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1話 兆候

 






 幾本もの禍禍しい空気を纏った()()()の腕が()()()の体から、あるいは地面から生え蠢いている。月明かりに照らされてできた影のせいかその本数が余計に助長されて見える。

 自分の呼吸が早まっていくのを感じる。今さらになって何故他人のために囮になろうなどと考えたのか分からなくなってきた。


 ()()()はいったい幾つあるのかわからない眼球の全てを向けて、地面から掬い上げるかのような重低音を響かせながら、笑うようにからだ全体を震わせた。もしかしたら怒っていたのかもしれない。

 その音が体を突き抜けて自分の心臓を揺らした時、心はすっと諦めで満たされた。膝が笑い始め、力が抜けて地面に腰がついた。生命の中心である心臓をすでに()()()に鷲掴みにされている気持ちになった。


 数十本もの触手が這い寄り、その中でも比較的細いものが体に絡み付く。

 そして現実から逃げるように目を閉じたその時、辺り一体を暴力的な爆音と強烈な閃光が支配した。


「民間人1名確保! 頭と背中を強く打ってる! 救護班早く!」


 吹き飛ばされ背中に鈍い衝撃が走った後、薄れる意識の中でそんな声が聞こえた。

 次に起きた時には国立病院の天井と、窓の向こうの和やかな子供の歓声があった。



  §



 春の朝。鳥のさえずりと共に窓から暖かな風が吹き込みカーテンを揺らす。


「ぅんん………」


 差し込む陽光に当てられて部屋の住人は布団の中へと頭を隠した。


 ────スルスルスル

 布団からはみ出た黒い頭が動く度に布が擦れて音が出る。()()は頭の出ているのとちょうど反対側から2、3見えていて、ゆらゆらと蛇のように揺れている。


「ふぇあああああ」


 部屋の主、智世(ともせ)は日の明かりに目を瞬かせると、体を起こし欠伸をしながら瞼を擦る。両腕をぐっと伸ばして寝ている間に鈍った背中を伸ばしたところで異変に気付いた。

 いつもならば腕を伸ばしたついでに何度か手首の関節をこりこりと鳴らすのだが、その音がしない。そもそも腕の関節の感覚すらない。


 そして、恐る恐る頭上に伸ばした腕を顔の高さまでおろすと、腕は両方それぞれが2又に別れ、にゅるにゅると固さを感じさせないしなやか?な動きをしていた。色は肘より上のあたりから黒く変色しており、つるつると光沢が出ている。

 それを形容する最も近い言葉を言うならば――――――触手だった。


「んだこりゃああああ!?」


 智世の怒声が朝一番の住宅街に響き渡った。




「どどどどうしたの智世ぇ!?」


 智世の母である千代美(ちよみ)がドアを殴るように開け放った。どたばたと階段をかけ上がって来たせいか息があがっている。神楽(かぐら)家が2人家族であることもあってか千代美が心配性であるのはいつものことだった。

 千代美は既に40は過ぎているが外見は30代前半と言ってもおかしくないほど若々しい。背もそこそこ高く母性の溢れる女性だと近所の住民にもっぱら評判だった。


 その千代美は黄色い熊の描かれたエプロンをかけて右手にフライパンを持ったまま、ベッドの上に座ったまま固まっている智世に目立った外傷がないことを確認して安堵の息を漏らす。


「また悪い夢でも見たの?」


 千代美は気付いていなかったのか慌ててフライパンの上の目玉焼きが落ちないように面を水平に戻して言った。


「ああ、いや、起きかけで寝ぼけてたみたいだ。何でもなかったよ、大丈夫」

「そう? ならいいけど。あんまり心配させないでね、母さん心配性なんだから。前みたいなことがあったら今度こそお母さん心臓止まっちゃうわよ」

「わかってるよ、何回同じこと言われたと思ってるの?」

「あらそう? とりあえずもうご飯出来ちゃうから下りてきてね」

「あいよー」


 智世の返事に満足したのか扉の向こうへ戻っていく。その千代美の「きゃあ焦げてるー!」という素っ頓狂な声を聞きながら、智世はもう一度自分の腕を触って首を傾げてから襟のボタンに手を伸ばした。



  §



「皆、新しい反応1個あった、すぐ消えたけど」

「またかい?」

「最近はしょっちゅう出てくるねぇ」

(かいこ)頼んでいい? 反応も薄いらしいし1人で大丈夫でしょ?」

「りょーかーい」



  §



「智世、今日も出かけるの?」


 向かい合ってコーヒーを啜っていた千代美がカップをコースターの上に戻して言った。枝を輪切りにしたコースターは智世が小学生の時に作ったものだ。それを今でも千代美は大事に使っている。


「ん、今日も河川敷まで行こうと思ってる」


 口に入っていたパンを飲み込んで返す。ちょうど全て食べ終えたところで、手を叩いて皿の上へ手に着いたパンくずを払った。


「了解、それにしても息子がこの年でウォーキングなんて趣味に目覚めるなんてねー」

「爺臭いって?」

「ちょっとだけね」


 千代美はカップの底に僅かに残っていたコーヒーを仰いで飲み干すと、丁度空になった皿も一緒に持って席を立った。


「母さんも今日は午前中仕事だから、鍵忘れないでね」

「はいよ」


 ずいっと椅子を引いて壁際のタンスの上へ手を伸ばす。白を基調としたタンスの上にはガラスの入れ物があり、そこからてんとう虫のキーカバーのついた鍵を取り出した。



  §



『蚕そこ右行って、その先15メートルで左折』

「了解。何かここらへん道入り組んでて分かりにくいね」

『その地区が出来たの結構昔らしいからね、整備が万全じゃなかったんじゃない? あ、そこもっかい右ね。そんで曲がってから右側の3つ目』

「あ、見つけました! 赤い屋根の家ですね?」

『そこの中から微弱ながら反応がある。あ、待って移動し始めた。今多分外に出る』

「ん?」



  §



「じゃあ行ってきまーす!」


 智世は家先で扉を開けたまま室内に声を張り上げる。この時間になると千代美は出発の支度でバタバタしているため、声が小さいと消えないのだ。

 1度、言ったつもりだったが聞こえてなかったらしく怒られたことがある。5分程度で戻るつもりでいたため携帯を持っていなかったことも拍車をかけて、心配性の美千代が泣きそうな顔になっているところに戻ってきて叩かれたのだ。それ以来家を出るときには声を張り上げることにしていた。


「はあい! 事故とかに気を付けてね!!」


 千代美の返事が閉まっていく扉のせいで小さくなっていくのを聞きながら軽い足取りで敷地を出る。


 毎週土曜日の散歩は日課だ。日課と言ってもまだ2ヵ月しか続けていないが、少なくとも一回も欠かしたことはない。高校に入学してから運動部に入らなかったため、運動不足を補うためにせめて週末ぐらい出掛けたら? と千代美に言われて始めたのだ。千代美は半ば冗談のつもりで言ったらしいが、存外自分はこの散歩という行為を気にいっている。


「あれ?」


 そして家を出てすぐ智世は眉を潜めた。自分からおよそ10メートルほど離れたところにある電柱の裏に人が立っていた。いや、隠れていたと言った方が言いかもしれない。その人は電柱に体を隠して顔だけ半分だしてこちらを見ていた。しかし人間の体より細いコンクリートに隠れられる訳もなく、体の一部が見えている。

 そして目が合った。目が合ってからおよそ1秒、やっとその人は自分も見られていることに気がついたのか、はっと頭を引っ込めた。もちろんバレバレだ。


「変な女の子………無視した方がいいな」


 智世は踵を電柱とは別の向きに向けて歩き出した。



 神楽(かぐら)智世が住む町、暖川(あたたがわ)町は神奈川県中央に位置する面積こそは小さいが人口は約5万人ほどのそこそこの町だ。相模川を挟んだ西には曲塚(まがりづか)市、南には萱ヶ崎(かやがさき)市が存在するが、面積が小さいため境などあってないようなものだ。

 智世が向かうのは相模川の河川敷、つまり曲塚市との境だ。自宅からそこまでおよそ2キロで歩くのが早い智世は15分とかからずに着く。それからのんびりと歩き回る。



 土曜日の午前中ということもあってか、智世と同様に散歩に来ている人、遊びに来ている親子などがちらほらと見える。こういう風景を眺めるのも好きだ。


「あ! 兄ちゃん、ちわー!」

「こんにちはー!」

「お、こんにちは。今日も犬の散歩?」


 智世が河川敷に来ていつもの階段に腰をかけていると、2人の小学生ほどの子供が柴犬のリードを持ってかけよってくる。一番最初に智世の元にたどり着いたのは柴犬だったから逆の言い方をした方が言いかもしれない。


「おっすポチ太郎、相変わらずやんちゃな奴だなあ」

「こいつ兄ちゃんのこと気に入ったのか土曜日になると散歩散歩って騒ぎだすんだよ」

(かける)も来る時やたら急ぐようになったけどね」

「ばっ! ちょっと小豆(あずき)(ねえ)!」


 この2人のちびっ子、山梨小豆・翔、は智世がこの趣味を始めた時に知り合った子達で、小4と小2の仲の良い姉弟だ。毎週会っては犬のポチ太郎も合わせて少し遊ぶ。智世が毎週この趣味を続ける理由の1つだ。


「よしじゃあ今日はフリスビーからやるか!」

「「おおー!」」








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