7月6日 その2
昼休みも半分が過ぎた。早くしないと昼食を食べ損ねてしまう。さっきまで混雑していた一階のフロアからも人が減り、食堂の方から戻ってくる生徒もちらほら見かけるようになった。
思いのほか時間が掛かってしまったな。
「早く行かないと……」
そう独り言を呟きながら、俺は階段に右足をかけた。
「あ、こんなとこにいた!」
左足で二段目にかけようと足を上げたところで、階段の踊り場から聞き慣れた声が聞こえてきた。
顔を上げると、薄茶色の長い髪を後ろで一つに縛った女生徒が少し不機嫌そうな様子で立っていた。
「あ、篠田先輩」
「あ、じゃないよ、全く。全然、来ないから探したんだよ?」
唇を尖らせながら、一段一段、ぴょんと小さく跳ねながら下りて来る。その度に、後ろで縛ったポニーテールもふわりと跳ねた。
「すいません。先生からプリントを渡すように頼まれてしまいまして」
「プリント? なんの?」
「七夕祭りのスケジュール表です」
「あー、なるほどね」
納得したのか先輩は三度ほど首を縦に振った。しかし、
「でもね、あーくん。私達だって大切なミーティングがあるんだから、そっちも考えてくれないと駄目だよ?」
「すみません。気を付けます」
素直に頭を下げる。ちなみに「あーくん」と言うのは、彼女が俺を呼ぶ時に使う愛称だ。二人だけでいるなら別にいいのだけど、こういう公共の場でそういう呼び方をされるのは恥ずかしい。
そのことは何度も言ったのだが、一向に直してくれる気配はない。
「うんうん、わかってくれればいいの。それじゃ、行こっか。ご飯はもう作ってあるんだー」
そう言いながら、俺の腕を取ろうと手を伸ばしてくる。その腕から逃げるように、俺は一段を下りて彼女から距離を取った。
「え、なんで距離取るの……」
「篠田先輩が俺の腕を取ろうとしたからです」
「え、触っちゃ駄目なの?」
「駄目です」
「なんでよ……。もしかして、私のこと嫌いになっちゃった?」
「いや、そうじゃないですけど……。てか、いつも言ってるじゃないですか!」
俺が彼女に触れない理由はただ一つ。
美人すぎるのだ、この人は。
星斗学園のアイドル。それが、彼女――篠田樹里の立ち位置だ。引っ込むところは引っ込み、出るところは出ていて、その上、柔らかそうな身体つき。
俺を見つめるその目はぱっちりとしており、すっと通った鼻筋。
その顔と身体のバランスは奇跡としか言えず、まさに学園の宝石のような存在だった。
まぁ、彼女がそれほどまでの人気を得たのには他の理由もあるのだけど。それは、すぐにわかるだろうから、説明は省く。
それよりも、だ。
「篠田先輩が、そうやってスキンシップを取るたびに俺の命が危機になるんです!」
「あーくん、日本語おかしいよ?」
そりゃ、焦りもする。
少し考えればわかる話なのだ。学園のアイドルである彼女と仲睦まじくスキンシップを取ってみろ。周りが一体どんな反応をするのか。
今だって、篠田先輩が下りてきた階段の踊り場から、数人の男子がこちらを覗き込んでいるのが見える。
なんかもう、遠目からわかるほどに憎悪に燃えていた。その内の一人とか藁人形をこれ見よがしに見せつけて来てるし。
「なんで頭抱えてるの? 頭痛?」
「ちょっと、学校生活でいろいろと悩みがですね……」
主に、目の前で心配そうな眼差しを向けてくれている先輩のせいで。
まぁ、そんなことが彼女に伝わるわけもなく。
「え、大変そうだね……。いつでも話聞くよ?」
と、優しい言葉をかけてくれるのだった。
「それよりも、そろそろ行きませんか? 俺、まだ昼食ってないんですよ」
「あ、そうだね。時間も押してるし、早く行こうか」
くるり、と振り返って篠田先輩が階段を上る。俺はその後ろを三段程、間を開けて上る。
「あれ?」
一階の踊り場で、篠田先輩が足を止めた。
「どうしました?」
「ん? なんか、こんなものが落ちててさ」
ひょいっと、彼女がその落し物を拾い上げる。それは、さっきそこで覗き見していた男が持っていた藁人形だった。
「あれ、これお腹に誰かの写真が……」
「先輩! それ俺が預かっておきます!」
「へ?」
「預かっておきます! 早く渡してください!」
「う、うん。わかった」
素早く彼女の手から藁人形を奪い取ると、俺はそれを無理矢理ポケットにねじ込んだ。
本当に、俺はこのまま無事に学校生活を送ることが出来るんだろうか……。
今後の自分の生活に一抹の不安を感じながら、俺は篠田先輩のあとを着いて行った。
ここ、星斗学園には二つの家庭科室がある。
第一家庭科室と第二家庭科室だ。そのどちらも、家庭科室と言うよりかは、ほとんど調理室に近く、包丁、まな板、その他小物類に至るまで、基本的な料理に使う道具は全て収められていた。
第一家庭科室は授業として利用されることが多く、第二家庭科室は部活で使用されることが多かった。
篠田先輩が来るまでは。
調理部に入った篠田先輩は元々、持っていた料理スキルを惜しげもなく披露し、部活内での地位を高めていった。
その料理を部活内だけで完結させてしまうのは惜しいと作った料理を適当に配り始めたのだ。篠田先輩の料理スキルの高さ。そして、彼女自身の美貌もあってか、その噂はたちまち学園中に広まり、いつしか部活外でも料理を振る舞うようになっていった。
それはいつしか、篠田食堂と呼ばれるようになり、この学園では有名なイベントの一つとなった。
だが、その人気が原因で一つ、深刻な問題が起きてしまった。
篠田先輩の料理を求めて調理部にも人が訪ねて来るようになってきてしまったのだ。それも、数人程度ならまだ対処が出来たのだが、その数はだんだんと増えて行き、いつしかその人数は二桁を超えるようになってきてしまった。
人が多すぎて料理に集中できず、部活を辞める人も現れ、このままでは部活としての名目を保てなくなると感じた篠田先輩は部活を辞めようと顧問に、もう一つの家庭科室をその時だけ貸して欲しいと相談した。
普通、そこで顧問は却下するもんなのだが、なぜか、その案が通り、今では第一家庭科室は彼女の城と化した。
「ほら、早く早く」
三階に着いた俺達は左に曲がり、その突き当りを右に曲がる。その一番奥が第二家庭科室、その手前が第一家庭科室だ。
「はい、着いたー」
家庭科室のドアが開いた瞬間、良い匂いが鼻孔を掠めた。
「カレーですか?」
「そうそう。今日はカレーを作ってみましたー」
一番近い、コンロの上に置かれたお鍋の蓋を開き、お玉ですくって見せてくれる。
「今、温め直すからちょっと待っててね」
コンロに火を点け、焦がさないように底の方からお玉を回す。
「ところで、先輩」
「んー?」
「それ、明らかに二人分の量じゃないですよね?」
彼女が温め直しているカレーの鍋。一般的な家庭用の鍋よりも少し小さいサイズではあるが、それでも、ゆうに五人分くらいはあるのではないだろうか。
「さすがに腹が減ってると言っても、そんなには食べれませんよ?」
「大丈夫、私も食べるから」
「先輩、そんなに食べましたっけ?」
他の生徒よりも、少し近しい関係にある俺は、篠田先輩に誘われ、お昼を共にすることがある。だから、彼女が普段どのくらいの量を食べるのかはよく知っていた。
「いつも、量少なめですよね? 傍からみて心配になるくらい」
この間、呼ばれた時に作っていたパスタなんか一人前の半分も食べずに、「ごちそうさま」と手を合わせていた。
「だーいじょうぶ。いつもあれでお腹いっぱいになるし」
一体、どんな胃をしていればあんな量で満腹になるのか。一度、その身体の中を見てみたいもんだ。
「それで、余った分は?」
「あぁ、これ今日の晩御飯も兼ねてるからね。お兄ちゃんとこに持って行ってあげないと」
「輝樹さんのとこにですか?」
篠田先輩には輝樹さんという三つ上の兄がいる。とても気のいいおおらかな人で、よく俺のバイト先に遊びに来てくれる。まぁ、遊びに来るというよりかは、そこで働いている篠田先輩の様子を見に来ているだけなんだけど。
「そうそう。今日、私もバイトだから丁度いいかなって。確か、あーくんも今日は入ってたよね?」
俺はこくりと頷いた。
篠田先輩と俺は同じバイト先、つまり天文台の中にある喫茶店で働いている。そのお店でも、篠田先輩は俺よりも一年先輩だった、初めて面接に行った時は驚いたものだ。なんせ、学園のアイドルがエプロン姿でコーヒーを運んでいるのだ。
その時は、面識もほとんどなかったし、本当に気が気じゃなかった。
「というか、だから俺達がこうして集まってるんじゃなかったんですか?」
「へ?」
「へ? じゃないですよ、先輩……。今日は、明日の七夕祭りに合わせて模様替えをするから、その打ち合わせがしたいって話だったじゃないですか」
「あ、そうだそうだ。忘れてたよ」
たははー、と恥ずかしそうに笑いながら教壇の上に置いていた鞄からファイルを取り出した。
「はい、これ。カレーが出来るまで読んでおいて」
ファイルごと受け取り中から何枚かのプリントを取り出す。
「へぇ……」
思っていた以上にしっかりとした資料だった。図もわかりやすく、必要なものも、その都度ピックアップされてしっかりと書きこまれていた。
「とりあえず、そんな感じにしようかなと思うんだけど、どうかな?」
「いいんじゃないですか? 安藤さんも喜ぶと思います」
安藤さんというのは、俺達の働いてる喫茶店『アンダーグラウンド』のマスターだ。今回の模様替えの全体的な指揮役として彼女を任命したのも、安藤さんだった。
「そっか。そう言って貰えるなら私も頑張ったかいがあったよ。……っと、あーくん。悪いんだけど、そこの棚からお皿持って来て出して貰えるかな」
「了解です」
家庭科室の壁に沿って並ぶ棚からカレー用の皿を探す。
やはり、料理を主に扱う教室なだけあって、その食器の数も相当なものだ。同じ種類の皿が棚の枠をまるまる一つ潰しているところも珍しくない。
それに。
「こういうのとか何に使うんだ?」
一目見ただけでは用途がわからない調理器具も結構ある。これも、調理部ならではのものなのだろう。
試しに、その一つを取り出して先輩に聞いてみる。
「先輩、これって何に使うものなんですか?」
「んー? それはね、レモンの皮を剥く時に使うものだよ」
「レモン専用なんですか」
「レモンゼスターっていうくらいだからね。あー、でもオレンジとかの皮を剥く時にも使ったりするよ」
「へぇ……」
「ちなみに、それ私の家から持って来たやつだよ」
「え、学校の備品じゃないんですか?」
「うん。だって、そんなの普通の料理で使ったりしないでしょ?」
確かに。たまに見る料理番組でもそういうのを見る機会は滅多にない。
「というか、そこら辺にあるやつは大体、自分の家から持ってきたものだよ」
「ここら辺、全部?」
「そうそう。先生に相談したら一発でオーケー貰っちゃった」
ここの家庭科部を貸してくれたという話を聞いた時から思ってはいたが、もしかして、先生も彼女のファンなんじゃないだろうか……。
「でも、その割にはこういうの使ってるとこ見たことないんですけど」
「うん、使わないしね」
「使わないんですか?」
篠田先輩はこくりと頷く。
「普通の調理器具でなんとでもなるしね。それに、あんまりそういうので楽しちゃってると上達しないような気がしてさ」
そう語る篠田先輩の目は真剣だった。いつも、ほんわかと微笑んでいる彼女の姿はそこにはない。真剣に料理へと立ち向かう、料理人の目だった。
だが、途端にふにゃりとした顔になったかと思うと、
「だから、あれはインテリア。ほら、なんかそういうのあった方が料理してる感じするじゃん?」
と、コロコロ笑いながらそう言ったのだった。
「今、すっごい感心してたのに……」
「え、で、でも、ちゃんと一回は使ってるよ? 無駄にはしてないよ?」
「そういうことじゃないです……。調理器具をインテリア扱いしてることが問題なんです」
「べ、べつに料理人の道を究めるつもりとかないからいいんだもん! そんなことより、早くお皿!」
「はいはい」
カレー皿を二枚取り出して、篠田先輩のところへ持って行く。「ありがとー」と、言ってそれを受け取るとカレーの入った鍋の横に置かれた炊飯器からお米をよそい始めた。
「あーくんはこのくらいでいい?」
「はい、それでお願いします」
白い米を真ん中で山を作るようによそうと、その周りを囲むようにカレーを流しこんだ。
「それ、人によってルーの入れ方変わりますよね」
「そうだねー。私はこれが一般的だけど、あーくんは?」
「俺は右半分と左半分で分けてます」
そんな他愛もないカレー談義は続き、気が付けば、俺と篠田先輩の前にカレーが置かれていた。彼女の皿に盛られた山は小さく、すぐにもカレーの海に沈んでいってしまいそうだ。
「それじゃ、いただきますしよっか」
「はい」
二人で手を合わせ、カレーをすくって口に運ぶ。
「うん」
美味しい。素直な感想だった。さすが、色んな人にご馳走しているだけあって、篠田先輩は料理が上手い。このくらいの量ならばぺろりと平らげることが出来そうだ。
もう一口。
篠田先輩の作るカレーは少し甘い。
お店で作ったカレーというよりかは、家庭的な味、と言えばいいのだろうか。優しい甘さ。どこか安心するような、そんな味だった。
「ど、どうかな?」
自分の分には手を付けず、少し緊張気味に俺の顔を見る。食事よりも俺の感想の方が気になるようだ。
「美味しいです」
心から思ったことを篠田先輩に伝えた。
しかし、
「……むぅ」
篠田先輩は何故か眉間に皺を寄せてしまった。俺の感想が気に入らなかったのだろうか。おかしいな。素直に美味しいと思ったからそう言っただけなんだけど……。
とにかく、謝った方がいいか。
そう思い、スプーンを置いて口を開――
「また駄目かぁ……」
こうとした途端、急に頭を抱えてそんなことを言い出した。
「あ、あの? 先輩?」
なにがなんだかわからない。一体、俺のなにが駄目だったのか。
訳も分からず篠田先輩の様子を見ていると、
「これ!」
ポケットにから手鏡を取り出し、俺に突き付けた。そこに映る自分の顔は酷く無愛想で、なんの表情も感じられなかった。
「えっと……?」
「その顔だよ!」
「顔、ですか……?」
「あーくん、すっごいつまらなそうにご飯食べるんだもん」
「そう、ですか?」
「うん、すごい無表情だよ?」
言われてみれば、確かに楽しいと感じたことはなかったかもしれない。今、俺の目の前に映っている自分の顔を見れば、それはいやと言うほど伝わった。
「いっつもそんな顔でご飯食べてるの?」
「……かもしれないですね」
俺が食事を楽しんでいたのは、果たしていつの頃だっただろうか。
俺の記憶の中にある笑って食事をしていた頃の記憶。
思い出せるのは、笑顔で給食を食べていた日、おやつを食べていた日、そして家に帰って夕飯を食べていた日。そのどの記憶にも、隣にはいつも七海の笑顔があった。
彼女が笑い、俺が笑う。あいつが、笑顔の根源だった。
だが、それは裏を返せば……。
「結局、あいつがいないと駄目ってことか」
「……? なんか言った?」
「いや、なんでもないです」
小さく苦笑しながら残ったカレーを口に運ぶ。
何故だろうか。そのカレーはさっきよりも、少しだけ味気ないような気がした。
「ごめん。もしかして、気にしちゃった?」
「あ、いえ。そういうことでは……。むしろ、こちらこそすみませんでした」
作っている人間からしたら、無表情で食べられるのは確かに面白くないだろう。
素直に頭を下げる。
だが、篠田先輩は「いやいや」と両手をブンブンと振った。
「別に責めてるわけじゃないんだよ。おかげで目標にもなっているしね」
「目標、ですか?」
首を傾げると先輩はくすくすと笑いながら、
「君を笑わせることだよ」
と、言った。
「その無愛想な顔を絶対に笑顔にしてやろうと思ってさ。おかげで毎日の料理に張り合いが出てきたんだよ。あーくん、なかなかに手強いから」
「は、はぁ……。どうも」
それは、果たして褒められているのだろうか?
「だから、元気出してよ、ね?」
「はい」
こくり、と頷く。
それで、満足したのか、先輩はようやく自分の分のカレーを食べ始めた。
……すみません、先輩。
俺は多分、笑顔で食事をするなんてことは出来ないと思います。
咀嚼して飲み込む。それだけの作業。
その中に笑顔というプログラムを組み込むことはどうしても出来なかった。たった、それだけの行為に楽しいという感情を込める術がわからなかった。わかっていたのに、忘れてしまった。
表情を作ることすら、出来なかった。
この感情は失くしたものだ。幼馴染の死と共に、俺は大切な何かを一緒に失くしてしまった。それは食事中の笑顔だけではない。きっと、俺の知らない内にいろんなものを失くしてしまったのだろう。心に空いた穴。そこから抜け落ちた、生きる為に決して重要ではないかもしれない、でも大切なもの。
たまに思うのだ。
そんな感情を失くしてしまった人間は、果たして人形と何が違うのか、と。