上
大概の場合、不幸とは自分から足を突っ込むもの、そして幸福というのは向こうからやってくるものだ。
ご多分に漏れず、今夜も私の幸福は、向こうから片手を上げて近付いてきた。
「来たか、鼎。待ち侘びていたぞ」
彼女の長い黒髪が艶めいて月光を照り返す。
夏特有の熱気をはらんだ風が一迅、通り過ぎていった。
真夜中の廃墟。放棄された遊園地。
満天の星空の下、遊園地の出入り口にあたる錆びた柵の前。
いくら月の綺麗な夜だとしても、デートの待ち合わせ場所としては異色な方かもしれない。
それでも、夜だと言うのに即座に姿を見付けられたのは、多分、服の白が夜闇から浮いているからだ。
白い服が、と言うか――まあ、その……羽織っている白衣が。
「センパイ……。センパイって、キャンパスだけじゃなくて、普段から白衣着てるんですか?」
「行きつけの店で早く顔を覚えて貰えるし身分証明になるし、割と便利なんだ。何せこの辺りにあるのは大学のきゃんぱすと大学生目当ての飲食店、あとは学生住居くらいだものな。大学生だと分かれば、みんなそんなに変な顔で見ることもない」
どこか舌足らずな言葉遣いも愛らしい。
足首丈の白衣をなびかせて、両手をポケットに突っ込み直しながら、センパイはこちらに向かって歩いてくる。
小柄なのに白衣の下、膝丈のタイトスカートが似合うのは、どこか知的な雰囲気のする目元のせいだろう。
だが、全体としては――少なくとも私から見れば――可愛くて仕方がない、と言いたい。
私より背が低いなんてそれだけで可愛いけれど、その上、このお人形みたいなすべすべほっぺに黒目がちな大きめの目、つんと尖った鼻先に隙のあるぽってりとした口元。
この完成された生きた美の極地を前にすれば、どんな彫刻も絵画も色を失うに違いない。
――いや。人よ、私をロリコンと笑うなら笑え。
だが、誰が何と言おうと彼女は私のセンパイであり、大学生であり、従って、私は幼女に興奮しているワケではないのだ。
大学生だもの。センパイだもの。別にほら……だから、こういう疚しい考えになるのも、致し方なし。
目前まで近付いてきた彼女は、小首を傾げて黙ったままの私を不審げに見上げる。
その姿がまた……キュートなんだ、これが。
「鼎? 聞いているか?」
「――あっダイジョブです、センパイ! ちょっと見惚れちゃっただけですから」
「……またか。全く。確かに究極の美は人を沈黙させるが、だからと言って、日に何度もこうして黙り込まれては時間が勿体無い。以降、あまりわたしの美しさに気を取られ過ぎぬように用心しろ」
「はい、センパイっ」
元気よく答えた弾みで、フリルのスカートが空気を含んで膨らんだ。いや、何重にもチュールの重なったパニエを下にはいているから、元から膨らんではいるんだけど。
漆黒のワンピースは夏らしいベアトップでやや胸元を軽く、首元の黒いチョーカーで引き締めている。この白い肌と黒のコントラストをお楽しみ頂ける一品です!
夏は暑いが、私は負けない。肌に張り付くレースだって、ものともしない!
風をはらんで一瞬だけ存在感を増したスカートの存在に、気遅れたようにセンパイは一歩下がった。
「……昼間と色が違うような気がする」
はい、正解。さすがセンパイ、良く見てる!
仰る通り、昼間は授業を意識してちょっと清楚に、白の姫袖ブラウスと花柄のジャンパースカートでした!
欲を言えば、昼間と今とどっちの方が好きかも言ってほしかったところだけど、そこまで求めるのはワガママというものだろう。
「いやもうそりゃもちろん着替えてきたんですよ! だって憧れのセンパイとデートですよ!? 夜に! 人気のない廃遊園地で! あのほらちょっとこれ絶対ほら、これから目くるめく青春の一夜の思い出に……あっ、そんな顔しなくても大丈夫です! しっかりシャワーも浴びてきてますから!」
「……でぃと、ではない、文芸さーくる『コリントの花嫁』によるふぃーるど調査だ。君の妄想にかかずりあっている暇はない。さあ、行くぞ」
「はい、センパイ! 真夜中の裏野ドリームランドツアー、開幕ですね!」
デート――じゃない、調査のスタートは出入り口の確保から。
まくれ上がるタイトスカートをものともせず、センパイは行く手を阻む鉄柵に足をかけた。
これ、下から見たら完全にぱんつ見えるんじゃなかろうか……とか思ってハラハラしたけれど、後ろから見てるだけで既にお尻のくまさんが見えていた。むしろ、心配は無用だった。
白衣&タイトスカートの下にくまさんぱんつとは、さすがセンパイ! 通好み!
「何を見ている。君も早くしろ」
何とか頂上まで上り切り、柵に跨ってこちらを見下ろしてくるセンパイの視線を感じながら、私は正門脇の従業員用通用口に近づき、足を振り上げた。
底の固い編み上げブーツと錆びついた錠がぶつかり、耳障りな音を立てる。
2度、3度。
4度目で耐えきれなくなった錠が折れ、地面に落下した。
金属の軋む音が響き、ゆっくりと通用口が開いていく。
「わーい、お邪魔しまーす」
通用口を潜ったところで、上からセンパイが降りてきた。
純白だったはずの白衣のあちこちに、赤茶けたシミがついている。
「……君、ずるくないか?」
「チュールって柵に引っかかりやすいんですよね」
泣きそうな顔で汚れた白衣を見下ろすセンパイに、胸キュンしたのは私だけの秘密デス!
「……ずるい」
「や、ほら。いくらセンパイにこの無垢な身体を捧げる覚悟があるとしても、大事なお洋服を捧げるつもりはありませんので、悪しからず」
こういう服は恐ろしいほど値が張るのだ。ブランドが少ないせいもあって、安物を買うと、即座にバレる。もちろん、そんなことに気付くのは同好の士のみとは言っても、むしろそれこそが寂しいではないか!
乱暴に扱った靴のエナメル部分には傷1つ入っていないことを確認してから、私はセンパイに向けて微笑みを浮かべた。
「さあ、いきましょうか、センパイ!」
「……うん」
悄然とした様子の彼女の隣を歩きながら、広大な廃遊園地に遺された錆びたアトラクションの巨大な影を見回す。
夜だから、シルエットでしか判別出来ないけれど。
あっちの背の高いハシゴのような影は、きっとジェットコースター。
こちらのドーム型のは、メリーゴーラウンドだろう。
地面はブロックで舗装されているけれど、隙間から雑草がはみ出し、表面を土埃が覆っていた。遺棄されてからの時間が、そのまま積み重なっているみたいに。
振り向いて、並ぶセンパイと私の足跡を見返していると、ふと昼間の会話を思い出した。
「ねえ、センパイ」
「……うん」
「いつまでしょんぼりしてるんですか、元気出して」
「鉄錆汚れは洗濯では落ちにくいのだ……」
「後で私が洗濯して差し上げますよ」
あまりの気落ちっぷりを見ていると、優しい言葉をかけたくなる。
が、センパイはきっぱりと首を振り、それを契機に顔を上げた。
「いや、良い。そんな心配は無用だ。それより、何か言いたかったんじゃないのか」
「え? うんとあのほら、昼間おっしゃってたじゃないですか」
「ああ……裏野どりーむらんどの七不思議、か?」
「はい。今日はそれを確かめに来たんですよね」
「確かめる、と言えるほど怪奇現象の存在に確信が有るワケではない。そうだな……ねた探し、ぐらいなものだよ。そろそろ我ら『コリントの花嫁』定例の、夏の怪奇小説企画も始まるのだろう? あのいけすかない眼鏡の部長がそんなことを言っていた」
裏野ドリームランドの噂を聞き込んで、私をここに誘ったのはセンパイだ。
聞くに、様々な噂があるらしい。
廃園になったのは、子どもが行方不明になるからだ、とか。
さっきのジェットコースターで、昔、事故があった、とか。
動かないはずのメリーゴーラウンドに明かりがともる、とか。
嬉々としてサークル室で噂を披露し、テンションマックスで行きたがるセンパイを、放置出来る者が誰かいるだろうか!?(いや、いない!)
……まあ、私以外の他のサークル員は、しらーっとして聞き流してましたけれども。
どうもノリが悪いんだよなぁ。我がサークルながら、残念なことである。
とは言え、毎年入れ替わり立ち替わる大学生達の中で、折々にきちんと集まっているだけでも上等なのかも知れない。
何せ、大学生なのだ。
正直、誰かがある日行方不明になっていても、誰も気づかないかも知れない連中だ。
授業もサークルも、顔を出さなければ「サボってるんだな」で終わりだろう。
「ネタ探しですか……」
返事をしたが、センパイはこちらを見もせず――と言うか、脇目も振らず一直線に遊園地の奥を目指していた。
ネタ探しと言うなら、もうちょっとあちこち見て回る方が良いんじゃないだろうか。
「センパイ、目的地決まってるんですよね? 噂の中で、どれか気になったヤツがあったんです?」
この靴、底が重いからあんまり長時間歩きたくない。
まさか、奥から虱潰しになんて言い出さないよな、という恐れも込めて、隣を歩くセンパイの顔を覗き込んだ。
センパイはこちらに視線を振ってから、すぐに前方に戻した。
その頭の上に、鉄骨とゴンドラだけが残った観覧者が見える。
もし近付けば、噂通りに声が聞こえるのだろうか。「出して……」と。
センパイは、風に軋む鉄骨のバケモノには目もくれず歩き続ける。
「……七不思議について、昼間別れてから色々考えたのだが」
「はい?」
「七つあるな」
「はい」
「何かおかしいと思わないか?」
「……? 悪い噂ばっかり随分あるなぁ、とか?」
「いや、七つの噂の内容だ」
水の枯れ果てた人工の川に、朽ちた船が一艘ひっくり返っていた。あれも噂のアトラクションのアクアツアーだろうか。確か、謎の生き物の影が見える、とか。
どこからか、湿った風が吹いてきたような気がした。
「内容? どういうことですか?」
「七不思議を全部上げてみろ。何か違和感のあるものはないか?」
「違和感?」
途端、ガシャ、と踏み出した足元で鳴った。
飛び退ってから落ち着いて見れば、割れた鏡の破片が重なっていたらしい。
向こうにミラーハウスの影が見えた。
あのアトラクションにも確か、中に入ると中身だけが別人と入れ替わって出てくるなんて噂が……。
センパイがため息をついた音が、やけに耳に響いた。
静かなせいだろう。
人気のない遊園地は暑いはずなのに、何やら背筋が寒くなって、思わず隣の身体に身を寄せる。
「子どもの失踪、詳細不明の事故、謎の生物、入れ替わりの噂、無人の明かり、正体不明の声……どれも怪異だ」
「そうですね」
「だと言うのに……最後の噂はどうだ?」
センパイは、腕に擦り寄る私など見もせずに、真っ直ぐに歩き続ける。
やがて、その足が暗い影の中に踏み込んだ。
月光を遮ってそびえ建つ巨大な城――裏野ドリームランドを象徴するランドマーク。
ドリームキャッスルが、私達の前にあった。
朽ち果て、蔦の絡んだ外観は、それだけで踏み込むのを躊躇させる迫力がある。
「どりーむきゃっするには、地下に隠された拷問室があると言う噂だ」
「は、はい……」
「おかしいだろう。何故ここで突然、物理攻撃に出るんだ。拷問室は怪異でも何でもない。ただの設備だ。あったから何だと言うんだ!」
「いや、えっとあの……現代日本ではあんまり――」
――あり得ない存在かな、とか思いマス……という言葉は、口の中でもごもご言って消えた。
センパイの口調から、ちょっと手が付けられないほどお怒りだってことが分かったから。
「許せん! 行くぞ、鼎。噂の真偽を確認し、どりーむらんどをねたに一作ぶち上げるのだ。いつもわたしの存在を無視するあの眼鏡に、目にもの見せてくれる!」
「は、はい……!」
こうして私とセンパイは、裏野ドリームランドの最奥へと踏み込んだ。
その一歩が、二度とは戻れぬ運命の別れ道だなどと、気付かぬままに。