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仕草

作者: 松木南天

初めて彼と話したのは、彼を見かけるようになってから結構な時間を置いた後だった。わたしが当時毎日のように通っていた酒場へ、彼が恐らく友人であろう男に連れられて来たのを見かけたのが彼を認識した最初だった。どうにも酒場に似合わない男だな、と思ったのをよく覚えている。彼はいつもどこかカチッとした雰囲気を漂わせていて、真面目な男なんだろうと容易に想像が出来た。なんとなくどこかで見たことがあったような気もしたが、彼は別段目立つところがあったわけでもなかったのでただの気のせいだと思っていた。それ以来彼はふらりとその酒場を訪れて、一人で飲むこともあれば、友人と議論しながら飲んでいることもあった。彼はいつも帽子を被っていて、酒場の入り口で店主に挨拶しながら帽子を脱いで、奥の方の席に座るのが常だった。

当時のわたしは家族と仲が悪く、そこら辺を遊びまわりながら、絵のモデルや日雇いの仕事なんかをしていた。家に帰るのが嫌だったわたしは、碌に酒なんか飲めやしないのに酒場に入り浸って時間を潰していた。酒場に行くと初めにアルコールと呼べるかどうかも怪しいものを一杯だけ頼んで、それにほとんど手をつけないまままわりの人と雑談をしながら過ごしていた。女一人で酒場にいても、なんとなくみんなわたしの面倒臭い気性を察するのか、誰かと深い仲になるということもなかった。わたしはいつもカウンター席の店の奥側の端に座っていた。そうして時々、この酒場に似合わない彼のことを盗み見ていた。普段、わたしが生活している中ではまず関わることのない、わたしと真逆の、ちゃんとした人なんだろうな、と嫉妬と憧れの入り混じった感情を彼に対して抱いていた。

彼が酒場に来るようになってから暫く経ち、ふと彼の方を見やると、彼もこちらを見ていたのか、それとも視線に気づいたのか、お互いの視線が交わった。わたしは少しの気恥ずかしさと動揺で、顔が赤くなるのを感じた。しかしこのまま目をそらしたのではなんとなく決まりが悪いように感じて、彼に向かって軽く微笑みかけた。彼は少しそれに驚いたようにし、席を立つとこちらに向かって来た。

彼はなんと話しかけたらいいのか少し迷っているようだった。

「いつも、ここに座っていますね。」

わたしは彼が想像した通り真面目な男なんだろうな、と察し、なんだか気分がよくなった。

「ええ、わたしの特等席よ。あなたのことだって、ようく見えるわ。」

彼はなんと答えたらいいか少し迷って、結局、柔らかく笑うだけにとどめた。

「わたし、なんだかあなたと会ったことがあるような気がするの。気のせいかしら。」

彼は少しばつが悪そうに、

「実は、貴女をモデルに絵を描いたことがあります。いつだったか、サークルに絵のモデルとして来たことがあったでしょう。」

わたしはそれでやっと長いこと抱えていた既視感についての答えを得た。

「あら、そうだったの。こうやってまた会うなんて偶然ね。」

そう言うと彼は決まり悪そうに、

「実は、その、偶然ではないんです。貴女をここで見かけたと友人に聞いて、本当はもっと、早く声を掛けようとおもったんです。でも、なかなか決心がつかなくて。」

と言った。そんなこと言わなければいいのに、馬鹿正直な人だ。

「なら、今日は決心がついたのね。」

「ええ、実は、近々日本を離れるのです。」

わたしは予想外の答えに面食らって、まあ、すごいのね、としか言えなかった。

「絵の勉強をしに行くのです。それで、貴女にお願いがあるのです。」

「何がお望みなの?」

「貴女の、その、髪を掻き上げる仕草を買いたいのです。」

わたしはまた驚いて、なんと返せばいいかわからなかった。彼はいたって真面目でふざけている様子は少しもなかった。

「それってどういうこと?」

「貴女のその仕草が買いたいのです。別に貴女に何をしろというわけではないのです。ただ、僕が貴女の仕草を買ったという事実が欲しいのです。」

お金もそんなに多くはありませんがお渡しします、という彼は真剣でなんだかよくわからないけど、協力してあげたいな、と思った。

「別にいいわ。これから先、髪を掻き上げられなくなるわけでもないし。でも、なんでそんなことを思いついたの?」

彼は視線を下に落として、気まずそうに

「こういうふうに言えば、もしかしたら、これから髪を掻き上げるときに、僕のことを思い出してくれるのじゃないかと思ったんです。」

と答えた。わたしはもっと形に残るものを求めればいいのに、と思いながら、なんだか彼が可愛く思えてきた。

「そうね、そうかもしれないわ。そしたらわたしは毎日あなたを思い出すことになるのね。」

笑いながら言うと、彼は少し動揺したように視線を彷徨わせて赤くなった。

「ねえ、日本にはいつ帰ってくるつもりなの?」

「わからないけれど、ニ、三年後くらいには。」

「ねえ、そしたらお金はいらないから、立派な画家になって帰ってきてちょうだい。それで、わたしの絵を描いて。うんと立派なやつよ。美術館に飾られるくらい!」

彼はちょっと驚いたような顔をすると、すぐに笑って、

「これは高い買い物したなあ。」

と言った。

「当たり前よ、わたしは安くないわ。」

そう言うと彼は笑みを深くした。

その後、彼の家まで送るという申し出を受け、二人で店をでた。なんだか久々に気分が良かった。

「ねえ、どこへ勉強しに行くの?」

「フランスだよ。」

「フランス!ずいぶん遠いのね。」

彼は微笑みながら、そうだね、とても遠いところだ、と噛み締めるように呟いた。

「ねえ!手紙を送ってちょうだいよ。絵葉書がいいわ。わたし、きっと一生フランスなんていかないもの。」

「ああ、そしたら綺麗な絵葉書を選ぶよ」

彼は歩いてる間中、とても綺麗に笑っていた。


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