二人で共にいられたら
この国には神が地上に遣わしたとされる『聖なる乙女』がいる。
聖なる乙女は祈りの力で神の奇跡を発現させるだけでなく、清らかな心と類い稀な美しさを持ち、更には微笑み一つで千の苦しみを祓って万の幸せを与える、とまで言われている。この話に懐疑的な者は数多くいたが、実際に彼女を目の当たりにすると誰もが「噂は本当だった」と口を揃えて言う。
「聖なる乙女は本当に美しかった。あの微笑みを見られるだけで今まで生きてきてよかったと思えるし、またお会いできるかもしれないと考えるだけで今後の生きる活力になるよ」
噂が噂を呼び、聖なる乙女の評判は日を追うごとに増す。ついには遥か遠い国からも「一目でいいから乙女を見たい」と希望する者が続々と集まってくる次第だ。聖なる乙女が住む王都の大聖堂、その前にある広場は日々混雑を極め、さながら毎日が祭りのようになっていた。
そんな人々の願いを理解しているのだろう。聖なる乙女はこのところ、日に何度か大聖堂のバルコニーに現れて挨拶するようになっていた。
このときの先触れを務めるのは、大聖堂の長でもある神官長だ。堂々とした体躯を持つ彼がバルコニーに現れると、どんなに騒いでいる人であっても雰囲気に押されて口を閉じるのが常だった。
「これより聖なる乙女が言葉を授けられる」
通る声で口上を述べた神官長は一歩横へ移動し、今しがた自分がいた場所に向かって深く頭を下げる。するとそこに神官長よりも二回り小柄な姿が現れる。この人物こそが、今年で二十歳になった『聖なる乙女』だ。
吹き抜ける風が乙女の銀の髪をなびかせると、眩い日差しは彼女の髪を光の筋のように輝かせる。その様子はまるで神々から祝福の光を受けているかのようだ。そうしてあまりに神々しい姿に誰もが息をのんだ瞬間、人々の耳に声が届く。
「皆様に神のご加護がありますように」
それが声だと分かるのは自分たちと同じ言葉を操っているから。でなければほとんどの人が麗しい楽の音か、あるいは小鳥の可憐なさえずりを耳にしたと思うだろう。
残念ながら大半の人が聖なる乙女に関われるのはこれが限界だった。彼女が持つ、琥珀色の瞳を見られるほどに近くへ寄れるのはごくわずか。世話を担う神官たちを除けば選ばれた一握りの人物だけでしかない。
それでも多くの者たちは広場でのこの一瞬の邂逅を楽しみにし、再び乙女と会える日を夢見ながら日々を繋いでいくのだ。
***
星々が広い空を覆いつくす頃、神官長は自室でひっそりとその日最後の祈りを神に捧げた。遠方からだと若く見える彼も、近くへ寄ると目尻や口元に皺があるのが分かる。それもそのはずで、彼はあと三年で五十歳の声を聞こうという年齢だった。
大きな手を組んだ神官長は低い静かな声で聖典の句を唱える。最後に深く頭を垂れて、
「神よ。明日も皆に幸いをお与えください」
閉めの句を唱えて目を開けた。
神官長ともなれば部屋に小さな祭壇を設けている。この夜も彼は祭壇の前で祈っていたはずだが、目の前にあったのは祭壇と神像ではなく、一人の若い女性の姿だった。
といっても別に神官長や祭壇が移動したわけではない。神官長と祭壇の間に女性がしゃがみ込んでいるのだ。
女神の姿を表すとも言われるほどの美しさを持つ彼女は、白い夜着を纏った姿で神官長を見つめる。
やがて女性がにっこりと微笑んだ。
満開の花も恥じらうほど麗しい笑みを向けられた神官長は、おもむろに口を開く。
「お部屋へお戻りください」
目を見開いた女性は、神官長に向かってぐいと顔を近づけた。
「ひどい! ひどいわ! 一日頑張った私に言う最初の言葉がそれ?」
「あなたに差し上げた本日最初の言葉は、朝の挨拶だったと記憶しております」
「そうね。神官長様は毎朝、聖なる乙女に『おはよう』の挨拶をくれるわね。礼儀に則って。聖典に書いてある通りの。ながぁい言葉で!」
言って乙女は神官長との間を更に詰める。吐息がかかりそうなほどの距離で、彼女は囁いた。
「だけどそれは、ジェイムズがフレデリカにくれる言葉じゃないでしょう?」
神官長ジェイムズは小さく笑った。聖なる乙女フレデリカの前だと、彼はいつも敗北者だ。
「今日もよく頑張ったな、フレデリカ」
「やったぁ! じゃあ、ご褒美もくれるわね?」
顔を上向けたフレデリカは瞳を閉じる。何かを待つような彼女をしばし堪能した後に、ジェイムズは薄紅色に染まった彼女の頬へ唇を落とした。途端に柳眉を釣り上げたフレデリカが目を開け、低い声で言う。
「……そっちじゃない」
「おや。お気に召さなかったかな」
「当り前でしょ。頬のキスなんて全然特別じゃないもの。あなたが頬にキスをしてる姿なんて、今日だけでも十回は見てるわ」
「だけどあれは神官長が信徒に与える親愛の印だ。今、ジェイムズがフレデリカに与えたものとは違うよ」
「え? ええ? そうなの? うーん、だったらいいかな。……って駄目駄目! 全然良くない!」
美しい髪が乱れるのを気にする様子もなく、フレデリカはぶんぶんと首を大きく左右に振る。
「ちゃんと! 本当の特別を! ちょうだい!」
「そんなに叫ぶと外まで響くぞ」
「平気よ」
扉を見るジェイムズの顔を、フレデリカは両手で挟んで強引に自分へ向ける。
「音封じは施してあるもの」
「……移動といい遮音といい、君の神力は本当にすごいな」
「ごまかさないで」
睨みつけた目をフレデリカがもう一度閉じたので、ジェイムズは今度こそ彼女の望み通りに唇同士を触れ合わせた。時間は短く、柔らかな感触を堪能する間もないくらいだったが、目を開けたフレデリカは頬を赤らめて微笑む。
「……お髭がくすぐったい」
「お気に召しましたか?」
「うーん、まあまあってところ。――ねえ、もっと長くしててもいいのよ?」
フレデリカの言葉には答えず、ジェイムズは笑って立ち上がる。
「さて、私はもう休む。君も部屋へ戻りなさい」
「もうお休み? 今日は早いのね」
「最近は忙しくてなかなか眠る時間が確保できなくてな」
その理由は聖なる乙女への謁見申請が多すぎるせいだ。
乙女への謁見は身分を問わない上に、人気は留まるところを知らない。申し込みの人数は日々増えているために担当神官も悲鳴をあげている。しかも最終的に誰を聖なる乙女と会わせるのかを決めるのはジェイムズであり、絶対に手を抜くわけにはいかない仕事だ。
理由は当然ながら、フレデリカを滅多な人物と会わせるわけにはいかないため。相手の為人は徹底的に調べなくてはいけない。
今後も申し込みが殺到し続けるなら彼女のためにも何かしら手を打つ必要があるかもしれないが、しかしそれはフレデリカが知らなくても良いこと。
ジェイムズは大きく伸びをして、肩から力を抜く。
「私も若くはないから、睡眠時間が少ないと堪えるんだ」
「やぁね。まだそんな年齢じゃないでしょう? 覇気も衰えてないし、体だって引き締まってる」
「一応は鍛えているからな。君一人を抱えるくらいは問題ない。――そら!」
ジェイムズが小柄なフレデリカを横抱きにすると、彼女は子どものような笑い声をあげてジェイムズの首に抱き着いた。
「やっぱりすごいわ! この景色は昔から変わらない!」
「今度こそお気に召していただけましたかな?」
「もちろんよ! だってここは私が一番好きな場所だもの!」
しばらくそのまま機嫌よく辺りを見回していたらしいフレデリカだが、やがてふと身を離した。ジェイムズの青い瞳を見つめ、神の言葉を告げるのと同じ表情で言う。
「ねえ、一番に好きなの。子どもの頃からずっとよ。そしてその気持ちはこれからも絶対に変わらない。って、分かってる?」
返事をする代わりに、ジェイムズは横に抱いていたフレデリカを縦に抱く。子どもをあやすかのように揺らしながら「よしよし。分かった分かった」と言うと、口を歪めた彼女は両手を握ってぽこぽことジェイムズの頭を叩きながら、
「ジェイムズの馬鹿ぁ!」
と叫んだ。
彼女の声に被せるようにして笑いながら、ジェイムズは心の中で「ああ、本当に変わった」と感慨深く呟く。
あのとき小さかった女の子が今はこんなに美しく成長した。この見た目に関しては他の誰もが知る通りだが、内なる部分は神の世界のような清らかさの中に、人に近い部分も生まれてきているのだとはジェイムズ以外の誰が知るだろうか。
フレデリカは変わった。合わせて、ジェイムズも。ただしフレデリカを大切にしたいと思うジェイムズの心は今も昔も変わらない。変わったとすれば大きさではなく質だ。フレデリカの気持ちを受け入れようと決めたあのときから、心はより強固になったように思う。それはきっと「人を愛する」という本当の意味を知ったためかもしれない。
そんなことを考えていたので、ジェイムズは続くフレデリカの言葉にどきりとした。
「ね、ジェイムズはこのあと寝室に行くんでしょ? 私も一緒に連れて行って」
「……面白いものは何も置いていないが」
動揺を抑えて言うと、フレデリカは「面白いものなんていらないわ」とあっさり言う。
「私が欲しいのは、私が幸せになれるものよ? いつものようにね」
なるほどと思う一方で、果たしてどうしようか悩んだ。
いつもなら一緒に居る場所は書斎なのだが、今回は寝室。少々勝手が変わってしまう。
しばらく眉を寄せていたジェイムズだったが、結局はフレデリカを抱いたまま寝室へ向かった。彼女を椅子に座らせて、自身は椅子の横にあるベッドへ潜り込む。
「私なんかを見ていても、幸せなど来ないだろうに」
「いつも言ってるでしょ。私が幸せかどうかを決めるのは、あなたじゃなくて私なの」
フレデリカがぴしりと言い切ると、ジェイムズは小さく溜息を吐く。
「……あまり遅くなってはいけないよ」
「はぁい」
フレデリカが答えるやいなやジェイムズは目を閉じた。そこからいくらも経たないうちに寝息が聞こえて来たので、疲れているというのは本当のようだ。
椅子から立ち上がったフレデリカは愛しい男性の顔を覗き込む。指先でそっと唇を撫でると、彼は口の中で小さく何かを言いながら首を動かした。その様子からは、凛々しくて威厳のあるいつもの表情が想像できない。
「……ふふ。可愛い」
フレデリカはジェイムズの金の髪を梳く。今度は何の反応もない。人の気配に敏感な彼が、フレデリカにはこんなにも無防備な姿を晒してくれているというその事実が嬉しい。
「寝室に入れてもらえたってことは、前進したと考えていいのよね? あと一押しかな……」
彼が二人の立場と、何より年齢差を気にして分別を保とうとしているのはフレデリカも分かっている。
「でも仕方ないじゃない? あなたのことが好きなんだもの。最初に会ったときからずっと、あなたが私の一番なの」
小さな声で言って身をかがめ、フレデリカは彼の耳元へそっと唇を寄せる。
「ジェイムズ。一番好き。本当よ。だからいつかちゃんと、応えてね」
囁いたフレデリカの姿は次の瞬間、陽炎のように揺らめいて消える。
後にはカーテンの隙間から差し込む月の光が、小さな椅子を静かに照らしているばかりだった。