7月「学生たちが語るその文豪」
死神とファーストコンタクトを果たした翌日、私と夏は担当編集者さんの一声で事務所に来ていた。
予想通りと言うべきか、お約束と言うべきか。夏は私以外の人には見えないらしい。
でなければ自動販売機までパシリに行った昨日、警察に事情を聞かれることなく無事に帰って来られる訳がない。
仮に通報されなかったとしても周囲の人に見えたなら「うっわ何だよアイツ、暑苦しい」と好奇の目に晒されていたと思う。
もしもそのどちらかの状況になってしまった時、彼とは他人のフリをしようと決めていたのだが杞憂だったようだ。
何事もなく無事此処まで辿り着くことが出来た。
「あ、霧矢先生ー!!」
そのことにホッと一安心していると、私の自宅警備という重要な任務を邪魔してきた悪の根源、担当編集者さんが現れた。
彼曰く、一度も染めたことのないその髪は日本人の象徴とも言える黒髪ではなく、明るめの茶髪だ。
目はパッチリと大きく、低い身長も相まって幼い印象を感じさせる。所謂童顔というやつだ。
その手のタイプが好みな女性に絶大な人気を博している彼だが、童顔であることを気にしているらしい。からかうと非常面倒くさい事態に陥る。
触らぬ神に祟りなし。
それをモットーに私は彼に接しているので制裁の詳細は分からないが、本当に面倒くさいらしい。肩を震わせ恐々と彼の同僚が話していたのを思い出す。
可愛い顔に似合わず相当エグいことをするのだろうか。
「霧矢先生のことだから面倒くさがって来ないんじゃないかって心配で心配で」
「すみません志賀さん。出来るのなら早く家に帰りたいです」
「あははっ。そんなに面倒なら今度から僕がお迎えに上がりましょうか? もちろんタクシー代は先生持ちで」
「……このドS野郎が」
そんな感じで志賀さんと話していると、「こいつがお前の担当なのか?」と言わんばかりに私の服の裾を夏が引っ張る。
私はこっそり彼の名刺を夏に渡した。
そこには勤めている会社の名前や肩書き。そしてその下に志賀直人と彼の名前が明記されていた。電話番号とメールアドレスまでご丁寧に書かれている。
夏は名刺を確認すると私にそれを返した。
志賀直人。それが私の担当編集者さんの名前である。
とある大物小説家と一字違いだ。
彼によるとそれは偶然で、真っ直ぐで間違いを直すことの出来る素直な人に志賀さんが育って欲しいという願いを込めてご両親が付けた名前だそうだ。
彼の御家族はあまり本に興味がなく、その小説家を知らないとも言っていた。
それなのに初対面の人に「ご両親は志賀直哉さんのファンなんですか?」とよく聞かれてしまい、童顔低身長であることの次に志賀さんは悩んでいるとのこと。
悲しきかな職場が本関係であるから年々尋ねられる回数が増えているらしい。
もういっそのことご両親に志賀直哉の本を読ませ、ファンにしてしまえば良いんじゃないだろうか。
そうすれば説明する手間も省けるし、話題も広がるしで一石二鳥だ。
「編集長ー、会議室C使わせてもらいまーす」
ボーッとそんなことを考えながら志賀さんに付いて行っていると、何人かの編集者とすれ違った。その人達と挨拶を交わし、志賀さんがドアを開けたくれた会議室の中に入る。
社内全体がそうなっているようにその部屋内にもエアコンが効いていて、夏の暑さを忘れてしまうほど涼しかった。
思わず目を細め歓喜する。志賀さんはそんな私の様子を笑うと、椅子を引き座るように促した。
私は促されるままそこに座る。夏も私の右隣に立った。
「それで今日、霧矢先生にわざわざお越しいただいたのは他でもありません。『群青シリーズ』の執筆状況についてお聞きするためです」
志賀さんも私の真向かいの席に着くと先程までのおどけた表情から一転、恐ろしいほど真剣な顔で口を開いた。
「今までは霧矢先生の体調やスランプを心配する声が大きかったのですが、最近は催促の声が以前よりもネット上に書き込まれることが多くなってきました」
志賀さんは立ち上げたパソコンの画面を私に見せる。
そのページは霧矢鈴の公式サイトで、出版情報などを掲載している。更新してくれているのはほとんど志賀さんなので私は気が向いた時にしか見ないのだが。
読者が感想などを書き込める場所には、彼が言うように「群青シリーズ」を早く書けというような文があった。
恐らく志賀さんは、サイトが炎上しないように過激なコメントは幾らか削除している。きっと公式サイト以外のサイトはもっと催促の声が多く出ているのだろう。
「多くなったと言ってもまだ僅かなのは確かです。しかし、このまま7巻の出版が遅くなっては霧矢先生を批判する声がどんどん増えていきます」
当然だと思う。
5年以上も読者を待たせて批判されない訳がない。
小説家は本を書くことだけが仕事ではない。読者を満足させるまでが仕事だと私は思う。「遠足は帰るまでが遠足だ」というのと似ている。
次巻の期待に答えられずにいる私は、小説家として失格だ。私の本を待ってくれている読者がいることだけでも有難い話だと言うのに。
少しでも罪滅ぼしが出来るように他の本を書いていたが、それは自己満足でしかなかったのだ。
「霧矢先生が執筆を疎かにしている訳ではないということは分かっています。僕も出来る限りのサポートをするので一日も早く『群青シリーズ』の7巻が発売されるよう頑張りましょう」
「……はい」
それからは私が昨日送った短編の話をしたり、次の作品の話をしたりして私達は話を終えた。
その間、夏はずっと無言だった。私の隣から動くこともなかった。ただずっとパソコンの画面を見つめるだけだった。
夏が今何を思い、何を感じているのか。それが私にはまったく分からなかった。
数学は壊滅的だったが、国語だけは得意だったのに。物語を読んで登場人物や作者の心情を考えるのが好きだった筈なのに。国語の偏差値だけが異様に高かった当時の私の姿は、そこになかった。
◇◆◇◆◇◆◇
「幻滅しましたか?」
事務所から我がマンションへともと来た道を辿るだけの帰り道、私の斜め後ろを付いて歩く夏に問う。
通行人が少ないとは言えども、誰かに聞かれていたら色々と面倒なので小声で言ったのだが、彼にはきちんと聞こえていたようだ。「は?」と首をかしげられる。
歩みを止め、振り返る。
ちょうどその時、少し強い風が吹き私の肩ほどの長さの黒髪が舞う。夏の外套はピクリともしなかった。
「貴方の憧れていた霧矢鈴は、こんなにもちっぽけな存在なんです。一人一人の読者によって運命が決まる。売れるか、売れないか。その全てを読者に委ね、期待までしてもらっているのに続きが書けない」
私が小説家になれたことは奇跡だと思う。
たった一人の読者に自分の作品を知ってもらい、読んでもらえるその過程までにどれほどの人達にお世話になっただろうか。
志賀さん、両親、大家さん、春樹さん、本屋さん、私の本を面白いと友人などに紹介してくれた読者。数え始めたらきりがない。
彼らに少しでも恩返しが出来るように「群青シリーズ」の7巻を出したい。けれど書けない。
こうしている間にも霧矢鈴の読者が離れていっているかもしれない。それにより売り上げが下がれば、霧矢鈴の運命は終わりを向かえてしまうかもしれない。
「はっ。なーに言ってんだよ、そんなのどの小説家にも共通してることだろ」
夏は立ち止まる私の横をそのまま進む。
幾らか距離が開いた所でようやく私も歩みを再開した。
コツコツと地面と踵を合わせる度に音がなった。もちろん夏の足音は聞こえない。私の背中から伸びる真っ黒な影も彼には見当たらない。
そんな死神の隣を私は歩く。
「太宰治も芥川龍之介も江戸川乱歩も梶井基次郎もみんな読者あってこその小説家だろ。どんな文豪だってな」
夏の声は決して大きなものではなかったけれど、私には確かな響きを持って伝わってきた。
水面に絵の具を落としたみたいにジワジワと私の心に広がっていく。
死神と言えば、彼が来ている外套のような黒のイメージがある。だが夏には “嘘” を知らない純粋な白が似合う。
「一作品の続きを書けないお前は確かに小説家失格なのかもしれない。……けどそれを決めるのは他でもない読者だ。一人でもお前を小説家だと認めている奴がいるなら本を書き続けるのがお前の仕事だろ」
「私を認めてくれる人はいるんでしょうか?」
彼が人間として生きていた頃は、一体夏はどんな人だったのだろうか。今のように “白” の塊の如く汚れを知らない存在だったのだろうか。
「俺は霧矢鈴の永遠の読者だ。だからお前にはずっと本を書き続けて欲しいと思うよ」
こんなにも優しい言葉を吐くことの出来る彼の人としての姿が見てみたい。
そう、強く思った。
それからのことはよく覚えていない。
いつの間にかマンションに着いていて、時刻はお昼を2時間ほど過ぎた時刻となっていた。事務所に行ったのが9時頃だったことを考えると、常々時間の経ち方に疑問を感じる。
夏は帰った途端テレビを見始めた。昨日からずっと見ている気がするのだが、そんなに面白い番組があるのだうか。
私はというと、外出着からラフな格好へと着替え昼食となる冷凍パスタを電子レンジで温めていた。
赤外線を当てられながら、ぐるぐると回り続ける皿を意味もなく眺める。
そう言えば「群青シリーズ」の主人公もいつもこんな風に忙しく走り回っていたなと思い出す。6巻ではその場面が特に多く、次巻は大人しくさせようと心に決めた。
だから7巻の主人公は____。
「ん? 急にどうしたんだ?」
突然キッチンから飛び出してきて、机に向かいパソコンを起動させる私を見て夏が尋ねる。
私は興奮気味に答えた。
「何だか『群青シリーズ』の続きが書けそうな気がするんですよ!!」
彼が目を開く。
その反応に私は思わず笑みが溢れる。
5年以上も待たされた作品が遂に完結するかもしれない。そのことは夏にどんな心情を抱かせるのだろうか。
パソコンなどの準備が完了した。私はストップウォッチのスタートボタンを押し、執筆を始めた。
画面に文字を入力していく。たまにタイピングを間違え、入力し直していく作業がもどかしい。
もっと早く。もっと、もっと。早く書きたい。
電子レンジがピーッピーッと鳴っていることにも気付かず、私は書き続けた。
そうして、せっかく温めたパスタもすっかり冷めてしまった頃、私は原稿の保存し執筆を終了させた。
夏もそれが分かったのだろう此方に近寄ってきた。
「ど、どうだ?」
何に対して緊張しているのか、彼が声を裏返らせながら聞いてきた。
5年以上も読者たちを待たせた「群青シリーズ」の最終巻。何度も続きを書こうとした。だけど書けなかった。
いつもなら机に向かえばすぐに手が動くのに「群青シリーズ」の執筆をする時だけ小説家としての力が全て奪われてしまったように微動だにしなかった。
その度に私は自分に苛立ち、絶望した。その悲しみをぶつけるように他の作品を書けば色々な賞をもらった。素直に喜べたら良かったのだが、私には虚しさしか残らなかった。
デビュー作として誕生した「群青シリーズ」。それを全7巻も出版させることが決定したのは沢山の読者のおかげだ。
何の後ろ楯もない新人作家がここまで成長することが出来るなんて思いもしなかった。志賀さんから次回作の話をいただいた時は我が耳を疑った。
そんな風に沢山の人から期待してもらっていたのに書けない。
ただただ読者に申し訳なかった。
それが今日、ついに……。
「完結したのか!?」
「はい、ようやく完結しました」
夏が両腕を高く上げる。ガッツポーズだ。
彼は自分のことのように喜んでくれている。本当に死神とは思えないほど純粋で優しい。
「と言いたい所なんですが」
「え?」
「やっぱり書けなくて。違う作品を生み出しちゃいました」
その優しさを踏みにじるようで悪いのだが、残念ながら「群青シリーズ」を完結させることは叶わなかった。
恐る恐る彼の表情を見れば、茫然自失といった様子で私を見ていた。
最初の数十分ほどは「群青シリーズ」を書いていたように思う。
しかし「これでは面白くならない」だとか「登場人物の性格上、この展開は可笑しい」などと考えている内にまったく違うものとなっていた。
自分でもどうしてこうなったのか分からない。
「すみません。『群青シリーズ』の完結はまだ先になりそうです」
ガンッと夏が、先程まで執筆に使用していた私の机に額をぶつける音が鈍く響いた。
まだ続きます(笑)