19.ゆめ忘れることなかれ(承前)
アルクは、サブモニターで実験の推移を注視しているラミアを見ていた。
声をかけようとして、やめた。
初めて見るラミアの真剣な顔に見とれた。
……家を出る前からこっち、いつも大事な話ができないままだ。
礼だって言ってない。
幼いころからずっと、自分を溶け込ませるために、ラミアがどれほどに心を砕いたろう。自分がこうしていられるのもラミアのおかげなのだ。
シエラは元気なお姉さんで、ラミアは優しいお姉さん。ふたりとも、決してわがままを言わず、いつも自分より他の誰かを優先していて、子供たちはそれぞれになついていたものだった。
こんな時にさえ、彼女は自分以外を優先する。今も一心にユティエスの状況と実験の進行を追い続けている。自分とラミアが話せるのは、こんな時しかないんだろう、たぶん。
アルクは何だか可笑しくなって笑った。手袋を取って、ヘルメットを外す。
「……よし! わかった」
ラミアが驚いたようにアルクを見る。
「どうしたの?」
「付き合うよ」
アルクは殊更に明るく言った。
「時間がない中で、俺の力が必要になるハズだ。何がなんでも9927を届けてやろう」
「え……?」
ラミアは一瞬表情を明るくして、すぐにそれが意味することに狼狽した。
「ダメ! ダメだよ! ダメ! 帰ってアルク。ユティエスはもう持たないんだよ」
「そんな時だから必要だろ?」
「だって……アルク……だって」
「大丈夫。ギリギリまで待つだけだ。できないんだったら引きずってでも帰る。ラミア。お前をひとりにはしない……たまにはこういうのもいいだろ」
アルクはラミアに言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「アルク……だって」
ラミアが立ち上がった。
両手を前に出して、今にも泣きそうな顔をしてアルクに歩み寄る。
アルクは右手を伸ばした。
指先が震える。
恐怖ではなかった。
ラミアに触れようとする緊張だ。
カッコ悪いな。
スマートにできないなんてさ。
指先が触れた。
鼓動が高鳴る。
ラミアの指先も震えていた。
そのまま。
しばらくじっとしていた。
指先から、この3年間が伝わっていく気がする。
引き寄せて、手を握りしめた。
ラミアの手は小さくて、ひどく冷たかった。
左手を出してもう一方の手を握る。
そう。
俺なんて、いつだって、かじかんだ手を握りしめるだけしかできない。
ラミアの苦悩もわからない。
覚悟もわからない。
善悪も、正邪もわからない。
因果も、苦楽も、虚実も、左右さえわからない。
俺は未熟で、ひとりで、何も持っていない。
それでも、この手を温めるためならば、俺は全部捨てることができる。
「えー」
ふたりは手をひっこめた。
「いいシーンでした。実に、実に実に実に感動的でした。初めて見せていただきまして、正直メモリーの不可侵領域に記録させていただきたくなるくらいでした。しかしながら業務連絡をする必要がございまして」
ライカが過剰に感動を表した後、遠慮がちに付け加えた。
「言って」
ラミアが必要以上に素っ気なく応える。
申し訳なさそうにライカは続けた。
「シャトルの減速と角度変更のおかげで、墜落まで時間が8分延長されました。9927は墜落5分前に完成できます」
「! ……ライカ、ホント!?」
ラミアが目を見張る。
「はい。シャトルのおかげで、パネルの損傷も最小限に止まりましたので……では続きをどうぞ」
「バカAI!」
ラミアとアルクが真っ赤になって叫んだ。
☆
リゾ支部でも、ナガサキが「チャイルド・ダッチ」の前に座り、ユティエスの通信を聞いていた。少し前にリゾ支部の通信管制は解かれている。
戦闘しないで降伏したためか、当初反乱軍側には王軍に反抗的な眼を向ける者もいたが、ノエルタの放送が流れてからは粛々と指示に従うようになっていた。王軍は半分を残して暴動の鎮圧に向かい、残り半分がリゾ支部内の武装解除を順序良く行っている。
クリードが出る間際に王軍の連隊長に渡りをつけてくれたので、ナガサキはその煩雑な作業に巻き込まれないで済んだ。
少し前に「チャイルド・ダッチ」を本来の機能のひとつ、「マザー・ダッチ」に連結するべくカリフ教授に連絡すると、彼は久しぶりに見るナガサキに驚いてから、柔らかくうなずいて許可した。
ナガサキはクリードとロブクラフから、シミュレーションの続きを依頼されたのだ。
ロブクラフの残したデータを基にして、さらに「マザー・ダッチ」に格納されているユティエスのアーカイヴから、可能性のありそうな組成式を持つサンプルを幾つか取り出し、シミュレーションを演算していた。
結果は、はかばかしいものではなかった。
9926でも、その他のポリペプチドでも、ハクスロッド結晶体に対する拮抗力は小さく、すぐに飽和してしまう。側鎖が少ないのだ。9926がわずかに結晶を分解できたとしても、すぐに大量の結晶に覆われ返してしまう可能性が高い。
ハクスロッド結晶体に対して、タンパク質の構造としてのマルチドメインが、共生細菌のDNAを取り込みながら自動フォールディングを繰り返せるようになることで、アマトティハトは分解し続ける。すなわち、分子量を小さく平準化した9927がどうしても必要なことを、シミュレーションは示唆していた。
ナガサキは「チャイルド・ダッチ」が映像化した、9926の分子モデルを見つめていた。自然界であれば、恐らく作られることがないギリギリ非対称性の美しい構造。
「電離物性変化」が自身の過ちを取り返すために辿りついた場所だった。
そして、その極北に至るひとつは、いままさに墜落しているユティエスで完成しようとしている。
ナガサキは、シミュレーション結果をイソラへ送って、大きく息をついた。
必要なことは何か。
ユティエスの状況はわかった。この後、宇宙ステーションはわずかの時間で熱崩壊を迎える。そのタイミング。
ナガサキは顔を上げた。内部放送で元・反乱軍の大隊長を呼ぶ。砂漠監視隊を廃業した大隊長は帽子を取り、上着を脱いだ姿で現れた。武装解除のためだろう。
ナガサキは彼を見るなり言った。
「すまないが、お願いがある」
反乱軍と王軍の全員を動員する作業をナガサキは指示し、今日は抗弁が許されない命令ばかりの大隊長は眼を白黒させた。
「ナガサキさん、それは……」
「いいから、頼む。とにかく全員で可能な限り速やかに。時間はない。15分で」
「でも、ナガサキさん、これ一体……?」
「ミサイルを発射する」
ナガサキが鋭い眼で言い切った。航空物理学博士の顔になっていた。
☆
「まずいです!」
一転、ライカが大声を上げた。
「どうしたのライカ!」
ラミアが応えるより早く、メインモニターにユティエスの全体図が表示された。下の方、制御棟の先のパネルが点滅している。
「メインの太陽光パネルのひとつが崩壊しました! 電力供給が落ちます。これは、ダメです! ユティエスの機能停止までに、9927が組成できません!」
ライカが悲鳴のような声を挙げた。
☆
イソラの制御室で、その声にカリフが思わず拳を握りしめた。
誰にも動揺を悟らせないように唇を引き結ぶ。
――みたび、希望は潰えるか。
制御室には、全てを失った時の沈黙が支配した。どちらかに振れ続け、振れ返す不安定な興奮が拭い去られたように消え、希望が打ち砕かれた時の安堵にも似たあの沈滞が訪れた。
ともかく、終わった。
彼女らは、我々の指の間からこぼれ落ちてしまった。
積み上げた努力は霧消し、終わりを待つばかりになった。
「……諦めんよ」
カリフの口から言葉が滑り出た。立ち上がって叫ぶ。
「諦めるな! シャトルに通信! 先ほどと同様に、ユティエスの角度を変えられるか再計算しろ!」
スタッフ達が一斉にカリフを見た。
「型落ち」の長官が、全員を見返した。
全員が無言のまま歯を食いしばって、もう一度それぞれのモニターに向き直った。
☆
リオが咳き込むように伝えてきた。
「イソラから、もう一度シャトルで角度変えられないかって! ヤバいのか!?」
ライカが割り込む。ステーション内にも同じ声が響いて、アルクはステレオでライカの声を聞く。
「いえ、これ以上シャトルでは角度変更できません。今の接触箇所では質量が違い過ぎるユティエスをもう動かせないのです。シャトルの自壊を招くだけです」
「そうか……」
アルクはうなずいて、ラミアに歩み寄った。
「ラミア、もう行くぞ。9927はできないんだ。帰ろう」
ラミアは椅子に座ったまま、アルクを見上げて微笑んだ。
「……アルク、ありがとうね……あたしは最後までここにいるよ。9927を射出できる可能性に賭けようと思うの」
「……ラミア! なんでそんな……! もうムリなんだ! もう帰ろう!」
ラミアは黙って首を振り、真顔に戻ってアルクを見つめた。
しん、とした顔だった。
アルクは言葉の接ぎ穂が見つからず、ラミアを黙って見るだけだった。
ふと、ライカが考えに沈んだような低い声音でラミアに呼びかけた。
「……ラミア? 聞きたいことがあります……あなたは怖ろしくないのですか?」
「……何が?」
ラミアは穏やかに応える。
「いえ、自分という個体が失われようというのに、何も防御作用を施さない……なぜでしょうか? 人は自己保存を最優先する生き物であると、私の基礎データに書いてあります」
「……え?」
「レダもオルカもそうでした。助かろうと思えば助かったかもしれないのです。にもかかわらず彼女らは、本ステーションの存続を優先しました……それはいかなる理由によるものでしょうか?」
ラミアは予想もしなかった言葉に微笑んだ。
「……ラミア、笑われるとは心外です。これでも私はAIとして頑張っているわけです。それほどにけなげなAIの真摯な疑問を笑うとは!」
アルクが切羽詰ったような顔でライカを見上げている。
ラミアは笑いを大きくして聞いていた。
……ちょっと面白い。
ありがとうね、ライカ。
「それとも、まさかラミアは諦めているのですか……?」
ラミアは笑いを残したまま首を振った。「違う、ライカ」
「? ……何が違うのでしょう?」
「私はね、どこかでいつもしようがない、と思っていたの。おじいとイブナー博士が賭けた運命のために、私しかできないなら私がやるしかない、て思ってたの」
「はい」
「死ぬのは怖かったけど、だから、しようがない、と思ってた」
「はい」
「……でもね、本当はあたしが辛いんじゃないんだよ」
アルクがラミアを振り向いた。
「あたしは誰かが助けに来てくれることを願ってた」
ラミアはモニターの中にある、自分の還るべき星を指差した。
「でもね、アルクが来てくれてわかったの――違う。あたしは、誰かに助けてもらいたいんじゃなかった。あたしは救助隊なの。あたしたちは『遭難』したんじゃない。あたしたちは、助けられるのを待ってる『遭難者』じゃない。あそこにいる、明日が見えない人たちを救助しにいかなくちゃならないのは、あたしたちのほう」
「ほほう。それはコペルニクス的転回ですね」
「もう、バカ」
ラミアは上目づかいにライカを睨んだ。
「あたしたちは、このまま夜の帳で立ち止まるわけにはいかない。あたしたちが遭難者なんじゃない。あたしは救助隊なの。あたしが助けに行く。きっと届けに行く」
「わかりました――あなたの意志のごとくに」
ライカは力強くそう言った。