7月8日~その1~
ふわり、と何かが横切った気がした。
「ん……」
朝日が昇り、俺は目を覚ます。目にする光景はいつもと同じ白い天井……ではなく。
「あれ……?」
青い空と、ブラウンカラーの玄関扉が俺を出迎えてくれた。
「俺、なんでこんなところで寝てるんだ?」
寝ぼけた頭で昨日の出来事を整理する。
確か、秘密基地に行って、それから家に帰って……。
「あぁ、そうか」
天璃にドアのチェーンを掛けられて家の中に入れなくなったんだっけか。
状況を再確認したところで、横になっていた身体を起こす。地面に直に横になって寝ていたせいか、筋肉が固まって少し痛い。
ラジオ体操でやるような簡単なストレッチをしながら俺はこれからのことを考える。
「って、言っても、ここで待つことくらいしか出来ないけど」
とにかく、天璃がここを開けてくれるまで待つほかない。
屈伸や深呼吸をしながらとにかく時間を潰す。
全く、こんなことなら鞄の一つでも持って来ておけばよかった。あの中にはいつも暇つぶしの為の文庫本が一冊入っているのに。
他に暇つぶしの道具になりそうな物と言えばポケットに入ってるスマホくらいだが、こいつは昨日、鮎川との連絡を終えた途端にバッテリー切れになってしまった。
「ついてない……」
はぁ、とため息が漏れる。……最近、ため息を吐いてばかりだな。
ここ数日の間、やけに不幸な日が続くのはこのため息のせいなのでは? と、何の科学的根拠もない予想を立て始めた時だった。
「……」
チェーンが外れ、玄関ドアの隙間が少しだけ開いた。その隙間から天璃の顔半分が現れる。
「……お、おはよう」
俺がこんなところにいることなんて、天璃は知らないだろうから、さぞや驚いているだろう。そして、今日も不機嫌なまま登校して俺は鮎川に怒られるのか。
最早、テンプレと言ってもいい、いつものパターン。
だが、その予想は早々に裏切られることになる。
「…………」
天璃は特に驚くこともなく、そのまま、家の中に戻っていってしまったのだ。
おかしい。いつもなら、驚いたあとに「なんでここにいるの?」と、でも言うような嫌悪全開の目線を送ってくるのだが。
「いや、今はいいか」
気にはなるが、まずはシャワーだ。夜とは言え、この夏場。身体中が汗でべたついて気持ちが悪いったらない。
そんなことを考えながらドアを開ける。
すると、
「うおっ!」
てっきり、もう自分の部屋かリビングの方にでも行ったものだと思っていた天璃が玄関に突っ立っていた。いや、靴を脱いでフローリングに立っているから天璃がいる場所は廊下になるのか?
いやいや、今はそんなこと関係ない。それよりも、もっと気にするべき部分があるだろ。
「あ、天璃?」
恐る恐る、声を掛けてみるが返事はない。ただじっと、俺の顔を見つめるばかりだった。
なんだ? なんで、いつまでもここに立っている? 俺のことを視界に入れたいとすら思っていないであろう彼女が、どうしてずっと俺の顔を凝視しているんだ?
それに、その目。
困惑したような、何か思い留まっているような、そんな目。今までと、まるで真逆の目を天璃はしていた。
なにか言いたいことでもあるのか。
彼女が何かアクションを起こすまでじっと待つ。天璃がこちらを見るように、俺も天璃の目を見た。
無言の時間が続く。こんなに長い間、彼女と視線を交わすのは初めてだった。
「……」
それから五分ほどの時間が経過したが、天璃は今だに口を開かない。まるで、目で何かを訴えているかのように、ただ、じっと俺の目に視線を向けるばかりだ。
さすがに、少ししんどくなってきたな。
「なぁ、天璃。何かあるなら、口で――」
「……っ」
「あ、おい!」
我慢出来ず、天璃に話しかけると、彼女はびくっと身体を跳ねさせて、そのまま二階へと駆け上がって行ってしまった。
「なんだったんだ、一体?」
その問いに答えるものはいない。
その後は特に変わった様子は見られなかった。いつの間にか、天璃は学校に行ってしまい、俺は彼女と鉢合わせないように、少し時間を置いてから学校へと向かった。
「先輩、ちょっとよろしいですか?」
昇降口にたどり着くと、いつものように鮎川が靴箱の前で俺の到着を待っていた。
また、鮎川の説教か。
腕を引っ張られ、そのまま校舎裏へと連れていかれる。辺りを見回して誰もいないことを確認すると、鮎川は掴んでいた俺の腕を離して、こちらに向き直った。
さて、今日は何を言われるのか。昨夜のことか、それとも今朝のことか。もしくはその両方か。
なんにせよ、今日も正論を並べ立て、俺の行いを反省させようとするのだろう。まったく、うんざりする。
そんなことを考えていると、鮎川と目が合った。
(……あれ?)
様子がおかしい。いつもなら、どこか呆れたような、悪戯をする子供を怒るような表情を見せるのだが。
それがなぜか、今日に限っては違った。眉尻を下げ、酷く困惑しているような表情をしている。
「一体、天璃ちゃんに何をしたんですか?」
声にいつもの覇気がない。
「どういうことだ? なにかあったのか?」
「天璃ちゃんの様子が変なんです」
「変ってなんだよ? 機嫌が悪かったとかそういうことではないのか」
鮎川はこくりと頷く。
「そういうのではなくて、なんて言うんでしょう。どこか寂しそうな感じがしたんです。それでいて、どこか儚げな」
そこまで言って、鮎川は「すいません。うまく説明出来そうにないです」と、じれったそうに首を振った。
「とにかく、天璃ちゃんの様子がいつもと違うんですよ。それについて、先輩はなにか思い当たることはありませんか?」
「確かに今朝も天璃の様子が変だった」
鮎川に今朝の出来事を説明する。
「そうでしたか……」
説明を聞き終えた鮎川は、さらに困惑したような表情を浮かべて自分の顎に手をやった。
「天璃ちゃんの様子がおかしくなったのは今朝からなんですよね?」
「昨夜はまともに話せなかったからわからないけど、少なくとも今朝の時点ではあの調子だったよ」
そうですか、と少し考え込む。それから数秒後、
「もしかしたら、昨夜、何かあったのかもしれないですね」
顔を上げた鮎川はそんなことを言った。
「昨夜、か」
俺が秘密基地に行っていた時、天璃は一体どこで何をしていたのだろう。
鮎川はなにか知っていないだろうか。
しかし、鮎川は俺の考えを見通したかのように、首を横に振った。
「私も、昨日の先輩からの電話が気になって何度も事情を聞いたんですけど、何も答えてくれないんです。ただ、『なんでもないから』と、言うばかりで」
「鮎川でもダメなのか」
だとすると、俺なんかに打ち明けてくれるはずもないか。
結局、天璃のおかしな態度の原因がなんだったのか、わからないまま、予鈴が鳴り、この場はお開きとなったのだった。
祭り明けの授業は体力的にも精神的にもとてもしんどいものだった。
「はぁ……」
授業が全て終わり放課後。俺は机に伏して、オレンジに染まる窓ガラスを眺めていた。
昨日の疲れが全く取れていない。今から、家に帰るまでの体力があるかどうかも不安になるくらいに足が重い。というか、身体が重い。
「……まぁ、昨日はほとんど野宿みたいなものだったしな」
寝れただけマシだと思うべきなのだろうが、今はそんなことを考える余裕もない。
こんなことなら授業中にでも寝てしまえばよかった。
「なんで、クソ真面目に授業なんか受けてたんだ、俺は」
少しずつ、落ちていく夕陽にぶつぶつと愚痴を吐く。
もう、教室に生徒の姿はない。廊下からも声が聞こえてこない。
「俺も帰らないとな」
正直、だるくて動きたくないのだが、ここでだらだらしてると、どんどん貴重な時間が無くなっていく。というか、さっさと家に帰ってベッドにダイブしたかった。
天璃の件もあるけど、まずは自分の体力の回復に努めよう。
ゆっくりと机から立ち上がり、昇降口を目指す。廊下にも、階段にも、やはり人の姿はない。
昨日の祭りの余韻が残っているせいか、その静けさがやけに冷たく感じられた。あんなにたくさんの人達が騒ぎ、笑っていたはずなのにな。まったく、不思議なもんだ。
と、そんなことを考えながら階段を下りていると、ポケットに入れていたスマホが細かく震えた。
こんな時間に誰だろうか。
スマホを取り出すと、画面には鮎川の名前が表示されていた。
フォルダを開いて受信メールを確認する。
そこには、
『天璃ちゃんが先輩に何か話したいことがあるそうなんです。今、お時間ありますか?』
と、書かれていた。
「天璃が?」
にわかには信じられない話だった。
だって、あの天璃だぞ? あの天璃が俺に話したいことがあるなんて、今まで一度だってなかったのに。
とにかく、早く話を聞きに行こう。
俺は鮎川に『今すぐ行く。場所は?』とだけ書いてメールを送り、急いで昇降口へ向かう。
しかし、
「お、小名木」
階段を下りた先で不運にも鈴原先生に捕まってしまった。手には何かの書類の束を持っている。嫌な予感しかしない。
そして、そういう時の予感っていうのは大抵……。
「小名木、今、暇か? 少し手伝って貰いたい仕事があるんだが」
こうなるんだよな。
いつもなら、引き受けるところだが、今はそういうわけにはいかない。
「すいません。今日は妹と予定があるので」
そう断って、頭を下げる。
「妹?」
だが、何故か鈴原先生は怪訝な顔をして俺を見つめた。
そして。
「何言ってんだ、小名木? お前」
首を傾げる俺に先生は告げる。
日常を非日常へと書き換える一言を。
「お前、妹なんていないだろう?」
この日、俺の平穏は完全に幕を閉じた。
「……一体、どういうことなんだ」
自室のベッドに仰向けになりながら、誰にともなく呟いた。
あの後、先生の手伝いで少し遅れると言ったら「なら、結構です」と、向こうから断ってきた。
「なにか話すことがあるのなら、家に帰って話せばいいのにな」
ごろん、と身体ごと左に向ける。
昨夜、なにかしらのアクションがあるのではないかと疲労による睡魔と闘いながら待ってはみたが、日付が変わっても天璃が現れることはなかった。
彼女には彼女のルールみたいなものがあるのだろうが、こちらとしては気が気ではない。
「妹なんていない、か」
昨日の先生の言葉。その言葉にはもちろん悪意のようなものは感じられなかった。心から不思議がっている、そんな表情をしていた。
それでも、試しに聞いてみた。「天璃という一年の生徒を知っていますか?」と。
答えは、やはりノーだった。
「わからん」
どうして、先生は天璃の存在を忘れてしまったのだろうか。
いや、先生だけじゃない。
実はあの後、学校で天璃と同じクラスの生徒達にも同じような質問をしてみた。
しかし、その誰もが先生と同じように、天璃のことを知らないと答えた。
ここまで来れば、疑いようがない。
「みんなの中から天璃の記憶が無くなっている……」
信じられないが、これが現実だ。
しかし、どうしてそんなことが起こるんだ。
なぜ、天璃の存在が忘れ去られているのか。
「とにかく、なんとかしないと」
と、立ち上がったところで、ふと考える。
俺はなぜ、天璃のために何かをしようとしているのだろうか。あの日からずっと、俺達は他人同然、いや、それ以下の関係のまま過ごしてきたというのに。
本人から助けを求めてきたわけでもないのに、勝手に動いてしまって本当にいいのだろうか。
こんなことをしても、天璃はきっと振り向いてなどくれないのに。
沸々と沸き上がる疑問。しかし。
「知るか」
俺はそれらを蹴っ飛ばすようにしてベッドから飛び降りた。
もっともらしい理由なんか必要ない。
家族だから。
きっと、それだけで充分なのだ。
「よし、始めるか」
とりあえず、現状を把握しなければならない。天璃の周囲にどんな異変が起きているのか、もっと明確にしなければ。
その為には……。
「やっぱり、あいつしかいないか」