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7月7日 その1

 よほど疲れていたのだろうか、あの後、ベッドに横になるとすぐに眠りについた。夢を見ていた記憶すらない。そのおかげか、今日はやけに目覚めが良かった。


 枕元のスマホを見ると時刻はちょうど、朝の七時を迎えるところだった。もう少し寝ていても祭りには充分に間に合うが、昨日の地震のこともあるし、少し早めに出ておいた方がいいかもしれない。


 窓から外を眺める。


 こんな朝早くだというのに、外にはもうかなりの数の人達が集まって、それぞれ屋台で準備を始めていた。


 昨日の地震の影響で中止になるかもしれないと危惧していたが、どうやらそれは杞憂で終わったようだ。


 ワハハ、と外から笑い声が聞こえて来る。


「みんな、楽しそうだな」


 この町で行われる年に一回の大きなお祭り。みんな、それを楽しみにして、今日まで準備して来たんだ。


 大人も童心に返れる、特別な一日のために。


 服を着替え、外に出ると、賑やかな空気が一瞬にして俺の身体を包み込んだ。


 昨日までの静かな日常なんてどこにもない。みんな、どこか浮かれたように笑っていた。多分、俺も。


 町中が祭りの雰囲気に包まれていた。


 十字路へ進むと、天文山までの道を彩るかのように、ずらりと屋台が並んでいた。焼きそば、たこ焼き、わたあめ、かき氷にフランクフルト。祭りの顔とも言える屋台が連なって道を作っていた。


 その中を、一つ一つゆっくりと屋台を覗き込みながら進んでいく。


 こうやって、見て回ると、他の店より百円安い屋台なんかが見つかったりするのだ。まぁ、そういう店は大抵、こういう大通りではなく、裏路地のあまり人が来ないようなところにあると相場が決まっているのだけど。


 それを教えてくれたのは、七海だった。


 あいつはいつも、予定の時間より早く来ては、何も買わずに屋台を巡って安いお店を探すのだ。なんだかケチくさい感じもするが、それも祭りの楽しみの一つだよ、と七海は笑っていた。


 そんなことを思い出しながら、天文山を登る。


 町にはたくさんの人がいたのに、天文山にはまだ人の姿がほとんどなかった。七夕祭りの雰囲気に包まれた町の風景を撮影しようとカメラを持った町内会のおじさん達が五、六人。あとはお店の店員さんとそのお手伝いで来たボランティアの人くらいだった。


 すれ違う人達と挨拶を交わしながら、天文台の中へと入る。


 ロビーには全ての博物館の従業員とボランティアの人達が集まり、最後のミーティングを行っていた。人の誘導、問題が起きた場合の対処の仕方、その他諸々の伝達事項をメガホンを使って伝えられていく。


 その様子を見ていると、俺も自然と身体に力が入る。


 今回は楽しむ側だけじゃない。楽しませる側になるんだ。そのことを強く意識しながら、俺はアングラの中に入った。


「あ、おはよー」


 中ではすでに、エプロンに着替えた篠田先輩が準備を進めていた。


 テーブルを拭いていた手を止めて、茶色のポニーテールをゆらゆらと揺らめかせながら、こちらに駆け寄ってくる。


「おはようございます、先輩」


「うん。昨日は地震、大丈夫だった?」


「はい。まぁ、本とかいろいろ落っこちては来ましたけど」


「私も私も。いやぁ、怖かったねぇ」


「ところで、ここは地震大丈夫だったんですか?」


 一番、気になっていたことを先輩に尋ねると、彼女は少し苦い顔をして笑った。


「あー、実はね……」


「昨日の地震で一部の食器が割れてしまったんだよ」


 そう答えたのは先輩ではなく、安藤さんだった。手には軍手をはめ、ガラスや陶器の破片がたくさん入ったビニール袋を持っている。彼が歩くたびに、そのビニール袋からジャラジャラと音が鳴った。


「カップ、足りるんですか?」


「あぁ、それは大丈夫。いくつか予備もあるからね。ただ、それが僕の家にあってね。今から取りに戻らないといけないんだ。悪いんだけど……」


「準備を進めておいて欲しいってことですね、わかりました」


「悪いね」


 本当に申し訳なさそうに安藤さんが頭を下げる。


「地震なら仕方ないよ。ね、あーくん」


 先輩の言葉に俺は大きく二度頷いた。


「ありがとう。それじゃ、ちょっと行ってくるよ」


 今度からは、地震対策のグッズとか買わないとなぁ、とぶつぶつ呟きながら、安藤さんは店を後にした。


「んじゃ、こっちも準備しちゃおっか!」


「はい」


「んじゃ、まず最初に――」


 先輩に指示された仕事をこなしていく内に時間はあっという間に過ぎていき、気が付けば、七夕祭りが始まるまで残り十分を切っていた。


 しかし……。


「うーん、安藤さん遅いなぁ」


「どうしたんですかね……」


 祭りの準備を終え、残すは安藤さんの持ってくる予備の食器を棚に並べるだけになったのだが、肝心の安藤さんがまだ戻って来ていなかった。


「このまま、帰って来なかったらどうしますか?」


「うーん、お祭りと同時にお店は開けないとだけど、私達じゃコーヒー入れられないしなぁ」


 俺も先輩も軽食なら何度も作ったことがあるのだが、コーヒーを淹れたことは実は一度もない。俺よりも一年多く働いている先輩ですら、豆に触ることも許されていないのだ。


 だから、もしもこのまま開店して、お客さんからコーヒーを注文されたとしても、俺達では対処のしようがない。


「やっぱり、安藤さん戻ってくるまで待つ?」


「それしかないですね……」


「その必要はないよ」


 カランカランと鳴るベルの音と共に、安藤さんがぬっとドアから姿を現した。スッと入って来れないのは、どうやら、その手に持つ大きなダンボール箱が原因のようだ。


「安藤さん!」


 急いで駆け寄り、ダンボールの端を持つ。安藤さんは大量の汗を流しながら「ありがとう」と言って、一緒にカウンターまで運んだ。


「はい、安藤さん。お水だよ」


 厨房から氷の入った水を持って来た先輩が安藤さんに渡す。


「ありがとう。いや、大変だったよ」


「なにかあったんですか?」


「いつも使っている道がお祭りで封鎖されててね。回り道をしてたら時間が掛ってしまったんだよ、すまなかったね」


「でも、間に合ってよかったね。さぁ、始まるまでに準備しちゃおうよ」


 やる気満々の篠田先輩。しかし、

「いや、駄目だよ」

 安藤さんはふるふると首を横に振った。


「どうしたんですか?」


「どうしたもこうしたもないよ。もう、祭りが始まるんだろう? 一年に一回の大イベントなんだ。せっかくだし、祭りが始まるところを外で見て来なさい」


「……いいんですか?」


「食器を並べるくらいなら一人でも充分だよ」


 そう言って、安藤さんは力こぶを作ってみせる。


「うーん、安藤さんもこう言ってるし、一緒に見に行こうか?」


「そうですね」


 俺は安藤さんに軽く会釈を、先輩は大きく手を振って博物館の外へと向かった。


 博物館を出てすぐ目の前。そこに石畳で出来た広場がある。そこは星美町全体を見渡すことが出来る展望台としての役割も果たしていた。


「うわー、すごいね!」


 先輩が感嘆の声を上げる。


 町の景色は、昨日エスカレーターで見た時よりもだいぶ様変わりしていた。


「すっごい、カラフル!」


 先輩の言う通り、天文山から真っすぐ伸びる道が、屋台ののぼりやのれんでいろんな色に染まっていた。


「それに見てよ。あんなに人がたくさん」


 そんなカラフルな道を埋め尽くすように、大勢の人間が大通りに集まって来ている。まるで、動くジオラマでも見ているような気分だ。


「私さ、毎年このお祭りを見て思うんだけど」


 こちらに視線を向けず、町の景色をじっと眺めながら、先輩はぽつりと呟いた。


「この町って、こんなにたくさんの人が生活してるんだね」


「そうですね」


「なんかさ、寂しくならない?」


「……寂しく、ですか?」


 先輩はこくりと頷いた。


「こんなにたくさんの人がいてもさ、世界からしてみれば、ごくごくわずかな数じゃない? なんか、そんな中の一人でしかないんだなって思うと、自分の存在がすごくちっぽけなものに思えて来ちゃうんだよね」


「ちっぽけですか」


「そう。そう思うとさ、私が見て来た思い出も宝物も、大事なもの全部がさらに小さく思えて来てね」


 口には出さなかったが、篠田先輩の言うことはなんとなくわかる気がした。


 世界全体からみれば、俺なんか砂漠の砂に等しい存在だ。そんなちっぽけな俺が抱えている大切な思い出。それはきっと、その砂よりも小さくて儚いもの。


「私達って、なんのために生きてるんだろうとすら思えて来ちゃうよ」


「篠田先輩もそんなこと考えるんですね」


 そりゃね、と先輩は笑った。


「私だって人間だもん。そういうネガティブなことを考えるときだってあるよ」


「そういうことを悩んだりするような人じゃないって、思ってました」


「ダメだなー、あーくんは」


 こつん。左の甲で俺の頭を軽く叩いた。


「あんまり、人を見た目で判断してると痛い目見ることになるかもよ? みんな、その表情の裏にはもう一つの顔を隠し持っているものなんだから」


「もう一つの顔、ですか?」


「いっつも笑ってるような子が、その裏で泣いていたりね。ま、表の顔だけで人を測っちゃダメだってこと」


 パン! パン!


 競技用のピストルが町中に鳴り響き、祭りの始まりを告げた。人の波がざわめいていく。


 それを見て満足したのか、先輩はくるりと町から背を向けた。


「誰でも、そうなんだと思うよ?」


「篠田先輩も、ですか?」


「私も、君もね」






「あーくん、これもよろしく!」


 カウンターの前に置かれたコーヒーを指定された番号の席へと運んでいく。それをもう、何十回と繰り返していた。


 こんなに忙しいのは初めてだった。


 次から次へとお客さんが入り、そして出て行く。いつものような、落ち着いた雰囲気は微塵もなかった。どちらかというと、ファーストフードのそれに近い感じだ。


「やー、忙しいねー」


 トレイを持った方とは反対の腕で汗を拭いながら篠田先輩は笑った。忙しくはあるが、それを苦に思っているわけではないらしい。むしろ、いつもよりも生き生きしているようにすら思えた。


「なんだか楽しそうですね」


「楽しいからね。接客業、向いてるのかも」


 自分で食堂を開いて振る舞うくらいの人だ。たしかに、人と触れあう機会の多い仕事が彼女の天職なのかもしれない。


「あーくんは……なんだか疲れてそうだね」


「そうですね」


「こんなに人が来るなんて思わなかった?」


「はい。イベントがあるのは夜ですし、人が来るにしてももっと遅い時間だとばかり」


「あー、そうだよね。普通はそう思うよね」


「まぁ、それだけじゃないんですけどね……」


「……?」


 先輩が小さく首を傾げる。


 まぁ、ほら、あれだ。七夕祭りってことは、もちろん色んな人達が天文台を訪れるわけで。その中にはもちろん、学校の生徒だって含まれたりするわけで。


 もっと言うと、先輩が働いているという噂を聞きつけてやってくるやつも少なからずいたわけで。


 そういうやつからしたら、俺は一体どんなふうに映るんだろうな?


「なんでもないです。こういうの、今日が初めてじゃないですしね……」


「んー……?」


 いや、いいんです。先輩はわからなくて。先輩と一緒に過ごしていく上での試練みたいなものですから。


「なんだか大変なところ申し訳ないけど、お客さん、これからどんどん増えてくるよ? まだピークの時間にすら入ってないし」


「そうやって脅かすのやめてくださいよ……」


「へへ、ごめんごめん」


 そう言って、先輩はぺろりと小さな舌を出した。


「でも、大丈夫だよ。博物館のスタッフさんも手伝ってくれるみたいだしさ」


 喫茶店の中と外。その両方を俺達だけでカバーするのはどう考えても不可能だ。だから、予め博物館のスタッフ数人をヘルプに回してもらうように安藤さんが手配してくれていた。


 それがなかったら、こんな風に会話をしている余裕すらなかっただろう。お互いてんやわんやになって、外と中を駆け回っていたはずだ。


 そうならなかったことに安堵しつつ、改めて店内をぐるりと見回す。


 楽しげな声が店内を飛び交っていた。暗い雰囲気の人など、一人もいなかった。


 全力で楽しんでいるのだ、祭りのことを。


「でも、こういう雰囲気の喫茶店もいいね」


 たしかに、こういうのも悪くない。なんだか楽しくなってくる。


 祭りという行事を通して、みんなが一つになる。それは、とても幸せなことなのだと思った。


「すみませーん」


 そんな雰囲気に浸っていると、お客さんの一人が手を上げて俺達を呼んだ。


「はいはーい。今、行きまーす。それじゃ、あーくん。またね」


「はい」


俺の返事に頷くと、篠田先輩はすぐにメモとペンを取り出してテーブルへと駆けて行った。


 さて、他に何か用がありそうなお客さんはいなさそうだし、ホールは先輩に任せて、今の内に少し洗いものでもしておくか。


 厨房に戻ると、安藤さんがフライパンを動かして卵焼きを作っていた。サンドウィッチに使うものだろうか。


「安藤さん、少し時間が出来たので洗いものしちゃいますね」


「あ、悪いね。頼むよ。注文が立て続けに来るものだから食器が溜まっちゃって溜まっちゃって」


「了解しました」


 安藤さんの立っているコンロのすぐ隣にあるステンレスのシンク。そこには食器が山のように積まれていた。


 これは、ちょくちょく様子を見にこないと大変なことになりそうだな、と思いながら食器に手を伸ばす。


その時だった。


「……?」


 ポケットの中に入れていたスマホがブルブルと震えている。誰かからメールだろうか。なんにせよ、今は忙しくて出られそうにない。あとで返せばいいか、と無視しようとしたのだが。


「……やけに長いな」


 スマホのバイブが止まらない。ポケットの中でずっと震え続けている。どうやら、メールではなく電話のようだ。


「すいません。ちょっと電話に出て来ます」


 安藤さんに頭を下げて、奥の倉庫へ向かう。


 スマホを取り出す。


「鮎川……?」


 画面に表示されているのは確かに鮎川の文字だった。こんな時になんだろうか。もしも、いつもの説教だった問答無用で切ろう。そう思って通話に出る。しかし、


「大変です! 天璃ちゃんが! 天璃ちゃんが!」


 通話口から聞こえたのは、天璃が倒れたと叫ぶ、鮎川の声だった。







 天文台を出ると灼熱の熱さが俺を襲った。日は完全に昇り切り、この町を、世界を焼いていく。


「天璃が熱中症で倒れた」


 ほとんど、半泣きのような声で鮎川はそう言っていた。俺は彼女に今からそちらに向かうと告げ、安藤さんに事情を説明した。


「大事な家族のことだ。早く様子を見に行っておいで」


 心配そうな表情でそう言ってくれた安藤さんに深く頭を下げ、俺は天璃が運ばれた学校へと向かった。


 人混みの中を縫うようにして駆け抜ける。途中、何度か人とぶつかりそうになったが、そんなことに構っている余裕はなかった。


 天璃が倒れた。


 ただ、そのことだけが俺の身体を、思考を支配していた。


 エスカレーターを駆け降りると、そのまま人の間を抜けて学校を目指した。滝のような汗が流れ、服はひっつき、熱い空気にむせ返りそうになる。


 だけど、それでも身体を止めることはない。


「陽人くん!」


 学校に辿り着くと、保健室の先生が俺を見つけ、駆け寄ってくる。


「せ、せんせ……っ!」


 天璃はどこですか! あいつは大丈夫なんですか!


 そう言いたいのに、喉がカラカラで声が出ない。しかし、先生には俺の言いたいことが伝わったらしく、「今は、保健室で休んでいるわ」と、だけ教えてくれた。


 俺はぺこりと頭を下げ、保健室へと向かった。


「あ、先輩……」


 保健室のドアを開くと、ベッド横のパイプ椅子に座っていた鮎川が振り向いた。その手には少し大きめのハンドタオルと水の入ったペットボトルが握られていた。


「あ、天璃は……?」


「少し休めば大丈夫みたいです。どうやら、昨日の地震で体調を崩してしまっていたみたいで、そんな状態で強い日差しを長い間浴びていたものですから」


 そう言いながらベッドに横たわる天璃を心配そうに見つめる。相当に体力を消耗していたのか、今はすぅすぅと小さな寝息を立てながら眠っている。


 その安らかな寝息を聞いて、俺はようやく天璃は無事だったのだと確信した。


 途端、身体の力が抜けてしまって、俺はどさりと床に座り込んでしまった。


「先輩っ! だ、だいじょうぶですか……?」


「ここまで、走って来たからさ……。悪いんだけど、水貰えないか?」


「は、はい。どうぞ。これ、まだ開けていないやつですから」


 そう言って、持っていたペットボトルを渡してくれる。


「悪いな……」


 ボトルの蓋を開けて、水を飲む。渇き切っていた喉を通して水が流れ込み、身体を内から冷やしていく。


「……本当に天文山からここまで走って来たんですね」


「あぁ」


「心配、だったから?」


「……当たり前だろ。他になにあるんだよ」


「ふふっ、そうですね」


 俺の答えに、何故か鮎川は笑った。


「なんだよ」


「いえ、なんでもありません」


 そう言って鮎川はまた、ふふっと笑った。


「変な奴だな」


「先輩に言われたくないです」


「そうかよ」


 小さくため息をついて、もう一口だけ水を飲む。


 その時だった。


「ん……」


 小さなうめき声と共にベッドのシーツがガサガサとこすれる音がした。


「天璃ちゃん!」


 すぐさまパイプ椅子から立ちあがった鮎川が天璃のことを上から覗き込む。俺も床から起き上がって鮎川の後ろから天璃の様子を見る。


「ん……ひよ、り……?」


「大丈夫ですか?」


「あれ……、もしかして寝てた?」


「そりゃもう、ぐっすりと。それで、具合の方はどうです?」


 そう聞かれ、天璃は左右を見回し、こめかみに手をやった。


「うん、大丈夫みたい。まだ少しだけくらくらするけど、さっきほど酷くはないよ」


「そうですか、良かった……」


 鮎川がホッと胸を撫で下ろす。その後ろで、俺もホッと安堵のため息を吐いた。


「え……?」


 途端、天璃は信じられないものを見たような眼差しをこちらへと向けた。


「なん、で……?」


 天璃は動かない。俺も動けない。ただ、お互いがお互いの顔を、じっと見ていることしか出来なかった。


「あ、あのですね天璃ちゃん!」


 鮎川が慌てて弁解を始めた。


「先輩を呼んだの、私なんです。さすがに、こればかりは先輩を呼んだ方がいいと思って。でも、そしたら先輩、全速力で駆け付けてくれて――」


「出てって」


 だが、鮎川の声は届かなかった。天璃はじっと俺の目を見つめながら、拒絶の言葉を口にした。


俺は驚いて何も言葉に出来なかった。今まで無視することはあっても、ここまであからさまに俺の存在を拒絶することはなかったからだ。


「あ、天璃ちゃん……。でも」


 それでも、鮎川がなんとかフォローする言葉を探す。


「出てって」


 しかし、天璃の意志はそれ以上に固く、重い。


 この重さが、俺達の間に広がる溝の深さであり、壁の高さなのだと悟った俺はもう何も言う気にもなれず、二人に背を向けて保健室のドアに手を掛けた。


「先輩!」


 鮎川が俺を呼び止める。だが、無視した。


 天璃の目。


 怒りも悲しみもない純粋な拒絶。言葉よりも何よりも、それが一番、心にきた。


 俺の存在を認めようとしない、その目が。感情の篭っていない、その目が。何よりも心に響いた。


 俺は天璃を案じて駆け下った坂道を駆け上る。祭りの雰囲気と忙しさに紛れて、一時でもこの痛みから逃れるために。







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