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3.祈りは想いを超えず

 ピックアップトラックは子供たちの手前にゆっくりと止まった。

 歓声を上げて子供たちが群がる。彼らは遊んでくれる人間に敏感だ。疲れている時でも嫌な顔を見せないリオは、子供たちにとって理想的なお兄さんなのだ。

 リオは訳知り顔で運転席を降りると、歓声をしずめるように両手を鷹揚おうように振った。

 「よおしよし、わかったわかった。見ろ、今日は大漁だ! 荷台いっぱいの食い物だ! アルクお兄さんとシエラお姉さんに敬礼!」

 子供たちがふたりを向いて敬礼の真似ごとをする。

 アルクはあらぬ方向を見て歩き出し、シエラは笑って軽く手を振った。

 リオは敬礼を解いて叫んだ。

 「よし、野郎ども! 荷物を運べ! バケツリレー体制よおし!」

 子供たちが唱和しょうわする。

 「バケツリレー体制よおし!」

 すぐに子供たちのリーダーと思しき少年が位置を決めて、見る間に倉庫までの全長50mほどのラインができる。リーダーは最も苦労する最後に走った。

 反乱軍では子供を軍事行動に投入しない。だからリオは銃や弾薬を別して触らせないが、物資を運ぶ日常の仕事は子供たちの出番、遠慮なく使う。


 いつかリオが言った。

 「子供たちは子供たちなりに考えるもんなんだよ。どうしたらより役立てるようになるか。食糧が十分じゃないことを知ってるから、見ろよ、あの子なんかさ、本当に大事そうだろ?」

 リオの指差す方向には、小さな子が荷物を大事そうに両腕に抱えて、真っ赤な顔をしてよたよた歩いている。

 「小さな子の前後には必ずサブリーダーがつくんだ。よく見ると、みなちょっとずつ距離が違ってる。そんでリーダーは一番長い距離を担当する。スゴイだろ? 俺が言ったのはせいぜい二言三言だぜ? 子供はそうやって成長するんだ」

 リオは楽しそうに笑った。

 ものごころついた頃、「第一次マエナス動乱」で両親を目の前で殺されたリオはでも、王軍を、世界を憎まなかった。

 その代わりに、人を丁寧に見るようになった。

 自分に可能な限りをゆるすために。

 そして、可能な範囲を際限なく広げるために。


 子供たちは歌いながら物資を運び始めた。反乱軍では応援歌になっている歌だ。


 夜のとばりは我を止めない

 月の光は我をいや増し

 つないだ手を握り締め

 幸せ君に届くを願わん


 祈るにはまだ早い

 たたずむにもまだ早い

 漕げ、漕げ、進め

 我らの未来はその先にある


 実は昔の人気TVドラマの主題歌だと知ってるのは、アルクより年かさの人間たちだ。誰かが教えたのだろう、その歌はいつの間にか反乱軍の歌になっていた。アルクもふとした拍子に自分がハミングしてることに気づいて苦笑したりもするが、何だかこの場所に似つかわしい気もして、時々一緒にリズムを取ったりもする。



     ☆



 ――現在の反乱軍の本拠は、元々アルクたちが住んでいた街だ。マエナス、エナリム、ヨクイロの3つの州にまたがる州境近く。

 街の周辺部は今やアマトティハトに侵食されつつあるが、中心部に残る街らしい一角、幾つかの建物に本拠の機能は分散されている。アルクは2度目の鎮圧に出動して、その戦闘のさなか、反乱軍にいるシエラと出会って合流することになるのだが――まさか自分の街に戻ってくることになるとは思わなかった。

 本拠から10分ほど車で走るとカンナ湖に出る。

 もちろん、もう水鳥の多いみどり色の湖など存在せず、一段低い広場に過ぎない。カンナ湖につながる2つの川が3つの州の州境だったが、今はアマトティハトに覆われて州境も判然としなくなった。

 道のすぐ左側、かつての桟橋さんばしの脇にアルクたちの育ったイージス孤児院がある。アマトティハトに侵されて、建物の形は残すものの、もう住める場所ではない。

 シエラが持っている写真は、この湖をバックにシルバ院長が撮ってくれた唯一の写真だった。院長の熱心ではない趣味は写真だったが、ほとんどタッチモニターに切り替わった当時、印画紙はあまり手に入らず、結局残っているのはその写真だけということになる。


 アルクとシエラが本部に状況報告を済ませて出てくると、少女たちが駆け寄ってきて、シエラに飛びつく。

 「シエラ姉ー!」

 シエラは予期していたのか2人ほどぶら下がっても体勢を崩さない。自分より力があるんじゃないかと、アルクは時々思う。

 少女たちは身軽に地面に降り立って、ポケットから缶詰を取り出してシエラに突きつけた。

 「はい! 缶詰!」

 「はいはい。私はいいからちゃんと皆で分けな。食べ盛りなんだから」

 「えー、でも、シエラ姉はもっと食べないとだめだってお母さんが言ってたよ」

 「うちも! シエラ姉はもっと女の子らしくなるために食べないとって!」

 少女たちは缶詰を抱えたまま不服そうにじいっと上目使いに見上げる。

 シエラがされたように後ずさると、少女たちはその分前に進んで缶詰を差し出す。

 アルクは吹き出した。

 確かにシエラは自分と同じような体型だ。厨房ちゅうぼうがたの女性陣がシエラを心配しているのをたまに聞く。

 シエラは一転して冷たい目でアルクを見る。

 「何? なんか言いたいことあんの?」

 「いやないよ? ありませんとも?」

 言いながらアルクは笑いを消せない。

 シエラは気温が下がるほどの冷たい目をしばらくアルクに注いだが、ため息と共に少女たちに向き直って笑いかけた。

 「私は大丈夫だからね。みんなでちゃんと分けるんだよ」

 少女たちはそれでもまだ不満そうに、しぶしぶうなずく。

 少女らが去るのと入れ替わりに、本日の獲物を仕分けている厨房方のおばちゃんが駆け寄ってきて、アルクがいつも手首に巻いている青いバンダナを引っ張り、食糧らしき荷物が入ったかごを押しつけた。

 「はい。これは女先生の分。持ってってやんな」

 「……また俺?」

 「しのごの言わない! アタシの命令はルーロンの命令!」

 「いやでも、ルーロンさんはそんな……」

 「あれ? 命令違反?」

 アルクはわかった、というように手を振って車に歩き出した。ロブクラフさんの研究所はカンナ湖畔の右奥にある。

 シエラは思い出したように付け加えた。

 「アルク、ロブクラフさんに夜の会議があるの言っといて」

 「あいよ」

 「おーい、ちょっと待て。俺も行く」

 リオが物資の入っているコンテナをひとつ抱えて小走りで向かってくる。

 「参謀本部にこれ」

 「わざわざ持っていくのか?」

 「参謀どもは携帯食料好きだかんな。食卓に着くのが犯罪だと思ってんだよ」

 リオはコンテナを抱え直してから小声になった。

 「どうもな、ここら辺もずいぶんアマトティハト化しちゃったからな、移転の計画も本決まりになりそうらしい。ちょっとそのあたり聞いてこようと思って」

 「そうか」

 「西側の防砂壁もダメで、その後ろに植えた防砂林も根付かないとさ」

 「あれって、ロブクラフさんの『現状考えられる最も可能性のある植物』じゃなかったっけ?」

 「んん……難しいみたいだね」

 本部脇に止めてあったバイクにまたがって、キックしようとしていたシエラが振り返った。聞こえてしまったらしい。移転の話題はシエラには鬼門だ。

 「……どういうこと?」

 リオは片目をつぶって肩をすくめた。シエラをこわごわ肩越しに振り返る。

 「私たちがここを守らなくてどうすんの。ラミアだって帰ってくるのはここなんだよ?」

 シエラはリオを正面から睨みつけて、押し殺した声で言った。

 アルクは目をつぶった。

 一瞬駆け抜けるラミアの肖像。シエラと双子なのに、印象は全然重ならない。

 アルクは言いにくそうに口を開いた。

 「……シエラ、あいつは多分、もう死んでる」

 シエラは内容よりむしろ、アルクの抑制よくせいてき声音こわねに表情を硬くした。

 「生きてるわ。大丈夫。必ず生きてる」

 アルクに向き直って挑むように見つめた。

 「俺だって、あいつが死んだなんて思いたくない。でもな」

 「でも?」

 「ラミアが生きていても……」

 シエラはすり足でアルクに踏み込み、モーションなしでアルクの腹に一撃を打ち込んだ。予想していたよりキツいのを喰らって、アルクは2、3歩後ずさった。

 「私には生きてるとわかる。双子だからね。必ず私が迎えに行くの。そういうこと言わないで。お願い」

 シエラは囁くようにそう言うと、再びバイクにまたがった。キック一発でエンジンがかかる。後輪をスライドさせ、そのまま一瞥いちべつもせず、湖への一本道を遠ざかる。

 アルクは顔をしかめて腹をなでると、シエラを見送った。

 ある種の儀式のようなものだ。

 ラミアに生きていてほしいふたりは、相手が強気なら弱気、弱気なら強気、そうやって折れそうな心を互いにつなぎ留めてきたのだった。



     ☆



 ロブクラフさんは、国家科学省に所属していた分子生物学者だ。反乱軍に合流した経緯いきさつは知らない。

 彼女は干上がった湖の右奥で、ビニールハウスに無数のプラントを持ち込んで、アマトティハトと土を運び込んで日々比較実験を繰り返している。何に使うかよくわからない機材を幾つも積み上げて、ちょっとした「要塞」を作り上げている。

 彼女の研究はそのままずばり、「アマトティハトを緑化する研究」だそうだ。曰く、「イソラで緑化研究が差し止めを喰らったのでこちらに来た」とのこと。それは嘘ではないだろうが、鈍いアルクの眼で見ても、もうひとつ理由があると時々思う。

 「メシ、置いとくぞ」

 アルクは声をかけていくつかの包みを脇の机の上に置いた。

 「あー、悪いわね、アルク……」

 研究に没頭するあまり、ぐったりしていたロブクラフが、ちょっと形容しがたい動きで要塞からい出てきた。何か爬虫類ぽいというか、ちょっと人の動きに遠い感じ?

 彼女は目鼻立ちもくっきりとたぶん化粧映えするキレイな人で、長身でスタイルもいいし、受け答えも教養に満ちてるが、どうしてかぞんざいな印象だ。

 今も白衣の胸元が微妙にはだけているのを気にしないままに、コンテナからチョコレートバーを見つけて銀紙をむしり始める。思わず目をそらしたアルクのまぶたに、残念な美人、という形容が浮かんだ。

 「なあ、ロブクラフさん……その『アマトティハトを緑化する物質』てえのはできるもんなのかな?」

 ロブクラフは不服そうにチョコレートバーを頬張る。

 「残念だけどまだ研究中」

 「できるのかよそんなの」

 「……できるかどうかじゃなくて、やるかやらないか。電子顕微鏡もなくて分子計量もできないここで、あと少しまで来てんのよ。アミノ酸は全部L型になったし、ハクスロッド結晶体に取りついて水分を供給する共生細菌も排除されなくなった。あとは、全体の媒介ばいかいになる化合物さえ見つけられれば……」

 わからないことを呟き始めたロブクラフに、アルクは聞こえないようにため息をついた。


 「すみません、ロブクラフさん」

 ビニールハウスの入り口から、長身の青年がゆるやかな空気と共に入ってきた。

 ノエルタは参謀本部の客分だ。

 この国では珍しいアッシュブロンド、瞳も青味がかった灰色で、厨房方のおばさん達曰く「ノエルタさんかい、あれはたぶん王族に縁がある人だね」とのことだったが、確かに、反乱軍の猥雑わいざつな空気の中で周囲を穏やかな気分にさせる稀有けうな青年だ。

 「あら、ノエルタ」

 「ノエルタさん、珍しい」

 ノエルタは微笑んで、

 「散歩がてら湖を回ろうと思ったら、ルーロンに呼び止められてね。伝令です。ルーロンが来てほしいそうです」

 「何かな?」

 ノエルタは首を軽く傾げて肩をすくめた。

 「わかった、ちょっと支度するね」

 ロブクラフは、奥に布を張った申し訳程度の仕切りをかき分けて上着を取り出し、白衣を脱いだ。白衣を軽く畳んで放ろうとしたが、一瞬匂いを嗅ごうとして、アルクとノエルタが見ているのに気づき、何事もなかったように放った。

 ホントにもう、この人は――もうひとつの理由がここにいるのに。

 「君もだよ、アルク」

 ノエルタはアルクの背中に声をかけた。

 「わかった。たぶんそうじゃないかと思ってたんだ」

 「?」

 「今朝、主だった参謀が何人か本部に向かってたから。何か動きがあったみたいだね?」

 ノエルタは嬉しそうに微笑んで、それから表情を引き締めて言った。

 「そうだね。かなり重い展開になりそうだよ」

 「わかった」

 ノエルタはうなずくと、それから思い出したように、

 「そういえば、さっきシエラが難しい顔をして孤児院の前にいたよ。声をかけにくかった感じだけど……また何かあったの?」

 アルクは黙った。

 頻繁に繰り返しているケンカの理由を言ったところで始まらない。

 「まあ、いつものこと」

 「そうか……」

 ロブクラフは、あまり似合わない赤い上着をひっかけて奥から出てきた。

 「ラミアの話をしたの? シエラの泣き所なんだからあまり言っちゃダメだよ?」

 「オレはしてないよ! あいつが勝手に反応してさ……」

 「……アルク、いい? シエラはね、ラミアが生きてるなんて思ってないの。そりゃそうでしょう、こんな時代なんだから。女の子なら、あなたよりもずっとわかってるはずよ?  あの子はね、信じられなくなりそうなのを止めてほしいの。わかる?」

 ロブクラフはじっとアルクを見つめた。彼女は必要以上に人をまっすぐに見る。

 アルクは目をそらした。

 ノエルタは穏やかに微笑んだまま言った。

 「君はリアリストだね。好ましいと思うよ。だから、それほど遠くないうちに、見えるようになるものもあるさ」

 ノエルタという青年は、容貌ようぼうが珍しいだけでなく、決して声を荒げずそのくせいつの間にか人を説得してしまう、反乱軍には珍しい人だ。アルクはそれが少しだけ嬉しくて、そして他の多くの人と同じくノエルタを信頼している。

 ノエルタが悪戯っぽく笑って言った。

 「アルク、反乱軍で主だったものは全員集合だ。分隊長もね? てことはさ……シエラを呼んでこられるのは誰かな?」

 ノエルタとロブクラフが面白そうにアルクを覗き込む。

 「……わかったよもう。子ども扱いしやがって」

 ふたりは今度は声を出して笑った。



     ☆



 イージス孤児院は、正確には廃墟はいきょでさえなかった。アマトティハトは廃墟になる猶予ゆうよを与えない。廃墟になるためにはゆっくりと朽ち果て、腐らなければならないが、白い砂は時間さえ奪う。

 建物はアマトティハト化すると、濃淡のあるグラスハウスのようになる。時々に澄んだ高音を発しながら、やがて構造がもろさに耐えられなくなった時を迎えて、白い砂に還るのだ。そういう意味では、イージス孤児院は相当きちんと造られていた建物だ、とシエラは思う。周囲の建物は既に白い砂になってしまっているのに、ここだけがまだ奇跡的に建物だった名残なごりを残している。


 砂の圧力の怖ろしさは強く言い含められていたが、思い定めて1年ほど前にシエラは内部に入ったことがある――どうしても見ておきたかったから、わずかな時間だけ。

 そこは文字通り「清浄な地」だった。

 誰も見ることができない、誰も見る必要のない。

 かつての礼拝堂、正面上方にシエラの好きだったステンドグラス、その下に一度だけ弾かせてもらったパイプオルガン、弟妹たちが聖歌隊クワイヤー気取りで賛美歌を歌ったピット、跳ね上げ式の樫の木の椅子と皆が祈りを捧げた机――本物の木で作られた調度ちょうどは、気づかないうちに腕や肘や手でゆっくりと静かに擦り切れ、やがてこの世界で見られる最も優美なカーブを描く。

 それらすべてが、透明に光り輝いていた。

 ……シエラは呆然とそれに見入って、あまりの美しさに泣いた。自分たちがどれだけ必要とされていないか、あまりの無慈悲な美しさにシエラは泣いたのだった。


 「またアルクに言っちゃった。私ダメだね……先生」

 孤児院は崩落ほうらくが始まっているからもう内部に入ることはない。シエラはもっぱらシルバ院長の墓にもうでるだけだ。彼女が自分に戻れる場所はもうここしかない。

 「アルクが私を気遣ってわざわざ憎まれ役を買って出てくれてるのはよくわかってるの。でもね、先生……私は家族を失うのは、妹を失うのはもう耐えられないの。わがままだね……」

 シエラは薄く笑った。墓標は何も答えないけれど。


 「いいかみんなー。こいつはアルク、今日から新しい家族だ」

 からからと笑うシルバ院長の脇で、濁った眼で殺気立っていたのがアルクだった。自分もラミアもアルクも、5歳の時だ。

 「いいなアルク、これからはここにいるみんなが家族だ。お前が体を張って守る価値のあるものだ」

 シルバの口癖だった。笑って覗き込むシルバに、アルクは目を伏せたままうなずくこともなかった。


 孤児院に来た当初、アルクは手の付けようがなかった。何にも反応せず、そのくせ他愛たあいもない、縄跳びの順番を後回しにされたり、食事の時からかわれたりすると、ものすごい力で暴れた。誰かの前歯を折って、その歯を拳に突き刺したまま他の子を殴りつけていた。

 そんな時のアルクは、狂犬という形容がふさわしかった、と言うより、そんな形容さえ生ぬるかったと思う。キレたら手が付けられなかった。

 アルクには全てが敵だったのだ。

 シルバ院長さえも例外ではなかった。

 体格なんて関係なくて、すわった目をして一途に殴り掛かかるアルクに、シルバ院長はわざわざ膝まずいて殴らせていた。昔から正義感が強すぎる――とシエラは自分でも思うのだが、さんざんに殴りつけて糸が切れたように気を失ったアルクを、シルバ院長は優しく抱き抱えていて、彼女は面白くなくて文句をつけたことがある。

 「そんな子ほっとけばいいのよ! こないだなんかラミアをぶったし! ほっとけばいいんだから!」

 シルバ院長は少し驚いたようだったが、笑顔になってシエラの頭をでた。

 「シエラ、世の中は不公平だ。どんな時にもね。それをただそうと思うのなら戦うべきだ。だからアルクとケンカしてもいいし、怒ってもいい」

 シルバ院長はシエラの前にかがんで、彼の腕の中で気を失ってもなお荒い息を吐いているアルクを見せた。

 「でも、同時に理解しなさい。アルクがどんな中にいるのかを受け止めてあげられなければ、何の意味もない。ただ戦い、ただ怒るだけでは、いずれ何もかも失ってしまう」

院長は微笑みを絶やさぬまま、

 「家族なんだから」

 といつものように付け足し、少し乱暴に頭を撫でてくれた。

 ――その時にはわからなかったけれど、シルバ院長が言ったことは今でも支えになっている。

 ただ戦うだけでは何もかも失う。

 誰ひとり殺すつもりはないままに、それでも戦い続けることを誓ったのはもう2年以上も前、院長が死ぬのと引き換えだった。


 半年もしないうちに、アルクは誰も殴らなくなり、引きつった笑顔を見せるようになり、ゆっくりと普通の子になり、やがて家族思いの男の子になった。優しいラミアは、殴られた後も何くれとなく世話を焼いていて、アルクとお似合いだった。

 イージス孤児院でかれた種は、そうして広がっていった。ラミアは院長の慈愛を引き継ぎ、アルクは勇気を引き継いだ。そしてたぶん自分は責任を引き継いだのだ、と思う。


 「シエラ?」

 唐突に引き戻されて、シエラは首を振った。アルクの声だ。

 「アルク?」

 「……さっきは悪かったよ。無神経だった」

 「別に怒ってないよ。謝らなくていい」

 アルクは2、3歩ほど歩み寄って、墓標の横に立った。

 「院長が殺された時も助けに行けなかったからな……俺は―――」

 「それはアルクのせいじゃないよ。気にしなくていい」

 シエラは穏やかに言った。

 「私が必要以上に反応するのが悪いの。それはわかってる」

 「シエラ……」

 「この話は終わり。ね?」

 アルクは目を細めてうなずいて、それから思い直したように言った。

 「ルーロンさんが呼んでる。全員集合だ」

 シエラは素早く立ち上がった。既に分隊長の顔に変わっている。

 「……そう。何かあると思ってたけど、やっぱり」

 「本拠が探知されたのかな?」

 「それはないと思う。ここは『鎖蝕』の中みたいなところだし、恐らく王軍か王都の動きに関係あるんでしょう」

 「いずれにしても、次は総力戦か」

 「うん」

 アルクもシエラも孤児院を見つめたまま、それ以上何も言わなかった。




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