初夜
プロローグ
少年は獲物を覗き込んでいた。息を殺し、腰を落とし、細心の注意を払いながらその瞬間を待っていた。両腕には鋼鉄の長い棒が握られ、その先端は確実に獲物を仕留めることができるように鋭利に研ぎ澄まされていた。装飾などは一切なく、ところどころに軽量化のための穴が空いている。ただひたすらに獲物を狩ることを目的にした、冷徹だが実用性に優れた得物だ。少年は音を立てないよう、じりじりと足を擦り寄せる。全身のあらゆる感覚は目の前の牡鹿に向けられていた。獲物の体長は2.5mほど。鹿とはいえその大きさは馬並みに成長した大鹿だった。つややかな毛並みと立派な四肢は牡鹿が健康であることを示す。今は夢中になって水分を胃袋に流し込んでいる。まだ日が明けていない早朝は、夜中走り回った夜行性の動物が喉の渇きを癒そうと水場にやってくるのだ。少年はその牡鹿の右斜め後ろ、最も急所を狙いやすい位置にある茂みの中で、身を引き締めていた。しっとりと汗が噴き出す。数センチ、いや数ミリでもいい。成功の確率をわずかでもあげるために、少年は全神経を研ぎ澄まし獲物に近づいていた。タイミングをはかる1秒がその10倍にも感じる。ほんの2m先にいる獲物との距離を縮めるのに、途方も無い集中力を費やしていた。
瞬間、獲物が顔をあげる。少年はほぼ思考することなく、全身のバネを総動員し反射的に茂みから飛び出す。地を這うように腰を屈めながら、左腕に全身の体重を載せ、低い位置から牡鹿の腹めがけて上方向に突き出す。よく研ぎ澄まされたその槍状の得物は、牡鹿のしなやかな皮膚をもろともせず突き抜け、鍛えられた筋肉を断ち切った。牡鹿は渾身の力を振り絞り強靭な四肢をばたつかせる。発達した後ろ足の蹴りは、直撃すればこちらの命が危うくなるような威力であろう。少年は、得物をさらに深く差し込むために足を踏み込む。踏み込みにより地面にはくっきりと少年の足形が残されていた。顔と肩は牡鹿の腹に埋もれており、いつどこから反撃の一撃がくるか目視できない。少年は、槍を下から上に持ち上げるようにさらに突き上げる。やがて心の臓まで到達したのか、牡鹿はしんと動かなくなった。
主人を失った大きな器が、身体を支える力が抜けぐらりと少年の上に落ちてきた。少年はそれを肩で受け、下敷きにならないように慎重に地面に下ろす。下ろす際に下敷きになった右足をよっと抜き出しながら、ふぅと一息つき少年は狩りの終わりを実感した。狩る側とはいえ、十分に命の危険がある。その狩りを無事に終えられたことに安堵していた。顔と手に付いた血糊を水で洗い流し、槍の先端を拭う。動物の血と脂は、研ぎ澄まされた得物をただの鈍らにしてしまう。そのため狩りの終わりには必ず都度手入れを行っていた。
いつの間にか朝日が昇っていた。澄んだ光が少年の姿を照らし出す。伸びた髪は綺麗に後ろでまとめられ、まだ幼さを残した顔つきをしていた。汗に濡れ、キラリと煌めく頬の産毛は、成人男性への成長過程であることを感じさせる。盛り上がった肩と二の腕、引き締まった脚、すらりとした背中のラインは、さながらプロのアスリートを想起させる。身体だけ見ると十分に現代の大人だった。上半身は何も身につけておらず、膝丈まである黒い厚手の布を身につけていた。手にした棒状の鉄は先端は削り取ってあるが、やけに直線的で均等な得物だった。
少年は顔をあげ、朝日に照らされた目の前の大きな建造物を眺める。先端になるにつれ曲線を描くその巨大な建物は、かつて空へ続くような塔だったのだろう。しかし今はその先端は折れ、かつての夕日色の体躯もコケに覆われ、鳥類の巣に成り果てていた。そのかつての栄華を象徴する建造物を眺めながら、少年は遠くの景色に目を移す。やがて、今まで夜の闇に隠れていた街が、朝日に照らされながらその全貌を明らかにした。
ここは東京。幾度にもわたる世界大戦と地球規模の地殻変動にさらされ、絶滅の一途をたどる人類が、かつて最も栄えた巨大都市である。そこは今や、動植物が繁茂する自然の楽園へと回帰していた。人々がかつての現代文明を失い、原始の生活に逆行してからおよそ半世紀。かつての文明を知らない少年は、今日も裸足で街を歩く。