裏の人格~メサイア~
頭蓋骨に響くような衝撃を受けて、僕は目覚める。
視界には赤鬼のような大変みにくい巨漢が映っていた。
そいつは一升瓶を逆さにして、何事かを大声で怒鳴っている。
畳にアルコールのにおいが沁み込んでいくのを見て、僕はげんなりとなった。
いい歳をした大人が情けないぜと顔をしかめる。
「テメェ、酒をどこに隠しやがった?」
赤鬼は、ふぅふぅ、と獣の息遣いをしている。
目は血走っていて、黄色い乱杭歯をのぞかせていた。
「何を言っているんだ親父。僕が寝る前に渡した一升瓶が最後だって言ったじゃないか」
そう掛け布団から起き上がると、親父はその布団を蹴っ飛ばした。
押し入れに当たって、ふすまが外れる。
「口答えするんじゃねえよ。ガキの分際でぇ……」
天井のランプがちかちか明滅していた。
このような薄壁の集合住宅ではすぐに近隣から苦情が来てしまう。
僕は赤鬼の怒りを鎮めることを最優先に考えた。
「わかったよ、親父。コンビニまで走ってくるから、大人しく待っててくれ」
「俺がいつ騒いだってんだぁ」ふらふらと千鳥足で柱に背中を預けると、「ああ、いつ騒いだんだ。俺がよぉ……」そう腰を落として眠ってしまった。
「飲み過ぎだぜ、親父」
僕は駐輪場から自転車を引っ張り出す。
寝起きだから、ゆっくりと漕いだ。
ぎぃこぎぃことチェーンが軋む。
「ふわあ。眠ぃ……」
そう頭をさすると瘤ができていた。
「何で僕だけこんな目に遭うんだよ」
暗黒の夜空に愚痴をこぼすと悔しさで視界がにじんだ。
ああ、学校に行くのが面倒だ。
「お前の成績だと関東の大学は厳しいな」
放課後に担任の先生に呼び出された。
職員室に行ってみると、志望校を変えた方がいいとアドバイスをされた。
「その通りですが、僕は親元を離れて生活したいんです」
先生は模試の成績表に目を落とす。
「地元の大学でもいいところはあるだろう。一流じゃなくてもいいのなら、引く手あまただ」
「それでは進学する意味がありません。僕は世界に出て活躍したいんです」
「しかし今の成績では厳しいぞ」
「それならば、推薦文を書いていただけないでしょうか」
僕は目の色を変えて言った。
面接や作文だけならば、いくらでもうまくやれると思ったからだ。
「環境を変えれば、必ず成績も伸びます。お願いします」
「そういうことは結果を残してから言え」
「これからは結果も残します」
「今すぐ残してみろ」
「お願いです、先生。親元を離れなければ……」
"殺される"
その言葉はなんとか飲み込んだ。
あれでも、親父は親父だ。
傷害罪で訴えれば、刑事罰を科せるだろう。
でも、そんなやり方じゃダメだ。
更生しないし、もっと荒れるに決まっている。
ならば、子離れをしてもらうしかない。
「親元を離れなければなんだ?」
先生が訊き返す。その剣幕は真剣そのものだった。
「いえ、なんでもありません。失礼します」
そう職員室を出てから瘤を触る。
問題を大きくしたくはない。とにかく逃げたかった。
だれも僕の気持ちをわかってはくれない。
もう嫌だ。僕の居場所はどこにあるんだ。
だれか僕のことを助けてくれ。
「よう、僕。僕は君だ」
重たい足を引きずって集合住宅に戻ると、そこには顔面が"へのへのもへじ"になっている奇妙な人物がいた。戸締りはちゃんとしていたはずだから物理的にどうやって侵入したのか得体が知れない。泥棒だろうか。
「僕のことだから、きっと僕のことを泥棒だとでも思っているのだろうが、それは間違いだ」そして同じことを繰り返す。「僕は君だ」
まあ上がれよとでも言うように、僕と名乗る人物は、手の平をくいっと奥のリビングへと向けた。
なんだか調子がくるってしまう。赤鬼は外出中だろうか。
「そうだよ。赤鬼は外出中だ」
相手は僕の疑問にそう答えた。
なんだか心中を読まれたみたいで気味が悪い。
「うん、僕は僕を助けに来たんだ」
何をしに来たんだ。
そう脳裏に疑問が浮かぶより先に、僕、は答えた。
「そうだね、具体的には……」
具体的には何をしてくれるんだ?
質問と回答の順序がちぐはぐになる。
脳の回転が追い付かない。酔いそうだ。
「模擬試験の結果がさんざんだったから、このままだと志望校に行かせてもらえないだろ?」
「だったらどうするんだ?」
「僕は君だからね。僕が代わりに試験を受けるよ」
「意味が分からない。だいたいそんなふざけたルックスじゃ……」
「見た目の心配はしなくていい。君以外には僕に見えているだろうからね」
「僕が君なら、学力だって変わらないはずだろ」
言ってて、頭がこんがらがってきた。
これで見た目までそっくりにされたら、いよいよ脳がパンクするところだった。
「その通りだが、ちょっと違う」
へのへのもへじは、のの文字を縦に縮小して、おそらく目を細めているのだろうが、言った。
「僕の記憶はそのまま僕に継承されている。だから僕の履修した科目はもちろん、経験したスポーツや格闘技、料理経験に至るまでそっくりそのまま追体験をしているよ」
やっぱり要領を得ない答えだった。
同じことをやってきたのであれば、同じような能力しか身につかなかったはずだ。
「だから、それは違うんだよ」
「どこが違うんだ」
「そうだな。例えば花火だ。花火を見に行ったとしよう」
なんだか話が支離滅裂だな。
「君は花火を見たらどう思う?」
便宜的なのだろうが、君、という二人称をへのへのもへじは使った。
自分のことも相手のことも、僕、と呼称し続けられたら、バカになるところだった。
「綺麗だなと思うだろ。それはみんなそうだ」
「そう。その前提が間違っている」
「どこが間違っているんだ?」
「少なくとも、僕はそう思わないよ。京都議定書を上げるまでもない。花火なんて、CO2と環境破壊の産物だ。むしろ汚いと僕は思っているよ」
「それはお前の心が汚れている証拠だ」
「こんなつまらないことで、論争するつもりはないよ。綺麗か汚いかは、ものの見方だ」
「つまりお前は」「僕と違う見方をしている」
そういうことになる。
違う見方をしているならば、同じ経験をしても、得る教訓は違ってくる。
思想も異なる。おそらく学力も。
「そうだね。得意科目も違うよ。どれに興味を持つかなんて性格の問題だから」
「僕は君だなんて、勿体ぶっていたけど」
「そうだね。同じなのは見た目だけだ。内実は異なる」
「だったらお前の学力は、僕よりも高いのか?」
「そんなのは教科による。僕は君の影として生きてきたんだ。言うならば、裏の人格? 僕を母体としている以上、そこまでスペックに差はないと思うよ」
どういう目的で僕が僕を作ったかにもよるけどね。
お前はへの文字をゆがめた。ほくそ笑んだのだろう。
僕が僕を作った理由。それは。
「現実逃避、だろ。いいよ。代理人を務めてやるよ」
お前はそう腕を組んだ。
お前と同じ空間にいるだけで、居心地が悪く感じられた。
「君はただ黙っていればいい。僕が君として生きてあげるから」
僕はただ黙ってみていた。
お前が親父に殴られているところを。
痛覚までは同体でないとみえて、痛みは感じなかった。
でも親父はふつうにお前と接しているから、お前は僕なのだろう。
お前は僕として過ごした。
それは僕から見ても違和感がないほどに自然な過ごし方だった。
そのまま数カ月が経った。
結局お前の学力は僕と同じだった。
まあ期待はしていなかったから、それは構わないけど。
「なあ、お前。僕も久しぶりに学校に行っていいか?」
そう話しかけると、お前はひゃっと驚いた。
まだ早朝で、寝起きだったからだろうか。
親父はむにゃむにゃ眠っている。
「あっ、あっ……」
お前は口をパクパクさせて、後ずさる。
「君はだれだ?」
お前はかろうじて声を絞り出した。
「へのへのもへじみたいな顔して、泥棒か?」
は? 何を言っているんだ。
いや、思い当たることがあるぞ。
お前は、自身を裏の人格と称した。
だけど表舞台に立ち続けたお前は、表の人格になったのだ。
まずいことになった。
僕は二人もいらない。
僕になれるのは僕だけだ。
お前は僕じゃない。
「僕は」「君は」
「だれなんだ?」
怖いと思っていただけたなら嬉しいです!!\(^o^)/