2.謀の何を以てか止むを得ん
バスティア王国――。
かつて、この地方には古ランディア王国があり、大テレンス王の時代に諸国の統一を見たが、その子小テレンスの時代に王国は三つに別れた。今も北方の大国として存在するヌミディア連合国、中部に位置するバスティア王国、そして今はもう無い、バスティアの西方の砂漠地帯以西を治めていたローラン王国。
大陸の東側はカラ=トゥルム山脈とジグリ山脈に閉ざされ、バスティアの王都エグリーダ(東の泉の意)北方10kmほどに山脈の合間を縫って海とつながるソレント峠がある。かつてテレンス王が開いた海上貿易の唯一の狭隘な拠点である。
ヌミディアの首都スロブ(花咲ける土地の意)は、大陸内の事物がほとんど集まる有数の都市だが、他大陸との貿易を考えると、不凍港にして唯一の貿易拠点となるソレント峠を押さえることが、彼らにとって興国の唯一にして最大の課題であった。
結果、東和歴70年代のヌミディアとバスティアは、カラ=トゥルム山脈のテンシャン会戦を初め、グーグ湖畔歴戦、首都に迫るヌーム・エグリーダの戦いなど、戦乱の歴史を重ねてきた。東和歴120年代に至って、ラガスタ=アーテゥルスラインが引かれてからは国境が定まったと言えるが、その後も国境付近の小競り合いは絶えなかった。
そして東和歴140年の今。
バスティア王国は亡国の危機にさらされていた。
既にバスティア王国の5つの州のうち3つまでが、ほとんど白い砂に埋もれていた。穀倉地帯が「鎖蝕」に侵され、作付高は5年前の半分まで落ち込み、穀物輸出国だったバスティアの自給率は60%を切った。
「鎖蝕」の侵攻は砂漠化のスピードの比ではなく、1年で30km以上進んでしまう。砂漠さえも食いつぶし、防砂隔壁さえも猶予を保てないアマトティハトを止める有効な手段など、国中の学者の頭脳を結集しても見つかることはなかった。
――ただひとつだけ、昔々、50年前の「事故」として位置づけられている大掛かりな電離物性変化の実験以外は。
王都エグリーダも「鎖蝕」に疲弊していた。
首都の公共施設は西側の難民たちの避難所と化していて、横になる空間どころか、足の踏み場もない、もはや避難所とは名ばかりで収容所に等しかった。郊外には収容しきれない難民たちが集まった非合法なキャンプも多く点在している。この5年で首都の人口は倍近くになったが、増えた分は全て希望を失った難民たちだ。
徐々に難民が流入したために拒絶反応は強くはなかったのだが、首都での受け入れ開始直後に反政府主義者や少数のならず者が幾つも事件を起こしたのをきっかけに、治安維持の名目で王軍が装甲車で睥睨することになった。元からの住民たちは、可能な限り両方に関わることを避け、目を伏せて歩いている。
難民たちの大部分は生計の道もなく無気力に陥っていたから、互いへの薄い拒絶と倦怠とがないまぜになった奇妙な緊張が漂う中、王都は表面上は平穏だった。
――だが、平穏であるはずもない。
全ての収容所と難民キャンプ、日なたで階段で大部屋で、しゃがみこんだ彼らの茫漠とした表情、その沈んだ眼の中で確実に不透明な雪が降り積もっているのが見えるはずだ。苦しみと悲しみと怒りと、白い雪と赤い雪とが静かに降り積もっていく。それはいつか雪崩をうつように、全てを押し流す時を待っている。
☆
国家科学省直轄中央研究所・イソラは、本来アマトティハトの研究を行っていることになっている。
そう、「なっている」、のだ。
今はもうアマトティハトの拡大阻止・緑化研究を行っていない。「電離物性変化」が自分の口から発せられたのはいつのことだったろう。カリフは思い出せなかった。
反対する者は誰もいなかった。もう何年も前から、イソラは50年前の「RS計画」を基にした「740計画」を推進している。
「740計画」。
それはアマトティハトを力づくで緑化する計画。「鎖蝕」をより強い暴力で拒絶する方法。それはかつて成功したが、危うい成功だった。そして、失敗したとも言える。
「ワグナム教授……」
思わずつぶやいた自分にカリフは驚いた。
誰も聞いていなかったことを確かめるようにそれとなく見渡す。管制室の部下たちは、自分の執務席から一段低いところに背中を見せて座っている。反応した者はいない。
疲れているのだ。
計画を始めた時から、何かが自分の中で小さな小さな声で囁き始め、プロジェクトの進行に比例して、今では寝ている間も語りかけられ続けているような気分だ。疲れもしよう。しかも、聞こうとするとそれは遠ざかる。何を言っているのか決して自分にはわからない。
カリフは聞こえぬようにため息を吐いた。
「カリフ長官、ユティエスからの定時観測データです」
スタッフのひとりから声がかかり、自分のモニターにデータ転送を告げるアイコンがフラッシュする。ユティエスのメインコンピューターであるライカから、雷流圏のデータが定時に送られてくるのだ。
「ありがとう」
カリフはキーボードを引き寄せファイルを開けた。
ほとんどの部下は視線感知で作業をこなす。PFSを併用するものがたまにいるくらい。時代遅れのタッチモニターを使っている者もわずかにいるが、これはデザインの仕事を長くしているせいだ――ユティエスは人工衛星として破格に巨大で、計画の最後の段階で羽を広げると通常のものの全長の80倍にもなる。規格外のユティエスを扱うにはデザインセンスが必要だと、中央管制コンピューター「マザー・ダッチ」の提言があって、管制室には市井のデザインワークスから来たスタッフが3人ほどいるのだ。
技術の粋を動かすためにデザインセンス……論理ではなく、サイコロの出た目に従うような話だが、彼らの働きに不満足を覚えたことはなかった。不思議なものだ。
そんな中でたったひとり自分だけが、旧世代どころか骨董品に近いキーボードなどというものを使っていることに時々気後れしたが、馴染んだものを簡単には変えられない。変えるつもりもなかった。部下たちが裏で言っているように「型落ち」なのだろう、たぶん。
イソラのメインスクリーンに雷流圏の観測データが表示される。王国内の地表への影響をファイブ・ナインの精度で演算しているのだ。
「ライカは優秀ですね。雷流圏に関してはマザー・ダッチをしのぐんじゃないですかね」
スタッフのひとりが軽口をたたく。
「そうだな」
カリフは気のない返事をして、手元にある50年前の第十五次中間報告と照らし合わせた。大枠で一致している。
ほっとした。
雷流圏は一見カオスに見えるが、小周期では16時間、大周期では大よそで15年程度のサイクルがあることが昔から判明していた。
しかし、年々「鎖蝕」の拡大がスピードアップし、気候変化の幅が広くなったために、日常的には暴れ馬のように刻々と変化するようになった。大周期では14年弱のサイクルに急激に変化していて、しかも歳差運動の影響か、プラスマイナスひと月ほど簡単に変化する。
それが「740計画」を難しくしているのだ。
「RS計画」では観測データと月の満ち欠けだけで狙いを定めることができたが、今回は狙いを定めるだけで大事業だ。6時間単位で変わる目標を、最終フェイズまで8時間かかるユティエスで狙い撃つ。6時間でめまぐるしく移り変わる目標を。
――つまり、博打というわけだ。
カリフは思う。
全国民の将来を天秤の片方に乗せ、もう片方には逃げ水のように遠ざかる「幸せ」が否応なく乗っている。逃げ水を「人知」で捉える可能性が歯噛みするほど少なくとも、自分はやらねばならない――それがワグナム教授のもとを去った理由なのだから。
その可能性を考える時、カリフに小さな声が囁く。それはいつものように何を言っているかわからないままに遠ざかり、カリフは決して追わない。虚空に手を伸ばしたところで掴めるのは虚空だけだ。
「カリフ長官、ナヴァク首相から通信です」
副官が手を止めているカリフを怪訝そうに見ながら遠慮がちに声をかけてきて、カリフは自分がまた考えに沈んでいたことに気づいて軽く頭を振った。
「繋いでくれ」
1級セキュリティ通信のフォーマットに切り替えた。これで周囲1m以遠には自分の話声さえ漏れない。
「カリフ長官、計画の進行は?」
「現在、時限コード発令の最終段階に入っています。開始まであと数時間ほどでしょう」
「結構」
「雷流圏演算にもう少し時間がかかる可能性がありますが、長く見積もっても後5時間、でしょうか」
「そうか……」
「バスティア王国が変わるまでの時間です」
カリフは努めて明るく言った。
「長官、君はよくやってくれた」
ナヴァクもまた努めて明るくしているのだろう。常ならず笑顔だった。
「いえ、そんな」
「あと、もう少しだ。君のおかげだ。感謝する」
ナヴァクは区切るように言って、うなずいてみせた。
「いえ……」
「後を頼む」
唐突に通信は切れた。
ナヴァクはずいぶんと痩せた。頬がこけて、額には苦悩が刻まれている。自分もそうだ。
全て終わったら市街のきれいどころを集めた店に行く約束になっていて、そして言いながら毛ほども信じていない。もう何日も満足な食事がとれていない。身体が受けつけないのだ。もう何日も頭痛が止まらないし、もう何日もろくに眠れていない。
でも――。
賭けなければこの国はダメになるのだ。ヌミディアに併呑されるどころか、それ以前に、人が住めなくなる場所になってしまう。
賭けることが、なぜ悪いのだ。
なぜ悪い。
それしかないのなら、自分の頭を使って戦うしかないのだ。
勝率がどんなに低かろうが、それを100%にするのが自分の仕事だ。
「カリフ長官、雷流圏モデル02、転移しました」
目標は刻々と変化する。
ふふ。
カリフは凄愴な笑みを浮かべた。
それがなんだ。
必ず捉えてみせる、とカリフは思った。この手で捕まえて、50年前の間違いを必ず取り戻してやる、と思った。
☆
ずいぶん後になってからカリフは気づいた。
本当に、ずいぶん後になってから。
カリフの中で囁き続ける声は、最愛の孫になる4歳の少女、ラージャの声だった。
本当は知っていたのだ。囁く内容も。
「みんなが幸せになれればいいね」
その声はそう言っていた。