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7月9日 ~彼女のいる世界で~

「こんな時間に学校をサボるなんて初めてかもしれないな」


 校門から校舎を見上げながら、そんなことを呟いた。


 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。ここから、他の生徒は眠い目をこすりながら、残り二科目の授業を受けるのだろう。


 だけど、俺にそんな時間はない。今はもう、一分一秒でも惜しいのだ。


「行くか」


 学校に背を向けて早足でその場を去る。次に行く場所は決まっていた。


「普通に考えれば、あそこが一番違和感が漂ってたもんな」


 自分の家。なぜ、俺は自分の部屋で目を覚ましたのか。なぜ、メールが消えていたのか。なぜ、自室の隣にある部屋が気になって仕方がないのか。


 今にして思えば、あそこが全ての違和感の始まりだった。


「きっと、あそこに何かあるんだ」


 予想ではない。ほとんど確信に近かった。


 昼下がりの閑散とした道を抜け、十字路に出る。そこを右に曲がって住宅街の中に入る。住宅街もやはり、人の姿はない。制服姿の俺だけが、ここに一人取り残されたような、そんな感覚に陥りそうになる。


 だけど、不思議と寂しくなることはなかった。


「着いた」


 家の前に着いて、俺は一度だけ上を見上げる。今朝は気持ち悪くて早く出たくて仕方なかったが、今はそんな恐怖はどこかに消え去ってしまった。


 ここに答えがある。それを取り戻す。


 今はもう、そんな気持ちで溢れていた。


「よし」


 一呼吸おいてから、俺はポケットから鍵を取り出してドアに突き刺す。それを回せばロックが外れるはずなのだが……。


「あれ?」


 なぜか、その感触がなかった。何度、回しても鍵穴はすかすかと力なく回る。それはつまり。


「鍵が開いてる?」


 一瞬、閉め忘れたのかとも考えたが、それはない。確かに、俺はしっかりと鍵を閉めた。その記憶は確かに残っている。まぁ、今となってはその記憶もこころもとないのだが。


 おそるおそるドアを開ける。


 もしかしたら、空き巣にでも侵入されたのかとも思ったが、家の中は特に荒れた様子はない。


 ひとまず安心して胸を撫で下ろす。


 しかし。


 バタン!


「……っ!?」


 途端、二階から大きな物音が響き渡った。完全に安心しきっていた俺は危うく心臓が止まってしまうかと思うくらいに驚いた。というか、叫び声を上げそうになった。


「な、なんだよ……」


 玄関からちら、と二階を見上げる。今のはドアが閉まった音、だよな?


「俺、ドアもちゃんと閉めたはずだぞ」


 完全に消え去っていたはずの恐怖が、再び舞い戻ってくるのを感じた。なんだ、この家は幽霊にでも憑かれてるのか?


「や、そんなわけないよな」


 誰か、侵入者がいる。そう考えた方が自然だ。ならば、本当に空き巣がいるのだろうか。


「……」


 近くの傘立てから一番先端が鋭いものを選んで掴む。心もとないが、それでも無いよりはマシだろう。


「やるしかないよな」


 警察に連絡している暇は多分、ない。俺がなんとかしなければならないのだ。


 静かに靴を脱いでフローリングに足をつける。ギシッと軋む音すらも立てぬよう慎重に二階へと上っていく。


 今のところ、なんの物音も聞こえていない。もしかしたら、もう空き巣はいないのかも。


 だけど、その希望はまたも裏切られることになる。


「……っ」


 俺の部屋の隣にある空き室。そこのドアが、開いていた。しかも、中から白い布のようなものがひらひらと風にたなびいているのが見えてしまった。すぐに隠れてしまったが、間違いない。


「おいおい」


 ぐっ、と傘を持つ手に力が入る。廊下を進み、自分の部屋を通り過ぎ、空き室のすぐ横で立ち止まった。


 壁に背をつけて、ゆっくりと中の様子をうかがう。油断していれば後ろから襲いかかるつもりだった。


「え?」


 ――その部屋に空き巣の姿があったら。


 部屋の中には誰もいなかった。誰かが隠れた様子もない。しかし、それよりも。


「なんだ、ここは……」


 空き室だと思っていたそこには、ベッドに本棚に机と様々な家具が置かれていた。ただ、置かれているわけじゃない。そこには、明らかな生活感が漂っている。まるで、ついこの間までここで生活をしていたかのような。


「なんだよ、こんなの知らないぞ」


 その場に傘を置いて、部屋の中に足を踏み入れる。


 女の子が使うような部屋だなと思った。本棚や机に、女の子が好きそうな色や小物がいくつも乗っている。俺の家には女の子なんて住んでいないはずなのに。


 それと、気になったことがもう一つ。


「なんで、みんなこんなにも薄いんだ?」


 色じゃなくて、存在が。ここにある家具全ての輪郭が歪んでいるように見えた。ここにあるようで、ない。まるで蜃気楼のようにあやふやだった。


 少し触れただけでも消えてなくなってしまいそうな儚さ。それを見ていると、なぜか変な焦燥感に襲われる。


「ん……?」


 そんな正体不明の不安に駆られる中で、俺は妙な物を見つけた。


「なんだ、これ?」


今にも消えそうな机の上に一枚の画用紙が置いてあった。他の物と違い、これだけはしっかりとした存在を保っている。


そこには一枚の絵が描かれていた。母親と父親が子供の手を繋いでいる絵だった。三人とも、笑っている。


小さな子供が描いたような拙い絵。だけど、俺はこの絵から目が離せなかった。


「俺は、この絵を知ってる」


 そうだ。俺は知ってる。この絵を描いたやつが、どんな思いでこの絵を描いたのか。どれだけ、自分の描いた絵のような日々を送れることを夢見ていたのかを。


 全部、知っている。


 忘れるわけがない。忘れられるはずがない。


俺は、こいつの……。


「天璃の、家族なんだ」


 俺の記憶に覆い被さった霧が、完全に晴れた。


「はぁ」


 大きくため息を吐いた。喉の奥でつっかえていた小骨が取れたような気分だ。


「天璃のやつ、なんて願いを叶えたんだ」


 実際に経験したからこそわかる。これは、辛い。天璃に近ければ近いほどに。完全に忘れることなんて出来なかった。気持ちの悪い違和感に苦しめられた。


 でも……。


「一番辛いのは、きっとあいつ自身だ」


 自分の親しい人間から忘れられる。記憶だけじゃない、自分の存在を認めてもらうことすら出来ない。一から始めることも許されないのだ。


 その痛みは、きっと俺の想像しているよりもずっと辛いものだと思う。


 だからこそ、俺はあいつを助けると誓った。


 もう、一人にさせたりしない。


「天璃を助けに行こう」


 きっと、あいつは泣いている。自分で作った壁の中で、きっと泣いている。


 今度は見て見ぬふりなんてしない。


「もう一度、お前を裏切ってやるよ、天璃」


 来るはずがないって思っている未来を、見せてやる。


 画用紙を手に、俺は家を飛び出した。


 見上げると、空一面がうっすらとオレンジ色に染まり始めていた。あと一時間もすれば、この町はあっという間に闇へと包まれる。


 それまでに、なんとしても天璃を見つけなければ。


 誰の力も借りずに、自分の手で。


 今まで、ずっと天璃のことを見ていなかったから、あいつは消えた。だからこそ、俺があいつを見つけないといけない。


「でも、どこに……?」


 天璃は一体、どこに行ってしまったのだろうか。


 そんな思考が頭を過る。だけど。


「そんなこと、考える必要ないだろ」


 俺はそう言って、自分の太ももをトントンと叩いた。


 わからないんだったら、わかるまで探せばいい。考えることが必要なんじゃない。諦めないことが必要だった。


 輝樹さんと篠田先輩のように。


 諦めずに、何度も何度も、前を向き続ける。進み続ける。


「よし」


 軽く屈伸をしてから、俺は住宅街を駆け出した。どこにいるのか、なんてことは考えない。ただ、自分の直感を信じてひたすらに走り続けた。


 住宅街。学校。孤児院。


 頭に浮かぶ全ての場所を探して回った。


 呼吸が苦しい。身体が軋む。心臓が破裂しそうだ。ずっと足を動かしていると、身体のパーツが取れてしまいそうになる。


 それでも、構わず走った。


 この距離が、俺達の心の距離なんだ。天璃と離れたこの距離を縮めるために、俺は今、こうして走っている。


 そう思うだけで、頑張れた。限界を超えることが出来た。


「はぁ……っ! あ、あとは……っ!」


 残すは天文山だけ。長いエスカレーターを駆け上り、天文台へと向かう。


 いつの間にか、空はオレンジと暗い青をごちゃ混ぜにしたような色になっていた。


 みんなが家に帰る時間。それぞれが持っている、それぞれの居場所へ。


 だから。


「……家に帰ろう、天璃」


「おにい、ちゃん……」


 町を見下ろせる展望台に、天璃はいた。


 ぎゅっと自分の身体を抱くようにして、展望台の隅に座り込んでいる。


「どうして?」


 自分の姿が見えるのか、と聞いているのだろう。


「お前の描いたこれのおかげだ」


 ずっと手に持っていた天璃の絵を見せる。強く握っていたせいで、少しくしゃくしゃになってしまっていた。


「これ、私の……」


「そうだ。お前の願いだよ」


「私の……?」


 そう言いながら、天璃はゆらりと立ち上がった。俺の目を見る天璃の顔は、それは酷いものだった。ずっと泣いていたのか、目元は赤く腫れ、両頬には涙の跡がしっかりと残っていた。


「お前の願いはこの世から消えることだったのか? 違うだろ。お前の本当の願いは――」


「違う!」


 俺の言葉を遮って天璃は叫ぶ。


「私はここからいなくなるの! それが、私の本当の願いなの!」


 あの時も聞いた、天璃の本音。しかし、その言葉は本当に彼女の真意なのだろうか。


 俺には、それが自分の耳を塞いで現実を受け入れたくないと拒絶しているようにしかみえないのだ。


「自分が消えて、お前はどうしたいんだ?」


「どうもしないよ。私が消えれば、みんなが幸せになる。それだけだよ」


「俺はそうは思わない。お前のことを後悔して、ずっと引きずっていくんだ」


「それは、私のことを覚えているからでしょう? 私のことを忘れれば、そんな辛さは無くなる。もう、何も考えなくていいんだよ」


「違うよ、天璃」


 そう言って、俺は首を横に振る。


「……何が違うって言うの?」


「人は、そんな簡単に記憶を捨てられない。完全に忘れることなんて出来やしないんだ」


 それが例え、奇跡の力だったとしても。


 たった一つのことがきっかけで、人は簡単に思い出を呼び起こす。忘れたとしても、それは捨てたわけじゃない。記憶の奥深くで眠っているだけだ。


 手放すことだけは絶対に出来ない。俺はそれを、七海の死によって思い知らされた。


「いくら、お前が記憶を消したところで、俺はお前を思い出す。絶対に」


 真っすぐ、天璃のことを見つめると、彼女はたじろいで視線を逸らした。


「そんなこと……」


 たじろいだ天璃の目に、じわりと涙が浮かぶ。


「そんなこと言われたら、私はどうしたらいいの!? 捨てられて、裏切られて、そのうえ今度は私の願いを奪って! いい加減にしてよ!」


「それが本当のお前の願いなら、俺だってここまでしない。でも、違うだろ!」


「違わない! 大体、それが違うなんて言える証拠はあるの!? 私の気持ちも知らないくせに、勝手なことばかり言わないでよ!」


「わかるよ」


「え……」


 天璃の記憶を取り戻したきっかけとなった絵。それをもう一度、天璃に見せる。


「これさ、お前の部屋の中にあったんだ」


「私の……?」


「あぁ。他の家具は、今にも消えてしまいそうなくらいにぼやけていたのに、この絵だけは何故か存在がハッキリとしていた」


 それは何故なのか。今はなんとなくわかる。


 つまり、消したくなかったんだ。自分そのものを消そうとした天璃。だけど、この想いだけはどうしても消せなかった。


 まだ、望んでいるのだ。この幸せを掴めるのかもしれないと。


 そう思ったのはきっと……。


「初めて一緒に晩御飯を食べた時、自分達は家族になれたかもしれないって思ったんだろ?」


「……」


 天璃は何も言わない。それでも構わず、俺は話を続ける。


「でも、また裏切られるのを恐れた。どんなに幸せでも、いつかまた崩壊するって思ったんだ」


 だから、天璃はこのまま消えようと思った。裏切られる現実よりも、もしかしたら、幸せだったかもしれないという『イフ』を選んだ。


「だけどな、天璃。それじゃ駄目なんだ。そうやって逃げてばかりいたら駄目なんだよ」


 そのことを、俺達はわかっていたはずなんだ。自分と向き合わず、現実と向き合わず、目を背け続けたらどうなるのかを。


 でも、それでも俺達は動こうとしなかった。これ以上、傷付くことを恐れた。


 進むこともなく、戻ることもなく、ただ、そこに立ち止まって現状を維持し続けた。


 だが、今は違う。


「天璃」


 うつむく天璃に、俺は手を差し伸べる。


「俺達は、変われることを知った。動けることを知った。だったら、あとはもう、進むしかないだろ」


「……裏切られるかもしれないのに?」


「裏切らないよ、絶対に」


「その言葉、信じてもいいの……? 私のこと、ちゃんと見てくれる?」


 おずおずと手を伸ばす。


 その言葉に応えるように、俺はその手をしっかりと掴んで、こちらへと引き寄せた。


「その為に、俺はこうやってお前を探し出したんだ」


「お兄ちゃん……っ」


 天璃の手を握る手に力を込める。絶対に離さないように、どこかに行ってしまわないように、強く、強く。


 それに応えるかのように、天璃も握る手に力を込めた。


 ちら、と天璃の顔を見る。


「……お兄ちゃんの手、あったかいね」


 天璃は少しだけ頬を染めて微笑んだ。


「でも、夏場だとちょっと暑いな」


「これ、離したら許さないから」


「そんなつもりはないよ」


 もう二度と手放したりしない。だって、俺達は大切な……。


「家族だもんな」


「……ねぇ、お兄ちゃん」


「うん?」


「少しだけ、泣いてもいい?」


「さっきも泣いてたろ」


「そう、だったね……」


 我慢出来なくなったのか、天璃は俺の胸に静かに顔を埋めた。


「本当は、すごい怖かった。自分の知ってる人から無視されて、忘れられて、当たり前のように生きていることがすごく怖かったの……」


 胸から天璃のくぐもった声が聞こえる。


「だから……だからね。わた、わたし……っ!」


「大丈夫だよ」


 震える天璃の背中を、優しく叩く。


「天璃は、ちゃんとここにいる」


「うっ、うんっ……うんっ!」


 そこから先は、もう声にはならなかった。ただ、今まで溜め込んでいた天璃の感情が涙となって外へと流れ出した。


 そんな彼女の頭を撫でながら、空を眺める。


 夕陽が沈んだその空に、身を寄せ合うようにして二つの星が輝いていた。











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