後悔したとして
僕はたまに他の人より抜けているところがあるみたいです。
それに気付かぬまま沢山の人とすれ違ったまま生きてきてしまいましたが、あの方だけは手を繋いで隣を歩いてくださいました。
無知という暴力を振るう僕を見捨てることなく、傷を隠しながら懸命に諭してくださいました。
いつか独りになっても前を歩けるように、生きる術を教えてくれました。
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…ザアアァァ……
本日はメイド長のシャルトルさんにお仕事をいただき、廊下の花瓶の水換えをさせていただいております。
普段メイドさん方の管轄なのですが何故やらせていただいているのかというと、それは雨が降っているからです。
というのも、普段手際良くお仕事をこなすミルメさんやソフィーヌさんといったベテランメイドの半数程が獣人の方なのです。
雨天時、猫族や鳥族の方々は体質なのか体毛に癖がついたり、髭が敏感になっていたり、気分が優れなかったりと様々な体調不良により大半が一時休養をとられるのです。
中には平気な方もいらっしゃいますが、同じような種族の方が多い為やはり人手は足りないそうです。
特に僕のような人間にはわからない症状のようなので、安易に近寄るなとのヒュラドグ様の命により、使用人部屋の廊下はその日極力通らないよう気を付けております。
呻き声や悲鳴のような声が聞こえても、心配して部屋を覗いた瞬間に八つ当たりされて血塗れになった方がいらっしゃるそうなのです。
この間たまたまご本人からお聞きしたのですが、笑いながら見せていただいた爪痕の深さにヒヤリと背筋に冷たい汗が流れました。
きっと僕だったら間違いなく死んでいたでしょう。
けれどいらっしゃる皆さんでテキパキとこなしていく様は綺麗な作法を見ているようで、つい手を止めて見蕩れてしまいそうになります。
皆さんお綺麗な方ばかりなのはご主人様の趣味なのでしょうか。
悪い事を考えていたら怒られてしまいそうなので、目の前の事に集中しましょう。
花瓶の水換えなら素人にも出来ますので、微力ながら助力させていただいております。
とはいっても、今見えるだけでも廊下の端まで左右合わせて何十壺とありますが。
…午前中までにこの区間だけでも終わらせないといけませんね。
ミルメさん方にはまだまだ追い付けそうにありません。
お時間ある時に手際良く終わらせる手順を伝授してくださるかお願いしてみましょう。
早い復帰を心よりお待ちしております。
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昼食を終えた後も続きをさせていただこうとしたのですが、他の方がもう終わらせてしまったそうなので大浴場の掃除をいただきました。
ご主人様の浴室はシャルトルさんが担当なので、使用人用の大浴場に向かいます。
ヒュラドグ様やマイノさんなどの位の高い方には個室に浴室がセットになっているのですが、他の方は二人で一つの使用人部屋とその近くにある大浴場に分かれています。
僕は特例でヒュラドグ様とご一緒させていただいておりますが、本来はコアさんと同室予定だったそうです。
「長いこと1人だったから『後輩できるんだっ!』って楽しみにしていたけれど、残念だったなあ。ジェンガ君と一緒の部屋ならきっと毎日話し足りなくて眠れなくなるよ」
食堂で向かい合うように話されていた顔はすこし寂しそうで、前よりも続くようになった会話を僕から止めてしまいました。
『とても残念です』と一言で済むはずだったのです。
何日か前から上手く回らぬ頭に、胃の中濁った中からは選べず、時間だけが過ぎて音すら口に出せませんでした。
ギリィッ…
喉に出てこない言葉に困惑して、片手で首を絞るように思いきり締め上げました。
「なにしてるの!?」
慌てて駆け寄るコアさんに止められ、手をまとめられたまま片手で食器も遠ざけられました。
首に手形の鬱血と赤い線が1本引かれ、そこから血が流れました。
ツゥ…
まるで舌から発するはずだった返事を零してしまった気がして、また失敗してしまったと息が詰まりました。
何故か痛みは感じませんでした。
まるで機械になった気分でした。
呆然と固まる僕に困ったように覗き込み、
「ごめんね」
と言わせてしまいました。
目を見張りました。
その表情の意味を、よく知っていました。
置いてく人達と同じそれは、とても怖くてずっと見られませんでした。
その後コアさんは治癒魔法をかけてくださり、傷は無くなり襟に染みが残っただけで済みました。
「困らせるつもりはなかったんだ。ごめんね」
何も言えない僕を案じて食堂を先に出て行かれた背中にお礼を言うこともできず、手を伸ばすことすらできませんでした。
しばらくしてから遠ざけられた冷めた食事引き寄せ、黙々と飲み下しました。
あの人だったらどうやったら良かったのか教えてくれるのに、と甘えたことを考えました。
ですが此処にあの人はおりません。
誰も教えてはくれないのです。
一人で考えることをしなければなりません。
首は痛くないはずなのに、まだ何処か別の部位がチクチクしました。
カラララ…
男性更衣室に入ると、先に別の方がいらっしゃいました。
その方は扉の音に気付くと振り返り、ぎこちなくもゆっくり笑いかけてくださいました。
「じ、ジェンガ君、君も、メイド長に、頼まれたのかい?」
上着を脱いでズボンの裾を捲りながらブラシかけをしていたのはコアさんでした。
あれ以降気不味く思いながらも食事のタイミングが合わず今日まで謝れずにいたのですが、これは縁というものでしょうか。
同じ格好の方がやりやすいと姿を真似、入口に立て掛けてあったブラシを手に反対側を担当します。
ガシュガシュ
使用人部屋2つ分の広い浴室を床を擦る音が反響します。
あの日以降話をしてこなかったので何から言えばいいのかわかりません。
これまでコアさんから話題を振ってくださっていたので尚更のこと僕から言うとなると心臓がバクバクと早まります。
何を、どうやって、どれから、どのタイミングで、そもそもお仕事中なのに邪魔にならないだろうか、迷惑になるんじゃないか、嗚呼でもこれを逃したら次はいつ、そもそも次があるのかも不確定なのに、いやまた先延ばしにする悪い癖が…と頭が忙しなく働きます。
それでも黙々と作業に取り組むのですがあの人の教えを記憶から漁っても掘り起こしても混乱する脳は通常の半分以下の機能しか発揮出来ません。
「ジェンガ君、じ、ジェンガ君…?」
ずっと同じ箇所を擦り続ける背中にかかる声も聞き逃し、肩に手を置かれるまで一人芝居に現実見が無く足元が浮いたような気分に酔いそうになります。
ポン
「っ、あ…」
「だ、大丈夫?顔色、良くないし、や休んで、て、いいよ?」
振り返ると肩に掛けたタオルで額の汗を拭いてくださいました。
アグアさんよりも青白く生気の無い僕を心配そうに背中をさすって、脱衣場を指差し休むよう促してくれます。
ですが後から来て早々に休むのは良くないと首を横に振り、ふらふらと別の所に行く足取りの覚束無さにオロオロと行き場のない手は宙に浮いたまま固まりました。
「ぼ、僕もそろそろ、や休もっかなーって思うんだけど、ジェンガ君、も一緒にどどうか、なー…なんて」
「大丈夫です。すみません。コアさんは休んでください。僕は、まだしばらく続けますので」
振り返りもせず機械的に返事をして、その場から逃げるように離れました。
あの時の恐怖が拭い切れなくて、子供地味た真似をしてしまいました。
どうやって切り始めるかばかり考えていっぱいいっぱいの頭では絶好のチャンスも逃してしまいます。
湯気に当てられたようにくらりくらりと酸素が足りなくなってきたのにも気付けず、蒸気した赤い頬に忠告の声は遠のくばかりです。
ブラシを握るのはこんなに辛かったでしたっけ?
視界はこんなに曇っていましたっけ?
立つのはどのように力を入れましたっけ?
僕は今何をしていたんでしたっけ?
コアさんに謝りにきたんでしたっけ?
謝れなかったらどうすればいいんだっけ?
何したら許してもらえるんだっけ?
許してもらえるんだっけ?
僕は、ここに、い、てい、い……ん、だっ
「け…?」
ドサッ
「ジェンガ君ッ!?」
天井が回る、ブラシが転ぶ、体が落ちる、僕がなくなる。
薄れゆく意識の中、そういや不器用だったなあ、と久しぶりに実感しました。
一点集中が中々直りません。
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……どれくらい眠っていたのでしょうか。
脱衣場のマットの上に寝かされタオルで枕を作ってくださったみたいです。
あれほど辛かった体調も良くなり、呼気も楽にできるようになりました。
額に置かれた塗れタオルが気持ち良くて目を細めると、浴場からコアさんが出てきました。
「あ、大丈夫?ででも、具合悪いなら、ちゃちゃんと言、わないとダメだだよ?無理しちゃ、め、めっ!だよ!」
「すみません。ご迷惑をお掛けしました」
傍らに座り人差し指を上下に忙しなく振りながら精一杯怒った顔を作られます。
直ぐに謝罪したのですが頬の膨らみは凹まず、けれど目元は潤み泣きそうにも見えます。
起き上がって頭を下げようとしましたが止められてしまい、ぷりぷりと普段と比べて饒舌な舌にただ黙って頷くことしかできません。
「あのね、ジェンガ君ね、1番新しいからって、無茶し過ぎるのね!ヒュラドグさんから、聞いてるんだからね!魔道語の勉強遅くまでして、夜更かししてるの!枕の下に教材隠して、こっそりしてるの!そのままお仕事してるのも!お願いされたこと、全部やろうとしてることも!お屋敷のみんな、知ってるんだからね!アグアに言われなくても、わかってるんだからね!人間だからって、僕達差別してないよ!しないよ!可愛い後輩だもん!人語くらい、僕だって、僕にも頑張って覚えれるよ!お話したかったもん!なのに、なんで頼ってくれないの!なんで教えてくれないの!僕だって先輩だもん!ジェンガ君のことちょっとは知ってるもん!ヒュラドグさんだけズルい!同じ部屋ズルいズルいズルい!!ん、もう、倒れて、どうしようって、魔術あんま使っちゃダメなのに、約束なのに、でもジェンガ君、大事だもん、僕はっ、大事だもん!…ふぅっ、も、もうバカあっ!!!バカバカバカバカぁっあああんん!!」
水色の瞳からボロボロ真珠のような大粒の涙が落ちては落ちては止まりません。
子供みたいに大きな声で人目も気にしないで、感情のまま泣き喚く姿に心臓がキリキリと痛みを再発させます。
前にもこうして泣かせてしまいました。
ワザとではなくとも傷付けてしまいました。
僕は酷い奴なのでしょう。
あの人の泣く姿が重なって、ブレて、追いかけたくて、心がやっと体に嵌ったかのように、
カチッ
「泣かないでください△△△様」
咄嗟に抱き締めていました。