私は、平気だから
残酷描写があります!
苦手な人は注意です!
二人は森を抜けた。背の高い針葉樹は姿を消し、地面を覆う雑草が増えてきた。辺りは、見通しの良い平原と、平原のところどころに、白い岩が点々とあって、太陽の光を鈍く反射していた。
太陽は、真南から大地を照らし、遠くには霞がかった山々が見えている。その中の一つに、峰が雲にまで届いている大きな山があった。
「あれが、富士山」
「大きいな。あの山のどこかに、姫がいるのか」
ミライとフィロスは、平原にある大きな岩の上から富士山を眺めていた。二人の乗っている岩からは、赤茶けた鉄筋が突き出し、かつて、大勢の人々がここにいたことを主張しているようだ。
しかし今は、自然の一部と化して、風化したコンクリートの残骸でしかない。
「あそこまでいくのには、いったいどれほどの時間がかかることか……」
フィロスは、はぁっと深いため息をついた。ミライは、そんな彼の様子を気にすることもなく、岩から飛び降り、歩き始める。
雑草の上に、彼女の足跡が、軌跡となって残っていった。
「いっちにっちいっぽみっかでさんぽ、さーんぽすすんでよんほさーがーるー」
「たどり着けなさそうな歌を歌うな!」
ばさりと岩の上から飛び立ったフィロスは、ミライの頭にとまった。ミライは驚きもせず、変わらぬ調子で歌い続けている。どこかおかしな歌詞と、透き通るような歌声が、平原に吹く風に運ばれていった。
※ ※ ※
旅立ちから数週間経ち、雨季が訪れた。
暗く淀んだ空は、灰色の絵の具に黒を足して雑にかき混ぜたような、まだらな暗雲が立ち込めている。
少し前から、しとしとと降りだした雨から逃れるように、ミライとフィロスは、倒壊したビルの隙間で雨宿りをしていた。ビルの隙間には、土の浸食がなく、大量の本が無造作に散らばっていた。
「雨か……。これでは、動くことができんな」
「私は、平気だけど」
「我が風邪をひいてしまうではないか!」
フィロスはぴしゃりと言い放った。まるで彼の感情に呼応するかのように、雨が勢いを増す。
分厚い水の壁に遮られ、目的の富士山の姿も見えないでいた。
二人は押し黙り、けれども身を寄せ合って、雨が通り過ぎるのを待ち続けた。
しかし、雨はいつまでも降り続け、ついに三日が経過した。
その間のフィロスの食料は、平原に実っていたクサイチゴやブドウなどの木の実と果物だけだった。
それもすでに腐りはじめ、少しずつ、食べるものが無くっていた。じわじわと、だが確実に、フィロスに死神の鎌が迫っていく。
「このままでは、飢え死にだ! どうすればいい!」
フィロスの悲痛の叫びは、雨に飲み込まれていった。
人共に生き、何不自由ない暮らしをしてきた彼にとって、この状況は窮地以外の何物でもなかったのだ。
彼は、ついに雨の中、狩りをしに行くことを決め、ミライに伝えた。
「私も行く?」
「いや、いい。もしもはぐれてしまったら、二度と会えんかもしれん」
フィロスは、床に散らばる本を集め、火を吹いた。
本は、湿気のせいかなかなか火がつかなかったが、やがて小さな炎が灯った。
「この火を絶やさないでくれ。我は、これを頼りに戻ってくる」
「わかった」
ミライの返事を聞いたフィロスは、ビルの隙間から、激しく降る雨の中へと飛び出していった。
フィロスが戻ってきたのは、それから幾日か経った後だった。
体はやせ細り、鱗が何枚かはがれかけた姿で戻った彼は、ふらつく足取りでミライの膝まで歩み寄るとそのままぱたりと倒れこんでしまった。
「フィロス、大丈夫?」
「ひゅー……ひゅー……。ダメだ……何匹か狩りには成功したが、消耗の方が遥かに大きい……」
息も絶え絶えなフィロスは、虚ろな瞳で宙を見ていた。
雨の中、獲物を探し、見つけても逃げられ、雨に体力を削られた体は、もはや呼吸をするだけで精一杯のようだ。
「これ、食べる?」
ミライは、何かの肉をフィロスの目の前に差し出した。
まだ血の固まっていないそれは、つい先ほどまで生きていたことがわかる。
そしてそれだけではなく、ミライの背後には、大量の肉の山が積みあがっていた。
中には、すでに血が凝固している物から、腐りかけの物まで、まるで、毎日新しい肉をどこかから調達してきたようだ。
「肉……」
フィロスは、嫌な予感がしていた。
これは、食べてはいけない物だ。それは、神が罰を下すときにする行いだ。竜約聖書に記されていた、罪深き王、アハブの物語。自分の利益のみを追い求め、偶像を崇拝した彼のような目に、なぜ我があわねばならんのだ?
我は罪など侵していない。ただ、宇宙という、未知の世界への憧れを抱いていただけなのだ。
それとも、それが罪なのか?
彼の頭の中は、絶望と疑問が渦巻いていた。
だが、結局のところ、彼は自分の空腹を耐えられず、ミライの差し出した肉にかぶりついた。
一心不乱に肉を貪る様子を、ミライはただ、観察しているのだった。
「う……ぐ……ぅ……」
そして、肉を貪るフィロスの瞳から、とめどなく涙があふれだした。
※ ※ ※
肉を食べてからというもの、フィロスは様子がおかしくなった。
身体能力が上昇し、雨の中でも十分な獲物を確保できるようになった。
そして性格も変わった、気性が荒くなり、動くものを見かけると、躊躇することなく襲い掛かるようになったのだ。
なにより、ミライのことを『主様』と呼ぶようになった。
そんな彼の変わりようも、ミライはただ、受け入れるだけだった。
フィロスが変わってしまった後も、二人は富士山を目指していた。少女の小さな歩幅ではなかなか縮まらない距離にも、フィロスは文句一つ言わず、従順にミライについていった。
ある雪の降る日。突然、フィロスが苦しみだした。
「う……ううぅ……」
「フィロス、どうしたの?」
苦しそうにうずくまるフィロスの背を、ミライは優しく撫でる。
フィロスの体からは熱が発せられているようで、雪が触れたところから順に、小さな水滴となって彼の体に纏わりついた。
「主様……主様……体が……熱い……」
「大丈夫?」
フィロスはミライの問いに答えることもなく、ただ荒い呼吸を続けていた。
そして、フィロスのつま先から赤い光が湧き出してくると、光は彼を包み込んだ。
ミライは、すっと手を離し、フィロスの様子をじっと見守っている。そして、数刻の後、フィロスは5メートルはあろうかというほどの、大きな赤い宝石に包まれてしまった。
宝石は、透き通った表面を持っているのに、その中心は黒く塗りつぶされて伺うことができない。
「フィロス?」
ミライの呟いた言葉は、しんしんと降る雪に吸い込まれ、虚しく消えていった。
※ ※ ※
ーーーー数百年後。
ミライは、宝石になったフィロスの元にいた。
数百年間、片時も離れずに、ただじっと赤い宝石を見つめていたのだ。
これまで、なんの変化もなかった宝石がその日、激しく振動した。
「フィロス……出てくるの?」
ミライが声をかけたとたん、宝石の表面にひびが入った。
まるで、ひな鳥が殻を破るときのように、内側から何かが出てこようとしているようだ。
少しずつ、宝石の表面が割れ始めて、割れた隙間から、どう猛な緑色の瞳が覗いていた。
そして、宝石の上部がめきりと割れて、中からは、七本の首を持つ、赤い鱗の竜が姿を露わにした。その体は、彼の入っていた宝石よりも大きく、両翼を広げればゆうに10メートルはあった。
竜は、一つ一つが意思を持っているように辺りを見回している。その内の一本が、ミライに気がついたのか、彼女のをじっと見つめた。
「フィロス、大きくなったね」
「ア……ル……ジ……サマ」
変貌したフィロスは、うまく発音できないのか、くぐもった声でミライを呼んだ。
「ニ……ク……」
「肉が食べたいの? ここに、あるよ」
ミライの後ろには、山と積まれた肉が置いてあった。
フィロスは七つの首でそれを喰らいつくし、そしてミライの目の前で頭を下げた。
ミライはフィロスの頭を優しく撫で、フィロスは気持ちよさそうに目を細めた。
「アルジサマ……セニ、オノリクダサイ」
フィロスは、大きな体を反転させて、伏せた。そして、ミライは、フィロスの言った通り、彼の背中へと乗った。首に生えた銀の鬣をしっかりと握り、彼女を乗せたフィロスは、天高く舞い上がる。
空に浮かぶ満月を背景に、二人の影が、悠久なる霊峰へと向かっていった。
ううむ……バッドエンドにするか、ハッピーエンドにするか、悩む……。