4.護持天使は遥か高空に
メインモニター画面には、バスティア王国の航空写真が映っていた。左上に東和歴90年、と表示されている。
左側の壁一面を埋める無数のサブモニターには、砂漠の風景とオシログラフの波形が映し出されている。
砂漠の一点に、高熱を示す紅い光が空から落ちたかと思うと、電磁波による力場らしく映像モニターの全てにノイズが生じた。後を追う10秒、スローモーションでメインモニターに映る地表に巨大な紅い光の半球が形成され――それは大気圏内核爆発の光景に似て、紅黒いきのこ雲を上げながら周囲に同心円状の衝撃波を発した。爆心地から7km圏内のカメラは衝撃波と100mの風速でブラックアウトして、その外側のわずかなカメラだけが「紅雷現象」の映像を送っている。
ラミアはモニターを見ないまま、カメラに併設されていた観測機がもたらした地表データをチェックしていた。
「あれ? ライカ、特異点発生時の15kmのデータって2ヶ所だけしかないの?」
「申し訳ありません、その時は観測の外周地点が10km設定でした。私にも入力されてませんから、多分録ってないんじゃないですかね?」
「そう」
「私がこの時もう稼働してれば、観測範囲を20kmくらいにしておいたんですけどねえ」
「20kmくらいにしておいた? ねえ、AIのどこをどう押すとそういう言葉が出てくるの?」
ラミアは軽く肩をすくめた。
☆
超高高度軌道周回衛星・ユティエスの乗員は今はもう、ラミアひとりだけだ。
去年、ワグナムのおじいは亡くなった。簡易な宇宙葬を行って2番グリッドから射出したから、今もこの星を見守る周回軌道に乗っているはずだ。長い間心臓を患っていて、本来だったらユティエスの乗員になれるわけがなかったが、責任者であるという理由だけで強引にユティエスに乗り込んだのだった。
電離物性変化の草分けのひとりだったおじいは、50年前に師匠のイブナー博士が起こした事件のために、6年間公職をパージされた後、電離物性変化を専門にしない約束で復帰を赦された。
もともと電離物性変化には、宇宙からの照射や無重力下の実験も含まれていたから、宇宙工学にも詳しかったワグナムは専門をそちらに移した。それからずっと、雷流圏観測とシャトルの安全性を高める金属工学の研究に従事してきたのだった。
本来はワグナムへの禁止事項にかかる可能性の高い、ユティエスの稼働システムの改善にも時間を割いていたが、衛星のもたらすメリットを天秤に乗せた結果、そちらは言うなれば「見逃されてきた」のだろう。
――雷流圏のために、空を飛ぶものは烈しい落雷を受ける確率が非常に高く、東和歴50年代の航空機開発の初期段階において、落雷による墜落事故が連続した。ために航空機は発達しなかったが、帯電しない流体金属をコーティングすることでシャトルだけ成立し、宇宙工学の基礎はその頃に築かれたのだ。
流体金属の制作費用が莫大過ぎて宇宙開発しか捻出できなかったこと、またそれを作る方法を公開しても、その精錬が余りに職人仕事だったせいで大量生産がきかなかったこと、結果、今では航空機は博物館でしか見られないものになっている。
ワグナムの研究で危険性もコストも昔の半分以下になり、それでも他の分野に転化がきくような技術ではなかったが、航空機開発を再開した企業が出始めたと聞いた。
初めてラミアが国家科学省に出向いた時の話だ。
州境近くの大学で行われた試験に合格し、今日呼ばれるってことは辞令ってことなのかな? と緊張しながら出向くと、無愛想な科学省の役人が宇宙開発技術局の局次長に取次いでくれた。局次長は、白衣を着て白髪で白いモサモサな口髭とあごひげを生やした人物だった。とりあえず優しそうで安心したが、彼がワグナム教授だと紹介されると緊張がぶり返した。
曰く、百年に一人の天才。電離物性変化理論の完成者。シャトル工学を二百年進めた。金属工学で発見した理論の数々や無機物化学の巨人、などなど――真に尊敬するに値するのは、老境に差しかかってもなお、自ら実験を繰り返しデータを更新していることだ。そもそもラミアが勉強してきたテキストが、半分くらいワグナムの著書だった。
役人が去り、緊張するラミアを座らせてワグナムは紅茶を勧めてくれた。緊張が解けるまでのしばらくの間、ラミアの身の上を質問したり、自分の失敗談を語って笑わせてくれた。
そして、同じような優しい調子で、ワグナム教授は、助けてくれないか、と言った。やり残したことがある、と。
「まだ幼いとさえ言える君を巻き込むのは、慙愧に堪えん。が、適性検査も知能テストも感情制御も、『マザー・ダッチ』は君を指名した。私もこのふた月、陰から君を見てきて……別の意味でも確信した」
ワグナムは苦渋に満ちた表情でそう言った。
「本来であれば、それはレダ・オルカチームの中から選ぶはずだった。しかし、彼女らがもはやできない以上、誰かの助けを借りるしかない」
――彼が手塩にかけて育てた弟子たち、ユティエスに常駐していたレダ・オルカのチームは、前年の太陽風が瞬間的に吹き荒れる不幸な事故で、ひとりを除いてメンバーが全滅した。レダは死ななくて済んだが、酸素不足のために脳障害を起こして中央病院に入院したままだ。オルカやムールは、事故の時の形のままデブリの海に飲み込まれてしまったろう。
ラミアにはよくわからなかったが、ワグナムが本気なのだけはよくわかった。
「何をするのでしょうか」
「私と共にユティエスに上がる。設立当初から行われている無重力下の電離物性変化実験だ。私はアマトティハトの緑化を諦めていないのだよ」
電離物性変化は毀誉褒貶が激しい分野だった。理論はともかく実験は危険視されていて、今は研究分野にする人間はあまりいない。
「そして……ユティエスの最終制御」
「最終制御?」
「そう……今の国の状況を鑑みるに、恐らく還れない。誰も助けには来ない……つまり、『遭難』しに行くのだ」
ワグナムはゆっくりと、ひと言ひと言区切るように吐き出した。
「……そうですか」
ラミアはうなずいた。
うなずきながら、不思議な気分だった。
部屋の色調はダークブラウン、あるものと言えば、簡素な応接セットとキャビネットファイルがふたつ、両袖の広いスチール机、低い背もたれの椅子。唯一の飾り気のある写真立てが端末と一緒に机の上に置いてある。局次長にしては驚くほど質素な部屋。
――いつからか私は、この部屋でこの申し出を受けることになっていたような気がする。そしてこの部屋で自分は喜ぶのだ。自分が誰かの役に立てることを知って。
ラミアは自分の中を覗き込んだ。確認するよりも早く、自分の中に恐怖よりアマトティハトの緑化に関われる喜びのほうが大きいのがわかった。
自分は必要とされている。
誰かの役に立てる。
それは予想していたよりもずっと、身体が震えるほどの喜びだった。
「わかりました。いつでしょうか?」
ワグナムは驚いたようにラミアを見た。そして満足そうに、わずかに悲しそうに言った。
「すぐにでも。遅くても3週後に」
そうして、ラミアは国家科学省所属だが、公的な名簿には存在しないことになっている。
ユティエスは、電離物性変化実験のための衛星となっているが、裏の顔は違う。電離物性変化それ自体をもたらす衛星だ。個人が動かせるものであってはいけない、計り知れない巨大な力を持つ宇宙ステーション。
ユティエス――古ランディア神話で雷の女神の名だ。巨大な力を持ち、常に鉄槌と盾を持つ姿で現される。
だが、彼女は同時に恵みの雨をもたらす女神でもある。
そうであればいい。
ラミアはワグナムの遺志を継いで、恵みの雨をもたらすための努力をし続ける。
☆
「ライカ、『紅雷』を最初から20年分見せて」
「チェックポイントは設けますか?」
「うん。エリアBだけでいい。B12から28まで」
「わかりました」
メインモニターにバスティア王国の南西部の砂漠が映る。超高密度のエネルギー集束体が照射され、先ほどの爆発がプレイバックされる。各チェックポイントに、ラミアは自分の計算した元素変換シミュレーションの値を重ねて表示した。
「『紅雷現象』は、50年前に一度だけ起きた雷流圏の電磁災害です。それまでも天候が不安定な地域で小さな落雷被害は多くありましたが、これほどの、しかも収束した電磁エネルギーが地表に落ちたことはありません」
ライカが、サブモニターのひとつに当時の報道記録を出した。「雷流圏による大災害」「マエナス州緊急事態宣言」の文字が躍る。
メインモニター上では、左上の東和歴年代のカウントが1年足され、爆発の跡のバタフライ・クレーターになった砂漠が見える。周囲からキラキラと浮き上がって見えるのは砂が高熱でガラス化した跡だ。
「『紅雷現象』の被害者は公式記録では3,080名。雷流圏災害では史上最大の惨事です」
ラミアは無表情に聞いている。
メインモニターの中では、2年目以降クレーター周辺から徐々に緑が広がっていき、サブモニターにはバスティア王国各地の風景、砂漠に緑が増え、農業生産が豊かになっていく様子がグラフと共に映し出されていく。
「電離物性変化、ね」
「はい」
サブモニターのひとつに、化学組成式と電磁波の波長を表す図式が表示される。
「特殊な波長の電磁波の力場によって、単原子分子を電気的に結合あるいは分解し、ポリペプチドに再構成させる。かつて原始の海で起こったかもしれない現象です。それまでは理論に過ぎませんでしたが、幸か不幸か『紅雷現象』によって証明されました。まさに怪我の功名、人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとし、と言うヤツですね」
「……AIのくせに……」
「はっはっは、何せワグナム教授に仕込まれましたからね。人間であるあなたより口数が多いというのもAIとしては希少価値がありましょう? まあ、沈黙は金と申しますから、私も時には沈黙を大事にしようと決心するのですが、しょせんプログラムですから」
ラミアはメインモニターの下、緑色のランプとスピーカーを見上げてため息をついた。
ランプを片目に見立てて、マジックでイタチのようなネズミのような動物が落書きされている。ワグナムのいたずらだった――ちなみに、ライカとは女神ユティエスが騎乗する獣の名だ。いたずら好きで時々文字通りの雷を落とされている。
モニターの中では東和歴98年まで進み、かつての砂漠は、西側のマエナス州の外周を残してすべて緑化していた。この時期がバスティア中興の時代と言われる。
しかし、99年になるとクレーターの中心にぽつんと白い点が現れ、ゆっくりと広がり始め、110年にはクレーターの外周部を超えて白い円が広がっていた。
「『鎖蝕』ってこの頃にはもうこんなに広がってたのね」
「ハクスロッド結晶体と呼ばれるアマトティハトは西部を中心に侵食を拡大し、砂漠の拡大のスピードと比較にならない速さで進んでいます。王国全土を飲み込むのもそれほど遠い未来ではないでしょう」
電離物性変化はいっときの豊穣をもたらしたが、それは時限爆弾かウィルスのようなもので、ほとんど12年で緑化された土地の中心部を不毛の大地に塗り替えた。虫さえ生きていられない過酷な土地。
ラミアが止めなかったため、モニターは進んで東和歴140年、現在の映像になった。
アマトティハトは既にマエナス州をすべて白く変え、穀倉地帯のヨクイロとトベラのほとんど、さらに王都を擁するエナリム州の西側を侵食していた。
「観測モニターが特異点に対して円環状に設置済であったこと、広範囲の電磁災害の割には、砂漠退避による住民隔離が進んでいたため死亡者が比較的少ないことを考えあわせますと、『紅雷現象』は人為的なものと推察されます。推論正当度99.6%」
そうね、とラミアは思った。
AI開発が一定の成果を見せたのが20年ほど前。
レダ・オルカチームの前の前の代、すなわちワグナムが前に上がった時に、ユティエスの管制コンピューターにライカというAIを組み込んだ。ライカが知らないのも無理はない。
「であれば、『鎖蝕』は電離物性変化による二段階の変化を予想できなかったために生じた人災と言えましょう」
「………ライカ、人災っていう言い方はやめて。誰が世界をこんなにしようと思うの」
ラミアの声には抑えきれない怒りがこもり、ライカは沈黙した。
モニターに作業終了のアイコンがフラッシュした。同時にブザーが鳴る。
この1年、ラミアは無重力下の電離物性変化実験で、アマトティハトを構成するハクスロッド結晶体と常温下で炭素結合ができるタンパク質を作り出そうとしていた。
実験室の中に鎮座する電離合成チェンバー(通称「レンジ」)、高圧力電子制御補正機(通称「窯」)、ラミアは窯に近寄ると傍らにパスコードを打ち込む。コンプレッサーの音がして分厚いドアが開いた。金属の皿の中には掌に載るくらいの赤褐色の粉末がある。
ラミアは手袋をして、まだ熱を持っているそれを専用カプセルに入れ、ラべリングした。
「完成……NO.9926、と」
「ありがとうございます。それではアーカイブにお願いします」
何事もなかったかのようなライカの声がして、ラミアは顔をしかめた。ちょっとしたすれ違いはいつものこと。ライカはAIだから怒ったりすることはない。アーカイブに歩き出すと自動でドアが開いた。
ここには、サンプルカプセルが文字通り9926個ある。時々途切れながらも50年分だ。
「ライカ、解析を」
「お任せください」
ここでの解析データはイソラに送られて、日常的なことから重金属の分野まで役立てられている。電子時計や冶金の分野や車のラジエーターまで、王国全土で使われている技術の1/3は、ここでの実験が基だと言っていい。
この1年は残念ながら不発ばかりだろう。自分がかなり突っ込んだ実験に特化してるから。
ラミアはちょっと笑った。
アーカイブを出て外側の通路を歩きながら、強化ガラスの向こうにある眼下の星をラミアは見下ろした。通路の片側には強化ガラスがはめこまれ、星全体が一望できる――実は長大な高精細のモニターだ。ユティエスには窓というものはなく、全て外殻に取り付けられたカメラとセンサーで維持作業は進む。
手間をかけて風景を見せたかったのがなぜなのか、ラミアはここにきて1週間ほどでわかった。モニターの中で見る星では「足らない」のだ。通路の手すりにもたれかかって、実際の距離よりずっと近い海と大陸を見てようやく「足りる」。
当時、設計チームが嫌がるのを押し切って、研究チームがユティエスにたったひとつだけ出した要望がこれ――要望した人は、イブナー博士だった。
「おじいは――ワグナム教授は実験ばっかりで嫌にならなかったのかな?」
「さあ、でも、あの人のことですから……」
ライカは含み笑いをする。
「『夢見ることは科学の第一歩だ!』って言って笑ってるか」
「ええ」
ラミアは長く伸ばした髪を指先でもてあそびながら、ふと立ち止まった。
眼下の中心点に見える、白が広がりつつあるあの辺りがバスティア王国だ。
「アマトティハトを普通の土に戻す物質――それができなければ、未来はない」
「はい」
ラミアはポケットから写真を取り出した。シルバ院長が焼いてくれたものだ。肌身離さず持っている。背景にはカンナ湖と緑が広がり、シエラはアルクを小突きながら笑っていて、アルクは仏頂面で写り込み、ラミアは真ん中で笑っている。
「シエラ……アルク……」
ラミアは呟いた。
苛酷な使命を背負わせることにおじいは敏感だった。ラミアが沈んでいるとあの手この手で、そしてさりげなく笑わせてくれた。
でも、もうラミアは「遭難するため」に来てしまったのだ、と思っていた。
やがておじいは見守ったまま、気遣いをしたまま、取り立てて笑わせるようなことをしなくなった。そういう意味でも、ラミアはおじいに本当に感謝している。
天才なのに、人の心がわかる。天才はムリだとしても、ラミアはそうなりたいと思う。
彼女はもう一度、眼下のバスティアを見つめた。
白く侵食されている、彼女がいつか還る場所。誰もが還るべき、あの美しい故郷。
たとえ、この身のまま還れる可能性がほとんどなくても。
――だからなのか、よくふたりから泣き虫だと言われていた彼女は、ここに来てからは泣いたことがない。