召喚悪魔の残業手当Ⅱ
2020/9/7 誤字を訂正しました。
-魔王城。魔界を統治する王の住むその城の一角には、複雑な紋様の魔法陣が描かれた部屋がありました。
その部屋の魔法陣が光り輝くと…
「ふう…ようやく帰ってこれましたか。全くあの魔術師め、人間の癖に忌々しい」
その魔法陣の中央に、黒い礼服を着た、山羊のような角を持つ人物が現れました。そう、悪魔です。
「おおっ、悪魔のダンナじゃねぇですか!お久しぶりです、何年ぶりですかねぇ」
悪魔に話しかけたのは、茶色の体毛を持つ、二足歩行の犬のような魔物、コボルトです。
コボルトは弱い魔物で、魔物にしては従順で意外と見た目に愛嬌もある事から、よく掃除のような雑務のために雇われているのです。
「コボルトか。召喚魔法陣の責任者を呼んで来なさい、これは話が違いすぎる!転属させてもらいましょう!!」
悪魔は、怒気を含んだ声で、コボルトに命令しました。
それもそのはず、悪魔は名誉な仕事と言われて役目に着いたものの、その実態はただの薄給超重労働な仕事だったのですから。
「あ~、悪魔のダンナでもダメでやんしたか。やれやれ、次の担当は誰でしょうねぇ」
コボルトはそう言って肩をすくめると、部屋を出ていこうとしますが…その時、また魔法陣が光りはじめます。
「ぬっ!?これはまさか、バカな!まだ私は戻ったばかりなのだぞ!?」
「あ~、これは召喚予約が入ってたんですねぇ。責任者には話を通しておきますんで、悪魔のダンナ、頑張ってくだせぇ」
「何だと!おい待て……」
悪魔は何か言おうとしますが、その言葉は、強く輝く魔法陣によってかき消されてしまいました。そして光が消えると、そこにはもう悪魔の姿はありませんでした。
「そういえば、ダンナは何年も戻ってこれてませんでしたねぇ。こっちと向こうの時間軸はズレてやすし、これは、何件か召喚予約が溜まってるんじゃ…まぁ、掃除係のアッシには関係ねぇですけどね」
部屋に残されたコボルトは、そう独り言を言うと、仕事に戻っていきました。
- - - - -
そこは、とある連合国の一つの州。そこにある小さな都では、青い軍服のような服を着た、黒い短い髪の細身の青年が、机の前で頭を抱えていました。
「あああ、どうすればいいんだ…」
彼は、この都を治める子爵家の跡取り、いえ、昨日まで跡取りでした。父親が引退し、彼は子爵になったのです。
「このままじゃ、彼女は伯爵と結婚してしまう。でも、僕のことなんか、覚えているはずが無いし…」
子爵は、ある侯爵令嬢に恋をしていました。小さな頃に出会った、美しい彼女に、子爵は一目惚れしてしまったのです。
ですが、子爵の領地は小さく、珍しい金属を産出する鉱山をいくつも持つ侯爵家とでは、釣り合いが取れません。そればかりか、立派な都を持つ伯爵やその取り巻きには、いつも馬鹿にされてばかり。
それでも必死に見返してやろうと励んだものの、結局州都(州の首都)での政治的な争いに敗れ、自分の都に帰ってきたのです。
そんな時、侯爵令嬢が伯爵と結婚するのではないか、という噂を耳にしたのでした。
「でも、こんな僕に出来ることなんて…」
落ち込む子爵は、少し落ち着こうと、書庫に足を運びます。普段は使わない本ばかり置いてある書庫は、彼が落ち着くには、うってつけの場所でした。ですが、足元をよく見ていなかった彼は、転んでしまいます。
「うわぁっ!?」
そのまま、雑に積んであった本の山に、子爵は突っ込んでしまいました。
「アイタタタ…ん?この本って…」
そうして突っ込んだ本の中に、彼は見たことのない豪華な、けれどおどろおどろしい装飾のされた、一冊の本を見つけます。その一冊の本が、彼の運命を変えてしまいました。
-数日後、子爵の館の地下にて-
「子爵様、本当によろしいのですね?」
「うん、これしか方法は無いんだ」
地下には、馬や馬車、それに食料といった供物に、それを貯め込んでいた、子爵の捕えた盗賊団の面々が集められていました。
子爵が行おうとしているのは、悪魔を召喚するための儀式。子爵は、その生贄のために、領内を騒がせていた盗賊団を捕らえたのです。鬼気迫る様子で戦う子爵とその騎士団の姿に、盗賊たちはあえなく捕らえられたのでした。
なお、書物には生贄とだけ書かれていましたが、子爵は念のためにと、供物も用意したようです。
「ムー!ムー!」
猿轡を噛まされた盗賊たちはしきりに何かを言おうとしますが、子爵は相手にしていない様子です。
「始めて欲しい」
「了解いたしました。~~~~~」
そして子爵が言うと、黒のローブを目深に被り、先端に宝玉を埋め込まれた真っ直ぐな杖を持った男が、何やら呪文を唱え始めます。
呪文に呼応するかのように魔法陣が光りはじめ、そして呪文が続けられることなんと数時間。魔法陣から発する光は最高潮に達し、子爵もついに目を開けていられなくなるほどの光が放たれました。そして子爵が目を開けると、そこには供物も、そして盗賊たちの姿もなく、代わりに一人の男が立っていました。
その男は、黒の礼服のようなものを身に纏い、深紅に光る瞳と、山羊のような角を持った男――そう、悪魔です。
精根尽き果てたのか、杖を持った男はその場に崩れ落ちてしまいます。しかし、子爵は手を差し出すどころか、一瞥もくれはしません。悪魔から目を離すことが出来なかったのです。
「クッ、どうやら召喚されてしまったようですね。仕方ありません、契約を反故にしたのでは悪魔の沽券に関わります。人間よ、何を望むのですか?」
悪魔は、子爵に話しかけます。その声は初めこそ怒気が含まれていたものの、すぐに艶やかな、魔性の声へと変わっていきました。
子爵は、その声に我に返ると、悪魔に願いを口にしました。
「その…彼女を、侯爵令嬢を僕のものにしたい!伯爵なんかのものになる前に、彼女の身も心も奪ってしまいたいんだ!」
悪魔は、少し考える素振りをしました。子爵がゴクリと唾を飲む音が、地下室に響きます。
「ふむ、いいでしょう。しかし、私は侯爵令嬢を見たことがありません。ですので、見せて頂けますか?」
「えっ!?ええと、似姿くらいなら…」
子爵は困りました。ここは子爵の都で、侯爵令嬢はいないのです。そのため、似姿や似顔絵でもいいのかと聞こうとしましたが…
「ダメですね。ならば…あなたの左目をお借りしましょう」
悪魔はそう言うと、一瞬のうちに子爵へ肉薄し、その顔に手を当てました。
「なっ、何を!?」
「ですから、借りるのですよ。これで、あなたの左目に映ったものは、全て私にも見えます。さあ、その侯爵令嬢とやらに会ってきなさい、そうすれば、願いを叶えましょう」
「ええっ、でも会うって…」
「いいから早くしなさい」
「は、はいっ!」
悪魔に凄まれた子爵は、そのまま地下室を走り去っていきました。
「これが私を召喚した魔術師ですか…気絶してしまうとは、前の人間のように手強くはなさそうですね。それに、今回はただ叶えるだけの願いだ。ならいっそ、楽しませてもらいましょうか」
悪魔はそう言って魔術師を足蹴にすると、そのまま虚空へと消えていきました。
その数日後、子爵は、侯爵令嬢の館にいました。駄目元で面会申請をしたところ、あっさり通ってしまったのです。子爵は、これも悪魔の力だろうかと思いながら、侯爵令嬢の部屋へと向かいます。
「ごきげんよう、子爵様。よくいらして下さいました」
そこにいたのは、長いウェーブがかった金髪をした、ドレス姿の美しい女性。子爵も時折遠くから見ることはありましたが、近くで見るとその美しさはさらに際立って見え、息をのみます。
「は、はい。本日はお会いできて光栄です、侯爵令嬢様」
「そんなに緊張なさらないでください。どうぞ」
優雅な仕草で席を勧める侯爵令嬢に、子爵は完全に見入っていました。
しかし、メイドが入ってくる音に我に返ると、急いで席に座ります。
「ほ、本日はお日柄もよく…」
「まあ、まるで初めての見合いのようなご挨拶ですね」
「み、見合い!?」
「ウフフ、冗談ですわ」
「えっ、冗談ですか!?よしてください、心臓が止まるかと思いました」
緊張してしどろもどろになる子爵でしたが、侯爵令嬢の冗談で、少し調子が戻ったようです。
その合間にメイドが紅茶を注ぎ、部屋にはいい香りが広がりました。
「ありがとう。あとは下がっていいわ、二人きりにして頂戴」
「かしこまりました」
丁寧にお辞儀をしたメイドは、そのまま部屋を出ていきます。部屋には二人きりになりました。
「(あれっ、この香り…)」
ですが、落ち着きを取り戻した子爵は、侯爵令嬢と、州都や侯爵の領地のことなどの会話に花を咲かせます。しかし…
「そこで驚いたことに、急に友人に結婚すると言われまして、それで、あ…」
結婚、その言葉を発した瞬間、子爵は何も話せなくなってしまいました。楽しく話してはいたものの、侯爵令嬢と伯爵との結婚、子爵はそれを破談にしに来たのですから。
「子爵様?」
侯爵令嬢は、心配そうに子爵を見つめます。
もう、子爵の左目には、侯爵令嬢がはっきりと映っています。あとは悪魔に頼めば、侯爵令嬢は自分のものだと、子爵は考えますが…
「その、侯爵令嬢様。伯爵と結婚されるという噂は、本当なのでしょうか」
それでも、その前に侯爵令嬢の心の内を知っておきたい、そう思ったのです。その言葉に侯爵令嬢は、俯きながら話し始めます。
「はい…その通りです。伯爵とはいずれ結婚することになるでしょう、政略結婚ですが…」
政略結婚。貴族同士ではよくある、家同士の結婚。子爵の中に、侯爵令嬢が伯爵を愛していなかったという安堵と、そして結婚が事実であったことへの嫉妬が生まれました。
これは、今すぐにでも悪魔を呼び、彼女を自分のものにしなくては。そんな黒い感情が彼を支配し――
「ですが…子爵様、この紅茶、どこのものかお分かりですか?」
次の言葉に、子爵は我に返りました。
「ぼく…私の領地の紅茶ですね。まさか、覚えていて下さったのですか?」
そう、それは子爵の領地で名産になっている紅茶。そして――
「はい。あの時私を、襲ってきた賊から身を挺して守ってくださったこと、今でも昨日のことの様に覚えております」
――それは幼い子爵が侯爵令嬢に会いに行った時、お土産に持って行った紅茶でもありました。
彼は幼い時に、偶然領地を訪れていた侯爵令嬢に会い、一目惚れをしました。そして、彼女の事が気になって仕方なく、彼女が滞在している間は、何かにつけて会いに行こうとしていました。そうしてずっと彼女ばかりを見ていた彼だからこそ、そして背の低かった彼だからこそ、地を這うようにして彼女に襲い掛かる刺客に、いち早く気付くことが出来たのです。
「でも、結局は何も出来ず、貴女を助けたのも賊を倒したのも護衛たちです」
ですが、彼は当時まだ剣を始めたばかり。侯爵令嬢にかっこよく見せるため、あえて剣を佩いていたのが功を奏したものの、一撃を受けるので精一杯で、そのまま気絶してしまったのです。
彼が病院で目を覚ます頃には、大事を取った侯爵令嬢たちは領地へ帰ってしまっており、頭が真っ白になった彼は、何を言われているのかも分からず、ついには部屋へと引きこもってしまいました。
それでもいずれ立ち直った彼は、その悔しさからか必死に武芸を磨き、ついに領内の騎士団を率いるに相応しい腕前を身に着けたのですが、生憎政治的な戦の仕方までは身につけられなかったようで、権力争いからは身を引かざるを得なくなったのです。
子爵は、そんな恥ずべき思い出として考えていましたが…
「いいえ!子爵様が私の前に出てきた時、私にはとても輝いて見えました!他の騎士の誰よりも!それにもし貴方がいて下さらなかったら、私はここにはいなかったかもしれません」
「えっ!?」
「本当です。けれど私は、少しでも安全にするためとすぐに領地へ返されてしまい、怪我をされた貴方にお詫びをしに行くことも出来ず…本当にありがとうございました。そして、ごめんなさい」
侯爵令嬢にとって、それは忘れられない思い出でした。その目に涙が浮かび、震える手は強く握りしめられました。
しかし子爵は、その顔に手を当て、涙を拭い去りながら言います。
「泣かないでください。僕は実は、あなたを守り切れなかったと、ずっと後悔していたんです。でも、貴女の言葉で、僕は救われました。だから、泣かないで」
「私は…私は怖かったのです。貴方に怪我をさせておきながら、謝りもせずに帰ってきてしまって。こんな酷いことをして、どんな顔で貴方に会えばいいのか分からなくて、それで話しかけられなくて…」
「僕もです。もし貴女に不甲斐ない男だと思われていたりしたら、そう考えると怖くて…僕の事など忘れているだろうと自分に言い聞かせ、ずっと逃げ続けていました。ですが、もう逃げません」
そのまま子爵は侯爵令嬢の肩に手を置くと、その目をまっすぐに見て言います。
「貴女を愛しています。どうか、僕の元へ来てくださいませんか。たとえどんな敵が、苦難が襲い掛かろうとも、必ずや貴女を守り、そして幸せにすると誓います!」
「本当に、本当によろしいのですか?こんな私で…」
「貴女だからです。僕には、貴女しかおりません」
拭ったはずの涙が、再び零れ落ちました。しかしその顔は、先程のような苦しげな顔ではなく、笑顔に満ちていました。
「ありがとうございます、私も貴方を愛しています。…ですがそのために、私は伯爵と話をしなくてはなりません」
「ならば一緒に…」
「いいえ、これは私がやらなくてはいけないことですから。ですが、必ずあなたの所へ参ります。代わりに、これを」
そう言うと侯爵令嬢は、ひとつのペンダントを取り出し、子爵へ渡しました。
「これは?」
「これは侯爵家の女性に代々伝わっているもので、結婚式の際に必ず身に着けていたものだそうです。どうかこれを、持っていてくださいませんか?」
「そんな大事なものを…ありがとう」
そのままお互い抱き合い、そして互いの唇が近づき…
「えっ、ど、どうしたんだ!?」
そのまま、侯爵令嬢の首は後ろに倒れ、その全身から力が抜けました。子爵の必死の呼びかけにも、その目が開くことはありません。
「頼む、目を、目を開けてくれ!」
「ご安心を、死んではいませんよ」
そんな必死の呼びかけをする中、子爵の背後に現れたのは…悪魔です。
「あ、悪魔!?なぜここに…」
「言ったでしょう?その左目に彼女を映せば、願いを叶えると。それに従い、契約を履行したまでです」
「なっ!まさか、さっきまでの彼女の言葉は、全て貴様が言わせていたのか!?」
子爵は、自らの恐ろしい考えに背筋を震わせました。これまでのことは全て、願いの結果だったと考えたのです。しかし――
「いいえ、あれは全て彼女自身の言葉でしたよ。私が願いを叶えたのは、たった今です」
それは杞憂でした。悪魔は、子爵の考えをきっぱりと否定します。
「な、何だと?なら、何故こんなことをした!僕は彼女に危害を加えることは望んでいない、それに彼女は僕の元へ来てくれると、そう言ったんだぞ!」
「ええ、ですから私も、不思議に思っていたのですよ。私が魔法で調べた限り、彼女があなたを愛しているのは本当でした。なのに、身も心も奪いたいと願うのかとね。それでもしや人違いかと思い、実際に見せて頂くことにしたのですが…」
「何だって!?お前は初めから知っていたっていうのか!なのに、今更何を叶えるって言うんだ!!」
「ですが、あなたは私を呼んだでしょう?心の中で」
「なっ…」
子爵は絶句しました。そう、彼は悪魔を呼んでしまっていたのです。伯爵との結婚の事実に嫉妬した、その時に。それから誤解が解けても、すでに手遅れでした。
「そんな…いや、違う!僕は彼女を傷つけろなんて言ってはいない!!」
「おっと、そうでしたね。これをどうぞ」
そう言うと悪魔は、自身を睨みつける子爵に、拳大の輝く白い宝玉のようなものを投げ渡しました。そのふてぶてしい仕草に、子爵は憤慨します。
「何だこれは!」
「ですから、彼女の心ですよ。ええ、この願いを叶えるのは苦労しました、なにせ身も心も手に入れたいというのですから。既に惚れている以上新たに惚れさせることも出来ませんし、実に面倒な願いだと思いましたが、これも契約です」
意味が分からないといった顔で、宝玉と悪魔を見遣る子爵。それを尻目に悪魔は続けます。
「それは彼女の心の結晶体です。そして、そちらの彼女の体には、私の力を籠め、そのままの姿で維持されるようにしました。あとはどこへなりとお運びしましょう、それで彼女の身も心も、全てあなたのものですよ」
「ふ、ふざけるなぁ!!」
あくまで淡々と説明する悪魔に、子爵の怒声が浴びせられました。
「彼女が惚れていると知っているなら、教えてくれればよかっただけだろう!なのに、何てことをしてくれた!こんな、こんな結果になるなら、願いなんていらない!」
「ほざくなニンゲン。契約は不可侵のもの、そして一度願ったならば、無かったことになど出来るはずがない。自らの願いの身勝手さを他者の所為にしようとは、もう一度自らの愚かな願いを省みるがいい!」
その瞬間、子爵の脳裏に、悪魔に願いを言った瞬間のことが思い出されます。そしてその光景はだんだんと時間を戻していき、生贄を探そうとしたとき、侯爵令嬢の結婚の噂を聞いたとき、政争に負けた時とどんどん遡っていき…ついには、侯爵令嬢に会うことを怖がり、部屋に引きこもった時にまで巻き戻されました。
「キサマが訓練に打ち込んだのは、立ち直ったからなどではない。部屋で延々と苦しむことに耐えられなくなり、ただ訓練で全てを忘れたかっただけだ!」
「キサマが騎士団を率いたのは、忙しさを理由に彼女から逃げたかっただけだろう!」
そしてその映像と共に、断罪するような声が響きます。
「う、うわあぁぁぁぁぁ!?いやだ、やめてくれえぇぇぇ!?」
子爵はあまりのことに耐えられず、ついには叫び出してしまいました。その顔は涙と鼻水にまみれ、もはや見るに堪えないものになっていきます。
「ククク、これで分かったか?この結果を生んだのは、貴様の弱さだということがなぁ」
悪魔の真っ赤な口が、耳へと届きそうなほどにぱっくりと割れていきます。その形相は、まさに悪魔の笑みというべきものでした。
「い、いやだ、やめてくれ…」
息も絶え絶えの子爵は座り込んだまま後ずさりしようとしますが…部屋の扉は閉められており、それを許しません。
「さぁて、なかなか良く絶望に染まったようですね。実に楽しかったのですが、もう終わりです。願いなどいらない、とのことですし、ここで契約終了、対価を頂戴しましょうか」
悪魔はそう言って子爵の前に立つと、手をかざしました。そして――
「おうおうおう、伯爵様の妾候補に手を出す不届き者はどこだ、ぎゃああああ!?」
バァン!と勢いよく開けられた扉に子爵が弾き飛ばされ、出てきた屈強な大男に悪魔の手が重なりました。
「なっ、人間が邪魔をするな!クソっ、この男の魂を対価にしてしまったではないか!?」
部屋に入ってきた大男は、そのまま魂を徴収され、床へと倒れ伏します。
吹き飛ばされた子爵は、宝玉を抱えたまま、部屋の端で気絶していました。
「やれやれ、対価を徴収した以上、これ以上は何も出来ませんね。まあ、あの調子では彼もいずれ廃人に…おや?」
その時、悪魔の目にあるものが止まりました。それは、大男の胸元からはみ出している、一枚の紙です。悪魔は無言でそれを取り上げ、開きました。どうやらそれは手紙のようです。
「ほう、随分と面白いことが書いてありますね。やれやれ、まあちょうど何かしらの残業が必要だったことですし、せっかくですから利用させてもらうとしましょうか」
悪魔は、その手紙を懐へと仕舞うと、悠々と部屋を出ていきました。そしてしばらくの後、部屋にメイドの叫び声が響き渡りました。
「報告は、以上でございます」
「下がれ。ふふふ、思った以上に上手くいったようだな」
跪いていた黒ずくめの人物が消えると、身なりのいい中年の男は椅子へどっかりと身体を投げ出し、タバコに火を付けました。そうして一息吸うと、大きく煙を吐き出し、満足そうに言います。
「噂、そして悪魔召喚の方法、さらに魔術師の派遣と。フフフ、少しばかり人員を動かしただけで、あの子爵、実に思い通りに動いてくれたわ。しかも、駆け落ちどころか殺してしまってくれるとは、これで侯爵家の鉱山も儂のものか」
その男は、自分の雇った魔術師を子爵家に送り込み、そして侯爵令嬢を手に入れるよう唆させた男。即ち、今回の事件の黒幕でした。
彼は、そろそろ前線の後退してきた自身の髪を弄びながら、徐に一枚の紙を取り出します。そこには侯爵家の印と共に、こう書かれていました。
"借入金の返済の代わりとして、侯爵令嬢を嫁入りさせることを認める。もしこれがなされなかった場合、伯爵家に鉱山の権利を譲渡する"
「しかし…侯爵家の奴らめ、令嬢を娶りいずれは鉱山をも掠め取ってやろうと思っていたものを。まさか、鉱山事故が儂の差し金だったと気づいたか?」
この中年の男は伯爵。そう、侯爵令嬢が結婚するはずだった相手です。
この男はこれまで幾度も裏で暗躍し、侯爵家の鉱山で事故を起こさせたりして、多額の借金を負わせていました。その借金のカタに令嬢を、いずれは侯爵家の鉱山全てを手に入れようとしていたのです。
しかし、それに感づいた侯爵は、予め鉱山を、自分の味方をしてくれる家に売り渡してしまおうと、そう考えていました。その時間稼ぎのため、侯爵令嬢はその身を捧げる決意をしていたのです。
「だが、派閥のためにも、あの鉱山はぜひとも奪い取っておかなくてはいかん。悪く思うなよ」
派閥、それはいくつもの貴族家が集まり構成される、ひとつの勢力。表向き、侯爵家と伯爵家は同じ派閥に所属していることになっていますが、その実伯爵家は、別の派閥と繋がっているのでした。
「ククク、これで派閥内の儂の地位は盤石だな」
「成る程、人間は実に面白いですね。欲深く、そして醜悪だ」
そうして伯爵が嫌らしい笑みを浮かべていると、伯爵しかいないはずの部屋に突然、声が響き渡りました。
「だ、誰だ!どこの暗部だ、出てこい!!」
「そう唾を飛ばさずとも、あなたの目の前にいますよ」
すると、部屋の中央に黒い染みが生まれ、そこから一人の男が姿を現しました。黒の礼服に身を包み、深紅の瞳と山羊のような角を持つ男、そう、悪魔です。
「何者だ?ここに何の目的でやって来た。いや、そもそもこの部屋は儂の暗部が警護していたはず、どうやって入ってきた?」
「誰、とはおかしなことを。私の召喚を子爵に勧めたのはあなたなのでは?」
「召喚…?まさか、悪魔だとでも言うつもりか!?」
「ご名答。そして目的と問われれば、残業ですよ」
「残業?何を意味の分からんことを。まあいい、暗部たちよ、出てこい!」
訝しげな表情を浮かべた伯爵は、部屋を警護する暗部(=忍者のようなもの)を呼びました。しかし、部屋には誰も現れません。
「…?どうした、誰かいないのか!」
伯爵は再び声を上げますが、やはり誰も現れません。それどころか、部屋の中は異様に静まり返っており、外の物音ひとつ聞こえてこないのです。伯爵は身震いしました。
「どうやら気付いたようですね。今ここは、外の空間と隔絶されています、人を呼んだところで誰も来ませんよ」
「まさか、本当に悪魔なのか?な、何が狙いだ!金か!?」
「まさか。ただ、我々は人間を利用しても、人間に、しかも間接的に利用されることなど、されるつもりはないのですよ」
怯える伯爵に、悪魔は笑みを深めながら続けます。
「ニンゲン、我らを利用しようなどと片腹痛い。その魂を以て報いよ」
そして悪魔が言い終えた瞬間、突如として音が戻りました。しかし、聞こえてくるのは使用人たちの足音ではありません。大勢の人たちが走り回り、馬や兵士が、そして銅鑼の音と叫び声が入り乱れる…そう、戦いの音です。
「な、何だ!?何が起こっている!」
「簡単な事、あなたの悪事、その全ての証拠を、あなたの敵にお送りしてあげました、それだけのことです」
「何だと!?どうやってそんな事を」
「隠したいものは、金庫の中などにしまわず、完全に消してしまうことですね」
そう言って消えていく悪魔の手には、一本の鍵が光っていました。
悪魔が消えると、部屋へは騎馬兵が、壁を破って入り込んできます。
「や、やめろ!儂は」
騎馬兵の突撃槍が太陽の光を反射し――それが伯爵の見た、最後の光景となりました。
「ごめんよ、また、守れなかった…ッ!」
そこは病院の一室。子爵の目の前には、ベッドに横たわる侯爵令嬢の姿がありました。その姿は今なお艶やかで、まるですぐにでも起き上がりそうに見えます。しかし、どれだけ声をかけても、もう動くことはありません。
「僕にもっと勇気があれば、こんなことには…本当に、ごめん…」
子爵を気絶させた大男は、伯爵の手の者でした。もし駆け落ちでもするようなら、適当に騒ぎつつあえて逃がすように、そんな命令を受けていたようで、伯爵の悪事が明るみに出たこともあり、子爵への追及の手は緩んでいました。
それでも、悪魔の召喚によりこの事態を招いたことは、決して軽い罪では許されません。ですがその前に一度だけ、侯爵令嬢の前で懺悔することを許されたのでした。
「僕はこれから、罪を償わなくちゃいけない。でも必ず、必ず君を元に戻す方法を見つけて見せる!だけど…」
そうして子爵が取り出したのは、ペンダント。それは侯爵令嬢から渡されたものでした。
「これは、僕が持っているのには相応しいものじゃない。でも、必ず、必ず君のことは元に戻して見せるから、僕はもう絶対に逃げ出したりしないから、だから…っくっ…うっ…」
子爵の目から、涙がこぼれ落ちました。それは、流れても流れても止まることが無く、止めどない子爵の謝罪と後悔の想いを表している様でもありました。
そして、侯爵令嬢の首にペンダントを掛け
「うわっ!?」
ペンダントが突然、七色の光を放ち始めました。そしてその光がゆっくりと侯爵令嬢の体を覆うと…侯爵令嬢の隣に置いてあった宝玉―彼女の心の結晶―が砕け、その破片がキラキラと宙を舞っては、侯爵令嬢の体へと吸い込まれていきました。
その神秘的な光景に子爵が目を奪われているうちに、だんだんその光は薄れていきます。
「はっ、そうだ、侯爵令嬢!?」
子爵は、侯爵令嬢を抱き上げます。すると…
「ん…あれ?私どうして…」
「あ、あ…うああああああっ!」
子爵は、大声を上げながら泣き始めました。そして、それに驚きながらも、優しくその髪を撫でる侯爵令嬢。
「もう、泣き虫ですね。私を守ってくれるのではなかったのですか、私の騎士様?」
「ぼ、僕は、守れ、なくてごめ、でも、良かった、うああああっ!」
そのまま侯爵令嬢は、子爵が泣き止むまで、その頭を撫でていました。
その胸元には、役目を終えて罅割れた退魔金属のペンダントが、鈍い輝きを放っていました。
悪魔を召喚した人の末路はといえば、そのほとんどが悲惨なものばかり。ですが、数多の偶然が重なり、もはや奇跡とも呼べるような出来事が起きれば、こんな結末もあるようです。
こんな話は、いずれ吟遊詩人の手によって語り継がれ、世に広まっていくのでしょう。ですが、それでも悪魔を喚ぶ人間がいなくなることはありません。人の尽き果てぬ欲望、その陰では、いつも悪魔が笑っているのです。
~FIN~
※2020/8/13 一部の表現を修正しました。