笑みながら、ゆっくりと、子供にも理解できる言葉を選んで話しかける。しばらく鼻をぐすぐす言わせていた朋生も、やがて小さな顔に笑みを取り戻したようだった。
「将太のことを考えてくれて、本当にありがとう。あなたみたいなお友達がいて、将太は幸せだわ」
恥ずかしそうに笑う朋生を玄関まで送っていき、家に向かって駆け出す小さな後ろ姿をしばらく見送る。そして、蕗子は再び居間に戻ってきた。
さて、どうしよう。
立ち止まって少し考え込んでから、とりあえず階段を上ることにする。将太の部屋の前で立ち止まると、蕗子はドアを小さくノックした。
「将太? お昼にしましょうよ。みんな、将太が帰ってくるのを待ってたのよ」
すると、ドアの向こうからくぐもった声が返ってきた。
「いらない!」
どうやらふててベッドの中にもぐりこんでいるらしい。
「でも、おにいちゃまと一緒に食べるってすずが頑張ってるの。将太が来ないとすずも食べてくれないかもしれないわ」
「そんなの知るもんか! もう放っといてよ!」
これは一筋縄ではいかなそうだ……。
そうと悟って、蕗子は重いため息をついた。
「……じゃあ、お腹がすいたら下りていらっしゃい。将太の分は残しておくから」
が、返ってきたのは完全な沈黙。
頑固な将太のことだ、今は何を言っても無駄だろう。
言い募りたい気持ちを抑えて、蕗子はそっとその場を辞した。