7月7日 その2
「あー、疲れた!」
篠田先輩がカウンターに項垂れる。
お店を開けてから今の今までひっきりなしにお客さんが来るものだから、今の今までまともな休憩時間を取ることは出来なかった。
だからこそ、あの時、学校に行くことを許可してくれた安藤さんと先輩には本当に感謝している。
「本当にすいませんでした。先輩」
「あー、大丈夫だよ。案外、なんとかなったし」
そう言って、手をひらひらと振って余裕を見せてはいるが、実際、俺がこっちに戻ってきた時には、ほとんど涙目になっていた。
「それで、妹さんは大丈夫だったの?」
「はい、一応は」
あの後、すぐに鮎川の方からメールが届いた。
『天璃ちゃんは、私が責任を持って家まで送ります』
だ、そうだ。
まぁ、鮎川はしっかりしている子だし、彼女に任せておけば安心だろう。
「そっかそっか。よかったねー……」
「先輩、今は人の心配より自分の心配をした方がいいんじゃないですか?」
「お互いにねー」
店の中には俺と篠田先輩、そして厨房にいる安藤さんだけ。客も帰し、店を閉めてしまった。
これから始まる七夕祭りのメインイベント。星空観察のために。
「あ、そういえば安藤さん。私達って星空観察のヘルプとかってやるんですかー?」
先輩が厨房の方に声を掛けると、サンドウィッチの乗ったお皿を持った安藤さんがぬっと姿を現した。
「いや、僕達の仕事はもう終わりだよ。存分に楽しんでおいで」
「よかった、これでまた仕事とか言われたらどうしようかと思ったよー」
「今日は本当にお疲れ様。そのお礼というわけでもないけど、はい」
コト、と俺と先輩の前にサンドウィッチの乗ったお皿が置かれる。
「昼間は忙しくてまともにご飯を食べてなかったろう?」
「あー、ありがとうマスふぁー」
よほど、お腹が空いていたのか、先輩はお礼を言い終わる前にサンドウィッチを口の中に突っ込んでいた。「もふぁー」とか「ふぁあー」とか言いながら感嘆している。
「何語ですか、それ……」
というか、学園のアイドルと呼ばれている人がそんな口いっぱいに頬張るような食べ方をしていいのか。これ、彼女のファンの人に見せたら失望されるのだろうか。
「……いや、むしろ喜びそうだな」
「ふぁれ、ふぁーふん、ふぁふぇふぁいふぉ?」
「日本語でお願いします」
「……んぐ。あーくん食べないの?」
「食べますよ。食べますからこっちの皿に手を伸ばすな!」
襲い来る美白の手から守るように、お皿を腕で囲んでそのままカウンターの隅まで持っていく。
「そこまでしなくても……。そこまで食い意地張ってないよ」
「そう言いながらこっちに腕伸ばして来てるじゃないですか! あげませんってば!」
「はいはい。もう一個作ってあげるから、我慢してね」
「うぅ……はぁい」
しょんぼりとする先輩を見ていると少し罪悪感が込み上げて来るが、空腹には勝てなかった。心の中で謝りながら俺もサンドウィッチを頬張る。
「そういえば、二人はこれからどうするんだい?」
「私は、ここの片づけが終わったらお兄ちゃんのとこに合流します。今日は早めに仕事切り上げてくれるみたいなので」
「陽人くんは?」
「俺は……」
この後の予定は決まっていた。
しかし、
「クラスの友人に誘われているので、俺はそいつらと見ることにします」
俺は嘘を吐いてごまかした。
これは、これだけは、知られるわけにはいかないのだ。絶対に。どんなに信頼のおける人物であっても、教えるわけにはいかない。
だって、もしもこのことを教えてしまったら。
七海との約束を破ってしまうことになるから。
「そろそろ、館内も消灯の準備に入りますので、準備の方よろしくお願いしますね」
天文台のスタッフさんが呼びに来たのを合図に俺達は博物館から出る準備を始める。
これから始まる星空観察。そのイベントに置いてもっとも邪魔なものは光だ。月の光ですら、邪魔になる時もあるくらいに、光は星空の天敵だった。
だから、陽が落ち、辺りが完全に暗くなる頃合いを見計らって、天文山の全ての建物は消灯してしまう。辺りは一面暗闇に包まれる。
もちろん、そんな暗闇の中でも問題のないよう、スタッフが誘導灯を持って待機している。
まぁ、大抵の人は始まるまでスマホのライトとか使って足元を照らしたりしているのだけど。
「お、消えた」
俺達が、博物館を出ると同時に館内の明かりが完全に消えた。そうなると、辺りはもうほとんど真っ暗で、目を凝らさないと自分の足元すら見えない状態だった。
「すいません。それじゃ、俺はここで」
「うん、今日はお疲れ様」
「あーくん、また明日ね!」
「はい、それでは」
ぺこりと頭を下げて、二人から離れる。ここから先は、知り合いには絶対に見られたくなかった。
これから行く場所は特別な場所だから、余計に。
二人のことを信用していないわけではないが、何があるかわからないので、わざと人混みの中に入る。この暗闇の中だ。一度、人混みに入ればよほどのことが無い限り見つかることはない。
人の波をかき分けながら、進行方向とは逆の道を進んでいく。
長いエスカレーターの辺りまで辿り着くと、少し人と人の間に間隔が開くようになった。俺はエスカレーターには乗らず、さらに天文台とは逆の道を進んでいく。
天文台側の道と違って、こちらにはほとんど建物はない。少し急な斜面と、そこから生えるいくつもの木々。
「……大分、人が減って来たな」
もう、俺を含めて数える程しか、人の姿はなかった。
いくら、エスカレーターや天文台があろうとも、ここが山であることに変わりはない。この道もこのまま真っすぐ進んでしまえば、すぐに森の中だ。
夜の森は危険だ。たかが、数十メートル進んだだけでも方向がわからなくなる。それで、遭難した人だっている。だから、町の人がここに近付くことはない。
きっと、本能的に恐怖しているのだ。闇を。いつだって人は、光を求める生き物だから。
「でも、違うよな。七海」
そうだ。俺は知っている。その闇の中には光があることを。俺と七海だけが見つけた、秘密の光を。
森の入り口までやってくると、人の気配は完全に消えてしまった。その脇には工事現場でよく見かける鉄骨やらが無造作に置かれている。いずれはここも開発するつもりなのだろうか。
この山を削り、いずれは俺と七海の思い出まで削ってしまうのだろうか。
「……それは、嫌だな」
町のためだとは言え、思い出の場所を奪われるのは絶対に御免だった。
だが、それを止めるための手段を、俺は持っていない。もちろん、止めろと言う権利もない。
どうしようもなかった。
時間が解決してくれる。両親が死んだ時、親戚の人にそんなことを言われた。今は苦しいかもしれない。だけど、その痛みも苦しみも、いつかは時間が解決してくれるのだと。
でも、そんなのは嘘だ。
時間が経って得たものは、どうあがいても抜け出せることのない絶望。
俺はそれを身を以って思い知った。七海のことで。そして、天璃のことでも。
スマホのライトを使って辺りを照らす。こんな小さな光では心もとなく、照らした先から闇に吸い込まれてしまうようだった。
「この怖さは何年経っても変わらないな……」
それでも、その先にある光を目指して、俺は一人、森の中へと入っていた。
ライトで照らしながら、慎重に一歩一歩進んでいく。人の歩く道なんかない。ひたすら草をかき分け進んでいく。ときおり、飛び出して来た虫がライトの前を横切ったり、草むらの奥から何か、動物の動くような音も聞こえたりした。
その間もライトから照らされた光は森の奥を照らし続け、滲み出る闇に喰われ溶けてしまう。子供の頃の俺達は本当に怖い物知らずだったんだな。こんな中を二人で歩いていたなんて。
「そういや……」
ふと、蘇る記憶。
初めて夜の秘密基地に行った時、七海がすごく怖がっていたっけ。でも、俺も怖かった。二人で歩いていたはずなのに、とてつもない孤独感が襲いかかっていた。
本当に、闇に吸い込まれるかと思ったんだ。
「……」
後ろを向く。誰もいない。森の中を流れる冷たい空気が首筋を撫でていく。
あの時と違う。今度は本当に、本当に独りになってしまった。
それでも、あの時ほどの恐怖感や孤独感はない。時が経ち、少しでも成長した証拠だろう。
「次はこっちか」
ライトがないと満足に歩くことも出来ないほど暗い森の中だというのに、俺の足はまるで何かに引っ張られるかのように迷いなく進んでいく。
それから、何分歩いただろうか。同じ景色がずっと続いていると時間の感覚がおかしくなる。
数分かもしれないし、数十分かもしれない。もしかしたら、もっと長い時間を歩いていたのかもしれない。
突如、闇が引き、視界が開けた。
俺と七海が探し出した不思議な世界。秘密基地。
まるで、ぽっかりとその部分だけ切り取られたかのように木々は無く、代わりに草の絨毯が敷き詰められている。
そして、
「変わらないな、ここは」
見上げれば、無数の星々が瞬いている。人の手では決して作り出せない、自然のプラネタリウム。
「綺麗だな、七海」
呼び掛けるが返事はない。俺の声は空気に溶け、霧散する。
それでも、俺は続けた。
「なぁ、昨日さ。短冊を書いて来たんだ。ほら、これだよ」
ポケットから短冊を取り出して夜空に掲げる。七海にも見えるように、背伸びをして、伸ばす。高く。高く。
風が吹き、短冊が揺れた。
あいつは、これを見ているだろうか。あいつも天からこの短冊に向かって手を伸ばしてくれているだろうか。
「……」
腕の力を抜く。それだけで重力に逆らっていた腕は簡単に地面の方へと引っ張られていった。
虚しくなった。
こんなことをしたって、七海はもう、この世にいないんだと思い知らされるだけなのに。
そんなこと、わかってた。
「帰るか」
短冊をポケットに仕舞いこむ。
伝えたいことは伝えた。もう、ここに用はない。
また、来年か。
「それじゃ、またな」
町に戻るため、秘密基地に背を向ける。
その時だった。
ザァっと、風が吹いた。服を揺らし、前髪を揺らす。そして、その音の中になぜだろうか、波の音が混じっていた。
「……波の音?」
聞き間違いかと思った。しかし、よくよく聞いてみると、その波の音は何度も何度も聞こえてくる。
なんだ……?
毎年、ここに来ていたが、こんな音を聞いたことなんて一度もない。
「いや、違う……」
聞いたことはある。まだ、七海が生きていた頃、湖に水があった頃の話だ。だけど、あの後すぐに湖は枯れた。こんな音なんて聞こえるはずはないと思いながら、枯れた湖へと近づいていく。
一歩近づくたびに、音は少しずつ大きくなっていく。それから、さらに数歩。それだけで、俺が聞こえた音は幻聴ではなかったと理解する。
「どうして……?」
湖は、七海が生きていた頃のままの姿でそこにあった。あの日、七海が喜んで見つめていた星の川が湖に映っている。
「幻……?」
そう思って湖に手を触れる。瞬間、冷たい感触が俺の右手を包み込んだ。どう考えても、これが幻だとは思えない。
「だとしたら、なんで……?」
思い当たるふしなんてどこにも……。
「いや、待てよ……」
一つだけ、思い当たることがあった。
昨日の地震。
前に、授業で聞いたことがある。地震の地殻変動で水脈が繋がり、枯れたはずの湖から水が沸き出すことがあるって。
多分、これもそれに近いものだろう。
「……奇跡だな」
思わず、そう呟いた。まるで、あの日の思い出が帰って来たようだ。
水面に星の光が反射する。
あの日と同じように、水を両手ですくってみる。成長した俺の両手は、五年前のあの日よりもたくさんの水をすくうことが出来た。あの日と同じように、天の川が俺の両手の中でゆらめく。
「……そうだ」
しまった短冊を再び取り出す。
あの時からずっと、いつかしてみたいと思っていた、七海の考えたあのおまじない。
湖の水が戻った今なら……。
湖の前にしゃがみこんで、短冊を浮かべる。
静かに水面に浮かんだそれは、風に流されて湖の中心へと渡っていく。そこにあるのは、天の川。あの日、七海が願った時と同じように、俺の短冊も星の川を渡っていく。ゆっくりと、確実に。
じっと、短冊の行く末を眺める。
俺の願いを乗せた船は、沈むことなく順調に進む。あと、もう少しで対岸に辿り着く。
しかし、
「また風が……」
七海の時と同じように、強い横風が、俺の短冊を襲った。波が荒れ、飲み込もうとする。
それでも、短冊は沈むことなく対岸に辿り着こうと懸命に水面を走る。
「頼む、がんばれ!」
自然と声が出ていた。
あの時、叶えることが出来なかった七海の代わりに、ここを渡り切ってやりたい。そう思った。
横風はなおも吹き続ける。しかし、不思議なことに短冊はその風の影響を受けることなく前へ前へと進んでいく。
そして、
「渡り切った……?」
短冊は、対岸まで渡り切り、自分の役目は果たしたとばかりに湖の底へと沈んでいった。
風も止んだ。水面を揺らす波紋もだんだんと静かになっていく。
ただ、それだけ。
何も起きた様子はない。
例えば、俺の願いが叶ったり、とか。
「……まぁ、わかってはいたけどな」
七海の代わりに短冊を対岸まで渡すことが出来た。それだけで充分だ。
来年まで今のままの状態であって欲しい。そう願いながら、俺は湖に背を向けた。
ガサ。
「……ん?」
来た道を戻ろうとした時、茂みの奥から何か物音が聞こえた。木が風に揺れた音とは違う。動物だろうか。
「まぁ、いいや」
少しだけ気にはなったけど、無視した。一日中、働き詰めた身体で森を歩くのは相当にしんどい。今はもう、早く家に帰って横になりたかった。
……と。
「また来るよ、七海」
別れの挨拶を告げて、俺は今度こそ秘密基地を後にした。
「あぁ、疲れた……」
家に帰る頃には日付が変わってしまっていた。今から、風呂とか飯とか済ませたら寝るのは一体何時になるのだろうか。……と、言っても、疲れて食欲もあまりないし、今日はシャワーだけ浴びてさっさと寝ちまおう。
そう思って靴を脱ごうと視線を足元に落とした時だった。
「……あれ?」
いつもなら、丁寧に揃えられているはずの天璃の靴がそこにはなかった。まだ、帰ってないのか?
心配になった俺は慌てて二階の天璃の部屋へと向かう。普段なら鍵が掛って入れない部屋。
しかし、
「……開いてる」
中は薄暗く、よく見ることは出来ない。だが、中に誰もいないことを確認するには、それだけの明るさで充分だった。
急いでスマホを取り出して、鮎川に連絡する。
五回ほどコール音が鳴ってから、受話機の向こうから眠たそうな声が聞こえてくる。
『……なんですか、こんな時間にぃ。もう日付変わってるじゃないですかぁ』
「悪い。そっちに天璃が行ってないか?」
『はい? 天璃ちゃんなら、あの後すぐに家に帰しましたよ? なんかあったんですか?』
「あいつ、家に帰ってないみたいなんだ」
『帰ってないって、ちゃんと確認したんですか?』
玄関に靴が置いてなかったこと、天璃の部屋にも人がいなかったことを告げると、鮎川は俺以上に慌てて声を上げた。
『それ、まずいじゃないですか! わ、私もちょっと探してみますね!』
「悪い。見つかったら教えてくれ」
通話を切ると、俺も慌てて靴を履き直して外に出る。
もう日付が変わったというのに、外にはまだ祭りの残り香が感じられた。今だに提灯の下で飲み明かしている大人も少なくない。
……ここら辺で飲んでいる人を当たっていったら、天璃の姿を目撃した人も出てくるだろうか。
天璃がどこに行ったのか、俺には見当もつかない。当てもなく探すよりも情報収集から始めた方がいいような気がした。
「あの……」
「んー? どうした、こんな時間に」
道端で飲んでいたグループの一人に天璃のことを尋ねてみる。
しかし、
「いや、知らねぇな。お前らはどうだ? 見たか?」
期待した情報は得られなかった。おじさん達にお礼を言って、その場を後にしようとしたところで、そのグループの中で一番若そうな男の人が「あっ」と呟いた。
「ねぇ、君が言ってる妹さんってあの子じゃないの?」
「え?」
その人が指差す方向に目を向ける。そこには、少し小走りで駆ける天璃の姿。薄暗くて顔までは見えないが、何故かとても焦っているように思えた。
「あ、あの。ありがとうございました!」
「お、やっぱり妹さんだったみたいだね。よかったよかった」
「いやぁ、よかったじゃねぇか! よし、人助けをした記念にもう一杯乾杯だ!」
そう言って、おじさん達は缶ビールを掴んだ手を勢いよく突き上げる。どうやら、また仕切り直して飲み始めるらしい。
一瞬、視線がこっちにも移った気がした。
昔、親戚にも同じ視線を向けられたことがある。これは、あれだ。俺も巻き込もうとしている目だ。
「あ、ありがとうございました!」
「あ、おい!」
おじさんが何か言おうと口を開いたが、俺はそれを無視して天璃の後を追った。一体、こんな時間まで天璃は何をしていたのだろうか。
「誰かに会ってたのか……?」
聞いても教えてはくれないだろうから、そこら辺は鮎川に任せるが、こんな遅い時間まで外を出歩いてるなんて……。
「いや」
そこまで考えて、俺は足を止めた。
俺も、似たようなものか。
もしかしたら、天璃も俺と同じで七夕に想いを馳せるような場所があったのかもしれない。だったら、そのことを咎める権利は俺にない。
「帰って寝るか」
何も知らないままでいた方が幸せだろう。お互いに。
ため息を吐いて、ドアノブに手を掛ける。
「……あれ?」
ドアに鍵が掛ってる?
「そっか、天璃は俺が外に出てるの知らないから」
ポケットから鍵を取り出して、鍵穴に通す。ガチャと音を立てて、ドアの鍵が外れる。もう一度、ドアノブに手を掛けて今度こそ家の中へ……。
ガンッ
「は?」
しかし、ドアは拳一個分の隙間ほどしか開かなかった。
「あいつ、チェーンまで掛けて行きやがったな!」
これじゃ、いくら鍵を開けたところで家の中に入れるはずもない。ドア横のインターホンを押して呼ぼうかとも考えたが、押したところで、天璃は多分、無視を決め込むだろう。
「今日は家の前で野宿かな」
まさか、家の前で一夜を過ごす羽目になるとは……。
溜め息を吐いて、座り込む。
夜空を見上げながら、とりあえず、鮎川に連絡するかと考えるのだった。