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過去とともに踏み潰す  作者: 鈴風 揺音
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第一話「名前は」

 世界を救うのは、救う力のある人がすればいい。自分を変えるのは、変えることができる人がやればいい。できないからと言って嘆く必要はないんだよ。与えられた配役を一生懸命やればいいってこと。

 もし、今できないことに挑戦することに迷っているなら、やりたい挑戦だけやればいい。

 やりたくもない挑戦は決意の無駄だよ。



 同級生たちから騙されたんだと気づいたとき、真っ先に湧き出た感情は「あ、そうなんだ」という怒りでも戸惑いでも、ましてや悲しみでもないなんとも他人事のようなモノだった。


 六月二三日。二泊三日の合宿最終日の朝。時刻は九時を一七分ほど過ぎていた。僕は旅館の玄関先にいるが、そこには乗ってきた大型バスも部活の顧問やチームメイトたちの姿はどこにも見当たらない。入り口横の「県立白木丘高校バスケ部御一行様」と達筆な字で書かれた歓迎の看板を早くも従業員の人が外し始めている。

 そうしてこうなったのか、ことの発端なんて案外単純だった。いつかこんなこと起きるんだと予想はしていたが、まさか今日だとは。そこまでは範疇の外だった。


 三十分前だ。

「なぁ、北原。俺さ、部屋に忘れ物しちゃってよぉ。取ってきてくんね?」

 副部長の青山がニヤニヤしながら僕に話しかけた。高身長でうちの部のエース兼一番の人気者。校則にギリギリ引っかからないくらいの茶色いマッシュヘアに黒いマスク、いかにも陽キャというやつだ。実際そのときも女バスのメンバーとの話で盛り上がっていたようで、彼の後ろには三人ほど同様にカースト上位の生徒が青山とおんなじ表情でこちらを見ていた。

「何を、忘れたの?」

 僕は了承の返事の代わりとして忘れ物の内容を聞いた。視線は彼の首元あたりに向けながら。

「あー、ピアス。金色のヤツでさ、テーブルの上にあるから。石井にバレる前に早く行って、部長の仕事でしょ」

 部長の仕事。彼はよくこの言葉を使う。都合のいい言葉だ、反論ができないというかする気が失せる。実際、僕らの代になって最初のミーティングでも彼は「北原くんが部長になるのがいいと思いまーす」と僕に押し付けた。彼の取り巻きもそれに賛同し、エースの意見に顧問の石井先生も「じゃあ北原に任せよう」と推薦された当事者のことは何一つ考慮せず即決した。そのとき、石井先生はバスの乗降口で出発の準備をしていた。

「石井には俺からうまいこと言っといてやるからさ」

 図々しく偉そうで、恩着せがましく気色の悪い。ピアスが一体いくつあるのか聞く前に僕はその催促に素直に従って、泊まっていた部屋に向かった。

 後からはキャハキャハと何かを期待する甲高い嘲笑の音が聞こえた気がした。訂正、聞こえた。

 部屋には青山の言ったとおりキラキラとしたやたら高そうな金色のピアスがテーブルの上にセットで置いてあった。高校生でこんなものをどうやって手に入れたのだろうか。SNSか何かで稼いだのか、貢いでもらったのか。なんて世界一無駄な妄想を強制終了して、ロビーに急いで戻ったらこうなっていた。

 なるほど、バスの席が一番後ろになったのもすべて奴らの思惑通りだったというわけだ。一番後ろなら石井先生からの注意も届きにくい。彼の言っていた『うまいこと言っておく』というのは僕にとってではなく、彼らにとってということだった。してやられたというわけだ。

 そんなわけで、僕は高校から数百キロも離れたところで一人となった。

 別に驚くことじゃない、場所が変わっただけで僕はいつも独りだ。学校だろうと家だろうと。

 なら、どうせなら。

「あら、どうかいたしましたか?」

 立ち尽くす僕の背後から着物を着た女性が声をかけてきた。旅館の、女将さんだろうか。

「あ、いえ。どうやら置いていかれたようで」

「まぁ、それは大変!連絡は入れましたか?」

「はい、大丈夫です。これから待ち合わせ場所に向かおうとしていたところでして」

 スラスラと口から嘘が母国語のように溢れ出る。もちろん連絡なんて入れているわけがない。

「左様でございますか。ではその待ち合わせ場所までお送りいたしましょう。山奥ですし、土地勘もないかと......。少々お待ち下さいね、森下さん!今から出せるかしら」

 女将さんは遠くで庭木の手入れをしている男性を呼んだ。森下さんと呼ばれた男性は「はいはーい」と返事をして駆け寄ってきた。小柄で丸メガネをかけた五十代前半のいかにも優しそうな方だ。

「こちらの方が置いていかれたらしくてね、これから合流するんですって。だからそこまで送ってあげて」

「いえ、そんなご迷惑かけられませんって。スマホもあることですし、一人でいけますよ」

「あら、近いのですか?」

「えっと、樺瀬駅です」

「確かに樺瀬駅は最寄りではありますが、歩いてとなると四十分はかかりますわ。いくらお若いとはいえ旅の帰りには厳しいですよ。ご心配なく、森下さんはいつも暇していますから」

 ここで更に断ったら怪しまれそうだ。森下さんも「はい、暇ですので」と胸を叩いていたから「では、お言葉に甘えて」と送迎をお願いすることにした。

 森下さんは主に旅館の掃除とバスの運転をしているらしい。

「しっかしまぁ、災難でしたな。時々あるんですよ、団体様ですとこういった事故は防ぎきれませんな」

「仕方ありませんよ、うっかりしていた私に非がありますから」

「しっかりしていますね。お手洗いに行っていたとかですか?」

「忘れ物を取りに行っていたらいつの間にか。といったところです」

「あちゃー、それはなかなかに。では、駅についたら気分転換にコーヒー飲んで行くといいですよ。スタバ、新しく駅の中にできたので。私のようなおじさんはあんなおしゃれなところにはどうも行きづらいのですがね。お、青になった」

 森下さんは再び車をゆっくりと走らせ、その十份後に僕らは樺瀬駅のロータリーに着いた。

「わざわざありがとうございました。本当、助かりました」

「いえいえ、これくらいお安い御用ですよ。それより、本当に、合流するまで付き合わなくてよろしいのですか?」

 ここのロータリーは基本的に降車専用で長時間の停車はできない。かといって駅周辺の駐車場は高いし、来るはずもない人を待っていたら財布が空っぽになる。僕は窓から心配そうな顔をのぞかせている森下さんに「大丈夫です」と普段しない笑顔で答えた。

「友人からチャットが来ましてね、あと少しで着くらしいです。顧問も怒っていないみたいで安心して合流できそうです、へへ」

「そうですか、なら私も安心だ。無事にみなさんと会えることを祈ってます。では私はこれで、またいらしてくださいね」

「ありがとうございます、ぜひとも」

 僕は森下さんの車が見えなくなるまでしっかりと見送った。

 いい人だった。出会ってわずか二十分程度だと言うのに、こんな優しい人がいるんだなと思った。そんな親切な行為に対して僕は純度百パーセントの裏切りをした。よくもまぁ、あんなにも嘘をついたものだ。友人からチャット?そもそも僕は誰の連絡先も持っていない。友人も、いない。

 我ながらクソみたいな心をしている。お天道様は見ていますなんて言葉を小学二年のときの担任が言っていたけど、正直ここは目を瞑ってもらいたい。

 ちらりと上を見ると、スポットライトでも当たっているような煌々とした光が僕を照らしている。アスファルトからは説教のような反射熱が襲いかかり、少し汗ばんできた。まだ六月だというのに。

 暑さから逃れるため僕は屋根があるベンチに座り、手荷物を確かめた。衣類などが入っているキャリーケースはバスのトランクに預けてきたけどスマホや財布なんかの貴重品はこのトートバッグに入れてある。

 中には貴重品とペンケース、メモ帳、タオル、金ピカのピアスと碌なものは入っていない。そんな大した装備品を持っていない僕がとる行動は家や学校、警察なんかに連絡することではない。

「逃避行だ」

 僕はカバンからペンと何も書いていないメモ帳を取り出した。

 わざわざ手間をかけて嫌いなやつらのもとに戻って、嫌いなやつらの思い通りに、嫌いなやつらのおもちゃになるつもりはない。

 わざわざ恥を書いて憎い父親のもとに戻って、にくい父親の命令通りに、憎い父親の兵隊になるつもりもない。

 僕はこの街に投棄された。まさにサビだらけの家電のように。まったく、景観を守ろうとしているこの街に失礼だ。

 だけど主観的にものを言わせてもらうなら、僕はやっと解放されたんだ。

 キャッシュカードは財布の中にあるし、残高がなくなったらどこかのラーメン屋にでも行って短期のアルバイトをさせてもらえばいい。寝床はネットカフェでもいいし、ひょっとすると旅先ごとに民家とかに泊めさせてもらえるかもしてない。

 六月の半ば、湿度も気温も上がり始めたけれどもベンチでの思考を遮るものは何一つなかった。むしろ足音や車の音、駅から聞こえる改札のポーンという音やせっかちな蝉の鳴き声が作り出す不協和音のおかげでより没頭できる。どっかの賢い人が、『勉強はファミレスやリビングなどある程度騒がしい環境でやるのがベスト』って言っていたのを思い出した。まぁ今の僕には、というよりこれからの僕には必要のない雑学だ。

 十分ほどやりたいことを中心に計画を殴り書きした。

 計画のくせに計画性のない、単なる願望の羅列に過ぎないかもしれないけどそれについてとやかく言う外野は一人としていない。

「さて、まずは散策だな」

 この合宿の間、バスケの練習のみで大した観光もできていなかった。

 ならそこから始めよう、余計なものが一切ない純粋なものを。僕はメモ帳をを勢いよくカバンに投げ込み、駅内のユニクロに向かった。

 いくら長時間の移動だからといって、僕がいないこと、もとい人数の合計が不足していることはいつバレてもおかしくはない。こんな服装だったとかいう情報を元に地元警察が捜査し始めたとかはごめんだ。早々に今着ている服は替えたい。

通気性のいいグレーの七部袖シャツに白のラウンドネック、黒のパンツ、それと目に留まったパーカーを買った。ついでに金縁の丸メガネも。もちろん度は入っていない。

 トイレで着替えを済ませて鏡を見てみるとなかなかにいい感じにイメチェンできたんじゃないだろうかと思う。でも、やっぱり……。

「何か犯人にでもなった気分だな」

 逃避行なんだからそう思っても仕方ない。とりあえずこれで準備万端だ。着てきた服は寝巻きにでも使えばいい。

 スマホの液晶を見ると、早くも十一時を回っていた。そのほかには公式アプリの通知が数件表示されている。不在着信の類は見られないってことはまだ気づかれてはいないんだろう。

 今日中にバレるとしたら高校につく夕方の六時ごろだろう。仮に先生が気づかなくても、普通の家庭ならいつまで経っても帰ってこない我が子を心配してその一時間後には学校側に連絡を入れるだろう。普通なら。

 と、いうことは六時までバレなければしばらくは問題なさそうだ。幸いにも今日は金曜日、クラス内ではこんなアリバイが出来上がるわけだ。『北原のやつ、合宿から帰ってきたとたん学校来なくなったよな』と。教師陣は形骸的にウチに電話をかけてくるだろうが家主は常に職場だから誰も出ない。出たところで何も知らないし興味も湧かないだろう。さぁ、あの馬鹿どもの腕の見せ所だ。お得意の偽善的で利己的な民主主義を存分に発揮してもらいたいところだ。

「さ、まずはどこから行こうかな」

 気を取り直し、そこから市営バスに乗って散策を始めた。



 

 一通りはしゃぎ終えた僕は喫茶店にいた。ザ・喫茶店といった感じで革のソファや木の硬めな椅子、やたらざらざらしている鉄製のテーブルに天井で回るシーリングファン。さらにほんのりと聞こえるクラシック。どこまでも落ち着く空間だ。人が多いところよりもこういった静謐な場所がしっくりくる。

 空調の効いた店内から外を眺めているとストローからズゴゴと行儀の悪い音がした。テンションが上がっていたとはいえこの天気の中、有名所を片っ端から歩いた体にはひんやりとした水分が必要だった。

届いたばかりのアイスコーヒーはあっという間になくなってしまった。それでも体は水分を欲していた。

大きめのグラスに注がれたお冷に手を伸ばした途端に、隣のテーブル席から怒号が響いた。

「いい加減にしろよ!」

 ホストのような顔つきの男の人が勢いよくテーブルを叩きつけて、目の前に座る女性に吠えていた。

 それでも吠えられた女性は表情ひとつ変えず、ポカンとしていた。見るからにマイペースな感じだ。短く整えられた髪をそっと手櫛で撫でている。

「いい加減って言われてもね……。一体何をどうすればいいって言うのさ、あと声大きい。お店に迷惑かけたらいけないよ」

「じゃああの男は誰なんだよ!」

 うわ、ドラマでしか聞いた事ない三流セリフだ。まず間違いなくこの店にいるすべての人は、この男がどうしようもなく面倒臭いやつだとわかったろう。奥の席で作業をしている大学生はイヤホンを外してこちらをっ見たが、すぐに自分の世界に戻った。カウンターで新聞を読んでいるおじいさんも、ほかの利用客も変わりなく。店員さんがおどおどしているだけだ。

「誰って、話聞いてなかったの?大学時代の後輩だって。あの子も『先輩』って言ってきたじゃん。あと、声大きい」

「聞いてたよ、耳障りで仕方なかったさ!先月一緒に出かけたらしいな、そんな話お前から聞いていないって言ってんの!」

「うん、出かけたよ?一人で買い物してたら会ったから、ハンバーガー食べてボーリング行って解散したけど?」

 いや、直球すぎる。何かを説明するときは事実をありのままにってよく言うけど、こんな人にそんな言い方したらまずいって。

「浮気だよな」

 ほらやっぱり。

「浮気なの?」

 違うと思うけど。

「決まってんだろ!勝手な行動ばっか取りやがって、もう少し彼女としての自覚を――」

「まぁなんだっていいんだけどさ、声、大きい」

 勢いが止まらない叱責のような叫びを遮り、三度目の指摘をした。さっきまでの能天気な感じとは違い、諦めが大半を占めているようなどうしようもないものを見る目で見ている。いや、睨んでいる。

「話を最後まで聞け!」

「話を聞かないやつの話聞く意味があるの?私、話の通じないのとは付き合いきれないからさ、あんたの連絡先、消すね。今日で最後、さよならバイバイってことで」

「ふざけんなよ、それであの男の所に行くってのか!許さねえからな!」

 あぁ、せっかくの逃避行序盤でこんなうるさいのに出くわすなんて。

普段もこんなのに出くわすことはある。そんなときは早々にその場を離れるのが一番なんだ。さっさと会計を済ませてこの場を離れよう。きっと店員が通報とかして対処してくれるだろう。

 立ちあがろうとしたとき、僕はグラスを握ったままだったことに気づいた。中の氷はだいぶとけてしまって僅かにしか残っていない。

 この逃避行が今までの人生からの逃避行、と考えるなら。

 僕は伝票やカバンを席に残して、そのテーブルへ向かった。怒鳴り散らかすホスト顔の男の頭の上にグラスを掲げたとき、彼女さんと目が合った。戸惑いの感情はなく、「やっちゃえ」と言っているようにも見えたけどそんなの一瞬のことだ。そのまま手首を捻らせると、重力に従って落っこちた。

「はぁ?」

「あ、やべ。お店、汚しちゃったな」

 思いつきで行動したことを少し後悔した。でもコーヒーみたいに着色系じゃないからそこまで手間はかからないだろう。あとで雑巾を借りよう。

 びしょ濡れになった男は立ち上がり、すぐさま胸ぐらを掴んだ。買ったばかりの服なのに。

 今までの怒りと今のことを全部混ぜた感情をいっぺんに晴らすためだろう。でも、なんでこんなにも僕は平静を保っているんだろう。心臓の音も対して変動がない。結局は自分のことは全部他人事なんじゃないかと思うくらいに。

「テメェ、なんだってんだ」

「あ、いえ。なんというか、頭を冷やしてあげようかなと。ほら、ぎゃあぎゃあといい年した男が泣き喚くのは、ね」

 前言撤回。僕は結構イライラしているみたいだ。数年後のあいつらを模したかのようなヤツを前に煽り文句が止まってくれない。

「っ殺してやる……」

 あ、これまずいかも。

 右手に力をこめたのが見えた。数秒後には殴りかかるんだろう。

「ぶっ殺してやるぁ!」

 ……あれ、殴られてない。思わず目を瞑ったせいで事態の把握ができなかった。

 恐る恐る目を開くと、振りかざした握り拳の手首を彼女さんが掴んでいた。

「声、大きい」

「お前、邪魔すんじゃねえよ」

 掴まれた手を振り解いて再び喚いた。

「だいたいお前が――」

 何かを言おうとしたのだろうけど、続きは聞けなかった。代わりに『パァン』と綺麗に平手打ちが決まった音が店内に響いた。

「ここの代金は払うから。まず店員さん含め皆さんにごめんなさいって言って。そしたらさっさとここから出てって。いくらバカでも、素直に従わないとどうなるかくらいわかるよね」

 何かを知っている顔だ。男は瞬時に青ざめて、僕をキッと睨みつけた。

「クソっ、テメェらまとめてくたばりやがれ」

 最後までいかにもって感じの捨て台詞を吐いて喫茶店を飛び出した。レジでずっと心配そうにオドオドと見ていた店員さんは「あ、ありがとうございました」と条件反射が出てしまったようだ。力いっぱいに叩きつけられた扉に取り付けられたベルだけが虚しく音を鳴らしている。

「ごめんなさいしろって言ったのに、やっぱりバカなんだね。顔がいいからってだけで付き合うとろくな事ないな」

 彼女さん、もといお姉さんは最初の表情に(と言ってもそこまで大きな変化はないけれど)戻った。

「さ、君も店を出る準備して。私は店員さんから布巾もらってくるから」

「僕もですか」

「そりゃね。勇気を出していざこざに突っ込んできたんだもん、お礼もなくさよならはできないよ。それに、これ以上ここには居づらいでしょ?」

 それもそうだ。そもそもあの男の導火線に火炎瓶を投げつけたのは僕な訳だし、このあと店員さんにおかわりのコーヒーを頼むことなんてできやしない。まあ、投げつけたのは火炎瓶じゃなく水だけど、そんなことはどうでもいい。

 結局、床の拭き掃除やテーブルの後片付けは店員さんが手伝ってくれて簡単に終わった。「こちらでやりますので」なんて断られたけどさすがにそんなことはできない。「ご迷惑をおかけしました」と3回くらい言って掃除をした。

 お姉さんは僕の分のコーヒー代も払ってくれて、それに合わせて2万円をトレーに置いた。

「迷惑代。店長さんにでも渡しといてください」

「あ、えっと。かしこまりました」

 レジの店員さんは最後までオドオドとしていた。



「ふいー、あっついね。まだ六月だってのにさ」

 その言葉に異論はなかった。さっきまで空調の効いた快適な空間で、ひんやりとしたアイスコーヒーを体中に巡らせたのにいざ扉を開けると一瞬で水の泡と化した。多分そのあわもこの日差しで蒸発したろう。額にはすでに大粒の汗ができた感触があった。

「さて、まずは少しだけ歩こうか」

「え、はい」

 少し、と言うのは本当に少しだった。目的地は喫茶店から3つ隣の二十台くらいしか入らない小さなパーキング。

 お姉さんはポケットからキーを操作したのか入り口に一番近い青色のクーペが光った。

「さ、乗って。話は涼しい車内でってことで」

「はぁ、お、お邪魔します」

 喫茶店から思っていたけど、この人はなかなかに自由人だ。というか、これから何をするのかがまるでわからない。実は悪い人でどこかへ拉致されるなんてこと、はないとは思うけど。

 


 直射日光に長時間照らされた車内は強烈なほどに暑かった。乗った瞬間にモワッとした空気の塊が顔に直撃してお姉さんは「うひゃ」と声を上げた。扉を開けたまま急いでエンジンをかけてクーラーの風量を最大にセットした。

「ちょっと罰当たりだけど、しばらく窓は開けたままにしようか。ごめんね、まさかこんなに中が温まってたとは思ってなくて」

「いえ、全然……。えっと、これからどこに?」

 まず聞くことがこれであっていただろうか。他にももっと聞かなければいけないことはあるけれど、ありすぎるが故に順序なんてものはないも同然だ。

「どこ行こっか。お昼の時間は過ぎたからなぁ。あ、そうだ。佐治原神社はもう回った?あそこそれなりに観光地としては有名らしいんだけど」

「いえ、まだそこには……。って、『回った』?」

「あれ、違ったかな?言葉がここら辺のとは少しずれているからてっきり観光か何かかと思ったんだけど」

「いや、その通りなんですけど。僕そんなに喋りましたかね」

「カケル、あ、さっきの男ね。カケルに正面からぶつかってたじゃん。あのときのイントネーションとかで」

 確かにあの迷惑男に煽ったり、店内での後片付けをしたりとかで無言ではなかったけど、やっぱり地元の人からするとわかりやすいものなのだろうか。

「でもお姉さんだって――」

「あ、自己紹介していなかったね。天笠彩香。好きな言葉は『適材適所』。細かいことはまたあとでってことで、今後はお姉さんなんて呼ばないように。それで、君は?」

「えっと、北原です。ひょっとして好きな言葉をいう流れですか?」

「もちろん。その人を理解するには好きな言葉を知るのが一番だよ」

「なるほど、と言ってもすぐには出てこないですね」

「四字熟語にこだわる必要はないよ。私の友人はギリシャの哲学者の言葉を好んでいるし。確か、『万物はなんとやら』って感じのやつ」

 おそらくは『万物は流転する』だろう。ちょうど倫理の授業で習った覚えがある。

 しかし、好きな言葉か。一度も聞かれたことがないものだから、用意していない。

「人生を……『人生を最高に旅せよ』とかですかね」

「お、ニーチェか。いいチョイスだね。今の君にぴったりな言葉かもね。計画を立てて準備を重ね、目的地とそこですることを明確にした旅、とは到底思えないもん。行き当たりばったりって感じだ。私はそっちの方が好き」

「望んだ結果こうなったかは微妙なんですがね」

「というと?訳ありってことかな、家出か何かってこと?」

「似たようなものです。部活の合宿最終日、チームメイトに嵌められてこの街に置いてかれたってことです」

「わぁお、だいぶ面白いことになってるね。それで君はなんとかして帰る方法をアイスコーヒー片手に模索していたと。ってことは君を無事家に送り返せば私は恩返し完了ってことかな」

 指をパチンと鳴らし、『決まった!』と言わんばかりの顔で笑う天笠さん。ただ、申し訳ないがその推測は正しくない。

「僕に帰る気はありません。騙しを行うクラスメイトにも、偉そうに空論を垂れる教師にも、自分のメンツのために結果以外の何も求めない父親にも二度と会いたくない。これは、逃避行なんです。許される限りどこまでも逃げまわる。そうして初めて僕は新しい自分に生まれ変わるんです」

 これはチャンスなんだ。思い返せば何一つ満足のいく生活になんて送れていなかったんだから。

 自惚れた発言だってことはわかってる。

計画性のない、どうしようもないことを企てているんだ、僕は。大人、と呼ばれている人たちはきっと『馬鹿なことを言ってないで帰りなさい』とか『親御さんが――』、『学校は行ったほうが――』なんてありきたりなことを言うんだろう。

 今隣にいる天笠さんは少し変わっている人だから、テンプレートに従ったことは言わないだろうけど、その本質はきっと同じはずだ。

 僕はこの人に助けてもらいたいんじゃない。ただ、誰か、関係のない人に公言することで、声にすることで決意を確かなものにしたかっただけなんだ。だから、この時点で彼女は僕への恩返しは完了している。

「なるほど、それは……」

 言葉が詰まっている。

 慎重な人なんだろう。優しい人なんだろう。僕を傷つけないよう言葉を選んでくれているんだ。



 二秒の沈黙の後、天笠さんは口を開いて「最高に、最高じゃん」と呟いた。


「え、あれ?」

 予想していたどの返答とも違う感想に思わず唖然としてしまった。

 そんな僕にもお構いなく、天笠さんは身を乗り出して僕に近づいた。 

「逃げるあてはあるの?」

 珍しいものでも見つけたかのように目を輝かせながら好奇心をぶつけてきた。

「えっと、北のほうですかね。とりあえず地元からは離れなきゃと思ってます」

 あのときベンチで必死に書きなぐっていたのにもかかわらず、行先は『北』としか書いていなかった。何かの名所があるとか思い出の地だとかそんなたいそうな理由はなく、逃亡犯のようだからといっただけだった。昔見た刑事ドラマで『犯人は北に逃げる』というセリフがあったのを思い出したからそう決めたということだ。言ってしまえば、勘だ。

 ただその勘が以外にも大当たりだったらしく、天笠さんは再度指をパチンと鳴らして「ナイス!」と声を大きくした。

「な、ナイス?」

「ちょっと待ってね」

 スマホを取り出して何かを探しているみたいだ。ちらりと見えた画面にはたくさんの写真が見えた。

「これだ!うわぁ、もう二年前のやつか。じゃなくて、はいこれ」

 そこには夕日に照らされた港の景色と二人の女性の姿が映されていた。一人は天笠さん、もう一人はお友達だろう。丸眼鏡をかけた黒髪の文学少女のような人だ。二人とも、穏やかな笑顔でピースサインしている。

「楽しそうですね」

「さっきから言っている私の友人、かわいいでしょ」

「ええ、清楚でおしとやかな感じですね」

「舌も耳もピアスだらけのアルコール大好きちゃんだけどね」

 あまりにもさらっとした告白に一瞬で言葉を失った。まさか一度に目と耳の両方を疑うことがあるとは。

 だけどそんなことはたいしたことではないのだろう。気にすることなく天笠さんは画面をスワイプして次々と写真を見せてくれた。

 花火、紅葉、雪景色、桜。ハイカラな街並みと相まってよりきれいに見える。都会にはないノスタルジーを写真からでも感じる。

「どう思う?」

 一通り見せ終わり、さっきと同じくキラキラした目で僕に感想を求める。

「素敵です」

 嘘偽りない感想だ、お世辞でも何でもない。端的な言葉しか出てこないのが悔しいけれど、その飾らない一言が彼女には響いたらしいようだ。

「なら、行ってみない?」

「と、言うと」

「今から行こうよ、私と。四百キロくらい離れてはいるけど大体二日もあれば到着できるんじゃないかな。途中にね、おいしいホルモンの串焼きを売ってるサービスエリアがあってね、そこは絶対によらなきゃいけないし、ほかにもいろいろと有名なところが――」

「ちょっ、ちょっと待ってください。つまりどういうことですか?」

「つまりね、君の逃避行に私も混ぜてほしいってこと。君は今までかかわってきた厄介者たちから、私はカケルから逃げるってことでさ」

「追いかけてくるんですか?」

「さあね。ただああいう男は面倒くさいからね、居場所突き止められた挙句何されるかわかったもんじゃないから」

 天笠さんは「それにね」と少し意地悪な顔で笑いながら「交通費と宿泊費って意外とかかるものなんだよ、少年」と現実を教えてくれた。

「私と一緒なら、この車のおかげで君が交通費を心配する必要はないね。寄り道したせいで今日中に着かないってなったとしてもビジネスホテルの費用も出してあげる。こう見えて結構稼いでるんだから。あ、ちゃんとまっとうなお金だから安心してもらっていいよ。それに向こうでも私の実家か、知り合いに頼んでしばらく匿ってもらうこともできるね」

 止まることなく、ツラツラとアイデアとそのメリットが飛び出してくる。まるで命の恩人でもあるかのような超優遇なプラン、どう考えても申し訳なさすぎる。

「その、いいんですか……?」

「ん、何が?」

「何もかもです。お金のことも、僕のこのばかげた計画に付き合うことも。逃避行なんて都合のいい言葉使ってますけど、こんなの思春期の自傷行為だ。ここでの生活をいきなり手放すことも、いいんですか?」

「なんだ、そんなことか」

「そんなことって……」

「答えは、『いい』。正確には、『どうだっていい』だね。目の前に人生を変えようと行動しようとしている人がいるんだ、それを横で見届けないなんてもったいないさ。それに、いま自傷行為って言ったね。君は自分が手首に切り傷でもつけていると思ったら大間違いだ。行為自体はそう見えるかもしれないけれど、君がしようとしているのは脱皮だよ。くだらない過去をまとった垢を思い切りはがそうとしているんっだ、胸を張りなよってこと」

「脱皮、ですか」

 その時点での単なる慰めではなく、天笠さんは本気で僕のことを応援してくれている。こんなにも、いわゆる『敷かれたレール』の外に飛び出すことを肯定されたのは初めてだから正直、僕は戸惑っている。

「さ、今度は君の答えを聞かせてもらおうかな。私を君の逃避行に混ぜてもらえないかな?」

「……ひとつ、条件があります」

 図々しくも僕はそんなことを吐いた。条件を提示するのは天笠さんの権利だというのに。

「何かな?」

「頼りきりは嫌です。天笠さんの言う通り、僕の力だけでは限度があります。天笠さんに頼らなければいけないことがたくさんあります。だからこそ、頼りきりは嫌なんです。頼ったぶんだけ何か、こちらからもお返しさせてください」

「ふはっ、真面目だね」

 天笠さんは何かを思いついたようで「じゃあ、一つお願いをするよ」とだけ言ってハンドルを握った。

「一旦、私のアパートに行ってからにしよう。いいこと思いついたからさ」

 そうして窓を閉め、発進した。



 天笠さんの住むアパートへは喫茶店から十五分ほどで着いた。住宅街の中、できたばかりのブラウンベースな建物がそれだった。鉄筋なんだろうけど、駐車場の小さなランプや木目調のデザインの壁などで全体的に柔らかい雰囲気だ。

きっと家賃もいい値段するのだろう。一人暮らしなんてしたことはないけど安くないということだけはわかる。本当に僕に付き合っていいのだろうかと思うくらいだ。留守にするのにお金は払わなければいけないなんて勿体ない気がしてしまった。

「さてと、荷物とってくるけど君はどうする?麦茶でも振舞おうか?」

「いえ、ここで待ってますよ。女性の部屋は僕にはハードルが高いです」

「わー、なんか言い方が意味深だねー。まぁいいや、クーラーはつけたままにしておくからちょっと待ってて。二十分くらいで戻ります」

 そう言って自分の部屋のある二階に走っていった。

 小刻みに揺れる車のなかで久しぶりの一人の時間が訪れた。久しぶりといってもほんの数十分のことだというのにこの忙しなさ。

 数時間前まで僕は退屈極まりない学生だった。そこから予想外の一人旅が始まって、喫茶店でトラブルに飛び込んで、そこで知り合った天笠さんと一緒に行動することになった。すべて今日起きた出来事だ。ハチャメチャだ。でも間違いなく、今までで一番ワクワクしている。夕方にはこことはまた別の町にいるのだろう。こんな神様が同情してくれたような至福の時間を誰にも邪魔されたくない。

 スマホを取り出してみると、相変わらず殺風景なものだった。何も変化のない、今までと同じ光るオブジェクトだ。

 十五時、僕の知りたい情報は親切なことに画面の真ん中に表示されていた。わざわざロックを解除する必要もない。

 上々だ。あいつらはうまいこと時間稼ぎできているみたいだ。この調子でいけば僕はどこまでも逃げることができる。

 用済みのスマホをバッグに投げ捨て、窓の外を眺める。クーラーの冷気も車内に行きわたったようで体に籠った熱がいっぺんに上書きされていく感覚だ。遠くのほうからわずかに子供のはしゃぐ声が聞こえるけれど、外はこんなにも快適なわけがない。言い方は悪いが、正気とは思えない。きっと彼らはフレッシュすぎるのか、水遊びをしているのかそんなところだろう。できれば後者であってほしい。

「それにしても、何を思いついたんだ?」

 ここに来る前に天笠さんが言った『お願い』が頭をよぎった。帰ってくるまでのせめてもの時間つぶしみたいなものだと、その内容について考えることにした。

 交通費や宿泊代は気にしなくていいと言ってくれたから、ごはんとかだろうか。それくらいなら僕にもできそうだ。それでいても断然天笠さんのほうが負担する額が大きいのには変わりないが。でもそこは素直に甘えさせてもらうしかなさそうだ。

 正直、今の僕は無力だ。こうして助けられてようやく理解できた。これでよく一人で逃げ切ろうと思えたもんだとあきれるくらいに。でもそこはもう認めるしかない。その分、天笠さんにお返しするしかない。

 とりあえず、まずは天笠さんの『お願い』の中身と、彼女の食の好みを知ることから始めることからだ。そもそもまだ僕らは名前と好きな言葉しか知らないんだから。

 云々と言語化する前のぼんやりとした考え事をしばらくしていると再びドアの開く音が聞こえた。鍵を閉める前にこっちに手を振る天笠さんが見えた。僕も軽く手を振り返す。

「お待たせ、探し物してたら時間かかっちゃった」

 薄手の白いパーカーと黒のジーンズに着替え、宅配サービスで使いそうな四角いリュックを背負ってきた。ダウナーっぽいのにクールさが抜けない、言ってしまえば様になっている。

「いえ、気にせず。似合ってますね、その服」

「いいでしょ、動きやすくて好きなんだ。変化に気づける男ってのはポイント高いぞ」

「そんな君には」と縦長の葛籠のようなリュックから探していたものを取り出した。

「これって……」

 一眼レフだった。

 詳しくはないけど割と新しいタイプのようで見た目もきれいだ。車といいアパートといい、そしてこのカメラといい、ますますこの天笠さんの不思議度合いが上がった。

「前にもらったものでね、何回か使ったんだけどいつの間にかクローゼットの中に……。ということで君に使ってもらいたいなって」

「え、まさかさっきのお願いってこれのことですか」

 返答の代わりにパチンと指を鳴らした。いやパチンじゃなくて、納得がいかない。

「どういうことですか、僕からあなたに何かするとかではなく、僕がもらっては意味がないというか」

「説明するよ、落ち着いて。これはちゃんとしたお願いだから」

 カメラを包むように構え、ファインダーを覗いてシャッターを切る。すぐさまそのできを確認して「うへぇ」と苦い顔をした。

「やっぱり私に撮影の才能はないね。この子が可哀そうに思えるくらいに。で、君に頼みたいのはこのカメラを使ってこれからの逃避行の記録、思い出とかそこらを撮ってもらいたいんだ」

「説明になっていないです。僕だって才能はないですって。一眼レフなんて触ったこともないんですから」

「だからいいんだよ。旅の終わりがいつかはわからないけれど、その過程で君が美しいと感じたことを模索しながら形に残していってほしい。これが私のお願い」

 そういうとそのカメラを僕のほうへ向けた。丁寧に受け取るとずっしりとしていて見た目以上にゴツゴツしていて、ボタンなんかも多い。

「えっと、ありがとうございます天笠さん」

「こちらこそだよ。どうぞその子をよろしくね、北原くん。……ん?」

 僕の名前を呼んだと思ったら、ほんの少しの違和感を覚えたようで右手を探偵のように口元にあてた。僕がわざわざ「どうかしましたか」なんて訊く前に、再び僕の顔をじっと見つめた。

「名前、変えない?」

「へぁ?」

 またしても唐突だ。思わず弱っちいウルトラマンみたいな声を出してしまった。

「新しい自分になるなら、いっそのこと名前までってこと。私、なんでも形から入るタイプなんだ、だから」

 だから、と言われても急なことに、いや、急なことの連続に頭の処理が追い付かない。唯一出た言葉は「天笠さんが、決めてくれるなら」という、またしても人任せなものだけだった。

 それでも、予想していたかのように「いいよ」と言って同じリュックから手帳とボールペンを出した。青いカバーがかかったやつで文庫本よりも分厚い。一日一ページタイプのものだった。

「北原……。そういえば名前は?」

「言いたくないです。好きじゃないので」

「訳アリってことね、ならなおさら改名しなきゃだ。じゃあ、別の質問、好きな季節は?」

「好きな季節……。七月の始めですかね。梅雨明けの夏が好きです」

「苗字が北原で、梅雨明けの夏が好き、っと……」と手帳に書いてはまた、口元に手をあてた。そしてまたすぐにカリカリとペンを走らせた。

「なら、こんなのはどうかな」

 インタビュー回答の下に『西原朱夏』と書かれていた。

「にしはら……何です?」

「シュカ。文字通り、夏を表す言葉だね。青春の夏バージョンって言うとわかりやすいかな」

「なるほど、だから敢えて西原なんですね」

「そ、ちょっと安直だったかな」

「いえ、なんというか結構、というかだいぶ気に入ったみたいです」

 他人事のような感想しか言えない自分に少しイラっとした。けど、言い訳をさせてほしい。僕は今すごく喜んでいるんだ、それこそ文法もめちゃくちゃになるくらいに。

 もどかしさで頭をクシャっとした。そんな僕を、まるで見透かしたかのような表情で満足そうに天笠さんは笑っている。それが余計に照れるというか恥ずかしいというか。

「シュカ……西原朱夏……。僕は、西原朱夏です」

 視線をそらし、もらったばかりの名前を復唱した。新しい靴を履いて、いつもより長めのランニングをするように。

「思ったよりも喜んでくれたみたいでよかったよ。ということで、今度は君の番だよ、朱夏君」 

 手帳とペンを差し出した天笠さんに「僕の番というのはまさか」とほとんどわかりきっていることに対して訊いてみると、予想通り「そう、私の名前、考えて」と期待のまなざしを向けてきた。

 とりあえず、それを受け取り「えっと、じゃあ好きな季節は?」と同じ質問から始めた。

「八月の中旬。ひまわり畑と入道雲と青空、みたいな君の好きな夏とは少し違う夏だね」

「麦わら帽子、似合いそうですもんね」

「うんうん、さり気なく褒め言葉が出てくるってのはいいことだよ」

 腕を組みながら、わかりやすく嬉しそうに頷いている。

 でも、だからといって彼女にピッタリの名前が出てこないのは変わらない。

『麦』、『空』、『蛍』とそれらしい言葉を頭の中で連ねてはいるけれど、天笠さんよりも僕が納得しない。

「名前を考えるって結構難しいんですね」

 センス、というか才能みたいなものがあるんだろう。瞬時に個性を表した名前を考えついたのは凄いことだと思う。明らかに僕は彼女の二倍以上かかっているに違いない。

「深く考える必要はないよ、直感を大事にする、みたいな」

 そうはわかっていても、難しいものは難しい。

 手元のボールペン、手帳のカバー、車内のアクセサリを順に視界に映す。これらになにか共通するもの、いわば彼女の趣味のようなものはないのだろうかと。

「ひょっとして、緑色が好きですか?」

 気づいたことといえばそれくらいだった。さっきのリュックの一部も緑色が入っていたと思う。

「お、大正解。緑色、好きなんだよね。車はなんか青にしたかったんだけど、基本はこの色が好き」

「なら……」

 緑色と夏に関係したナニかを必死に考える。爽やかで、それでいて柔らかさを含みたい。その条件に適しているのかはわからないけど、真っ先に浮かんだのは ――。

「あさぎ」

「……浅葱?」

「ひらがなで、『あさぎ』。漢字だとネギのイメージが強いので」

「確かに、かっこいいけど可愛らしさもあっていいね。じゃあ名字は?」

僕は、今度は迷いなくペンを走らせ、それを彼女に見せた。これは、最初から決めていたんだ。

「日笠あさぎ、か」

 少し低めの声でボソリと呟いた。僕の心音は一気に加速した。ひょっとしたら地雷だったのだろうか。

「空が、晴れたってわけだ」

「嫌でした?」

「まさか!涼しそうな名前で気に入ったよ!」

 再び天笠さん、もといあさぎさんは指をパチンと鳴らした。

「じゃあこれからは朱夏とあさぎだ。敬語はなし、お互いに名前で呼んでいくってことで」

「えっ、あさぎさんじゃなくて?」

「そ、年齢とかは気にしない。私達は完璧なまでに対等であるってこと」

 商談が成立したように、右手を差し出した。僕はそれをそっと添えるように握り返した。つまり、成立だ。

「えっと、じゃあ、これからよろしく。あさぎ」

「こちらこそ、朱夏。ってことで派手に飛ばすよ!」

 あさぎはハンドルを握りしめて、レバーをDに切り替えた。

「あ、安全運転で、お願い」

 咆哮のようなエンジン音が、僕の弱っちい発言をあっけなくかき消した。


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