2
物語というのは、起こった出来事の連続性でもあるし、時間というのが順序よく継起していくという事でもある。物語の渦中にいる人間というのは結末を知らないのに、作者は結末を知っている。
作者は未来の場所に立っている。一方、登場人物、主人公は過去のある一点に立っている。作者は主人公に対して絶対有利な立場に立っている。この時、作者は自分を、世界を創る創造主であるように感じられる。
これに関しては見方を変える事もできる。仮に神がこの世界を、我々を作ったのだとしても、そこに我々に全く自由がないとは限らない。というのは、我々がある資質、存在、肉体を与えられたという事実は、全て神の創意によるとしても、そこからどのように発展していくかは神にも決められない。例えば、僕が文学的資質を与えられたとしよう。その僕がいきなり数学者になる事を決意したとしたら妙である。神が与えた文学的資質なるものに、僕の決意は反する事になる。そして神がそのような転向を意図して与えたとしても、それは最初に神が与えた資質に反するからやはり奇妙である。それにそんな事ばかり神がしているのであれば、神はわざわざ僕を創る必要はなかった。神には自分の意志と命令のままに動くロボットがあればいいのであって、僕という独立した意識を持つ存在を創る必要はなかっただろう。
作者は登場人物をどのようにも作る事ができる。どんな突飛な設定も付け足す事ができる。だが、一度与えられた設定は登場人物においては、自分のものとする。登場人物はもちろん、単なる記号であるから、自分の内面とか意識とかは持たない。それでも登場人物は自分に与えられたものを守ろうとする。単純な設定ーー例えば、光に弱い主人公がいると、主人公が平然と太陽の下に出てくる事は許されない。作者が好き勝手にそういう描写をする事はできるが、それは作者が最初に与えた設定自体に反する。そうなると、そこには不自然さが出てくる。
主人公が光に弱いという設定そのものは単純なものだが、これが人間の性格ーー内面とかいうものになると、一気に複雑なものになる。だから、物語を作る上では単純な設定にしておいた方が、作りやすい。登場人物がそれぞれ自分の自由を感じつつ動いてこられたら、作者の脳内の処理能力が追いつかなくなる。
もう一度、スタート地点に戻って考える。作者は作品を作り、登場人物を動かして物語を作る。その際、登場人物は何らかの存在を与えられる。登場人物はその存在に規定されて動く。もし登場人物が存在として規定されないと、登場人物は登場人物ではない。登場人物は物語という時間軸内で他者と関わり、それによって自己を決定していく。
通常の物語は決定されていた自己が運動しある地点に到達するものだが、ドストエフスキー「罪と場」ではそもそも未決定にとどまっている主人公が他者との関わり(殺人という行為を媒介とし)によって自己を決定していくのが物語そのものと言える。つまり、ラスコーリニコフにとっては未決定な自己を決定していくのが物語であり、普通の物語がスタートする地点に到達するのが「罪と罰」なのだ。だがこの場合でも、ドストエフスキーはラスコーリニコフという青年にある設定を与えている。それは「未決定」という決定である。ラスコーリニコフは自ら未決定な存在であるが、やむなく、それを社会の中で意味あるものとして決定していくはめになる。未決定を決定するという難しい技をドストエフスキーは長い苦難の末に手に入れたと見る事ができる。
さて、やたら長々と書いてしまって、自分でも混乱してきたので、結論を書いてこの文章を終わらせる事にする。