18.幾つもの悲しみの果てに
シャトル発射場は戦場のようだった。
怒鳴り声が飛び交い、無数の荷車が行き交っていた。その混乱をまとめているのがクリードだ。彼は現場監督として全体を仕切り、集まってきたイソラ警備隊や、戦闘中止の放送を聞いて戻ってきた反乱軍の面々を捕まえては、次々に準備の仕事を割り振っていた。
クリードは幸いなことに元は弾道弾基地所属の工兵隊長だ。シャトル打ち上げに必要な段取りさえわかれば仕切るのはお手のもの、今も大声で指示しながら、幾つもの現場を同時進行させている。
同時刻。
制御室は無音で戦っていた。
カリフはスタッフに雷流圏観測と予測、ユティエスの想定軌道計算を何十パターンと繰り返させている。シャトルが上がった時点で、最適の速度と方位を取らせるための準備だ。どれが最もシンクロ時間が長くなり、安全に離脱できるか、彼らは文字通り眼を血走らせて自分のモニターを食い入るように見つめている。
時折、「マザー・ダッチ」の警告音が出て、スタッフがひとり頭を抱える。計算が合わないのだ。彼は頭を振ってもう一度最初からやり直す。それを他の誰かがねぎらうこともない。
もともと用意があったとはいえ、膨大な労力をつぎ込まなければならない作業を、わずか2時間で達成しようとしているのだから当然だ。誰もが重い水の中を必死に足掻きながら、息を止めて必死にゴールを目指している。
アルクとリオは、軽圧耐熱服を着込んでブリーフィングルームで待機していた。時間は刻々と過ぎていく。既に打ち上げ準備が始まって1時間以上、リオはいらいらと歩き回っていたが、アルクは両目を閉じて瞑想していた。
気が遠くなるような一日がようやく終わろうとしている。
集落をひとつ救おうとして、イソラを破壊しようとして、ラミアに出会って、カザトと二度も戦った。めったにない一日、というか、頻繁にあるとは思えない一日だった。
そして、最後は宇宙に飛び出すことになる。
アルクは微笑んだ。
上出来だ。自分の手でラミアを助けられるのなら、それ以上の幸運はないだろう。自分を人に戻してくれたラミア。彼女のためなら何を引き換えにしても惜しくはない。
インターフォンが鳴り、発射準備が完了間近であることをクリードの声が告げた。
アルクは立ち上がった。リオを見やる。
いつもよくやるように、右腕を出して、リオと拳を軽く打ち合わせた。
発射場は今もまだ怒号が飛んでいた。準備の最終段階で誰もが走っている。
アルクがその真ん中を淡々と歩いていくと、輸送車の脇にロブクラフと、カザトとルーロンがいた。
「教官! ルーロンさん!」
ルーロンは椅子に腰を下ろし、カザトはその脇に立っている。
アルクは駆け寄った。
「大丈夫でしたか、ふたりとも」
「大丈夫なわけないだろう」
ルーロンが口をへの字に曲げて言った。
「お前の教官はなんだ、あれか? Sっ気でもあるのか? 自分が骨折させたオレを労わろうとするどころか、尻を蹴飛ばそうとする始末だ。お前よくこんなのを教官とかしたな?」
「グズグズしてるのが悪いのだよ」
カザトは横目で薄く笑った。
「んだと、痛てて」
ルーロンが背もたれによりかかった。
「ルーロンさん!」
「アルク、大丈夫だ。治療班に見てもらって、彼の怪我は骨が折れているだけだった。内臓に損傷はない。大げさなだけだ」
カザトがしれっと言う。
「見ろこの気遣いのなさ。治ったらひどいぞオレは。三倍返しする。てて」
アルクはルーロンの軽口にほっとして、カザトに向き直った。
「教官は? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だ……私も打撲のみだったよ」
「痩せ我慢するなよ。お前だってずいぶん傷んでるはずだろうが」
「教官……」
カザトは応える代わりに笑って首を振った。
ルーロンが真面目な顔で大きく息をついた。
「アルク、リオ」
アルクとリオは、条件反射のように背筋を伸ばした。ルーロンはふたりを交互に見る。
「……これから先バスティアがどうなるかわからないが、反乱軍の命令はこれが最後だ。シャトルで行って、彼女を取り返してこい。ついでにサンプルも」
アルクが見ると、ロブクラフが柔らかくうなずき返した。
ルーロンはふたりの肩に手を置いた。
「アルク、リオ……お前らに背負わせることになってすまない。本当はオレたちが、オレたちが、こんなになる前に何とかしなければいけないことだった。オレたちが手を拱いていたばかりに、ユティエスは墜落することになった……すまない」
「いえ、そんな……」
「……声を上げる方法は幾らでもあった。だが、誰もが白い砂に目をつぶって足元ばかり見てしまった」
「いいえ………今は、誰かの責任であるとは考えません。俺には誰も責められません。今は、アマトティハトを無くせるのなら、まずそれをやります」
「………そうだな。その通りだ。やり直すにはいい夜だ」
ルーロンはうなずいて、歯を見せながら悪戯っぽく付け加えた。
「悪い魔法使いから姫を取り返すのは若い奴らがやらないとな。中年の出る幕じゃないとさ。祝福のキスでも受けてこい……頼むぜ」
ルーロンがリオを手招きして話し始めたところで、アルクの肩にカザトの手が置かれた。
「教官、大丈夫なんですか? その……オレ、全力で打ち込んで」
カザトはアルクの詫びが聞こえないように講義を始める。
「アルク、鍛錬は怠っていないようだが進化がない。しかも変な癖がついているな。お前はシュートアーツを線で捉え過ぎる。せいぜい面だ。それでは利点が生きない。シュートアーツの真髄は自分を中心に円柱のイメージを作ることにあるのだ」
こんな時でもカザトは教官だ。アルクは笑い出しそうになった。
「はい」
「いいか、帰ってきたら、基礎からやり直しだ。渡しそこなった技はまだ幾つもある」
「はい!」
アルクは敬礼した。彼らが、自分の師匠だ。それはとても嬉しいことだった。
☆
シャトルの完全封鎖を知らせる電子音が鳴った。作業員退避中、が文字盤に浮かび、広い発着場にサイレンが響き渡る。
カリフは制御室の中央に陣取り、スタッフに最終チェックを指示する。わずかの時間で、彼らは面変わりするほど憔悴していたが、高い士気で次々にチェック終了の声が上がる。
「姿勢制御ソフト、演算チェック終了しました! 座標確認!」
「メインエンジン、オールクリア!」
「サブロケット、オールクリア!」
「燃料供給システム、オールクリア!」
「作業員、全員退避しました」
時刻はAM3:28。
ユティエス墜落まであと31分。
カリフは重々しく宣言した。
「カウントダウン開始」
メインモニターのシャトル遠景を見上げていたスタッフが、手元に視線を落として120からスタートする。
サブモニターにはシャトルのコックピットが映し出され、アルクとリオが窮屈そうに座る、というか「詰め込まれて」いる。
シエラがカリフの後ろから声を挙げた。
「リオっ! 頑張れっ!」
リオが予想もしない声と応援におろおろする。
「おっ!? おおっ! 任せとけ!」
「アルク!」
シエラが左手でモニターのアルクを指差す。
「男の子でしょ? 世界のひとつくらい、気合で救ってきな!」
アルクがヘルメットをかぶったままで手を挙げた。
紫外線除去のための色の濃いバイザーで表情は分からないが、幽かに白く見えるのは笑っているからだろう。
「……ラミアを!……お願い」
アルクはヘルメットをかぶったまま、大きくうなずいた。
オペレーターが雷流圏観測のデータを微調整する音がする。
「雷流圏観測修正終了。全データ完了しました」
カリフはオペレーターにうなずき、正面を見据えた。
「発射シークエンス、開始」
「了解、エンジン、予備点火」
モニターの中のシャトルが点火した。
カウントダウンが続く。
「38、37、36……」
次第にエンジンは勢いを増していく。
シエラは急ぎ足で制御室を出た。通路を辿って発着場へ向かう。片腕の自由がきかないので走れない。ようやく発着場へつながるドアを開けると、カウントダウンは最後のひと桁だった。
「3、2、1、0」
熱風が押し寄せてきた。
シャトルが遠くでゆっくりと上がっていく。発射台が緩慢に離れていく。
「アルク! リオ!」
シエラが右手は動かないままに、左手を高く差し上げた。
「必ず帰ってくるんだよ! 分隊は! ひとりでも欠けちゃダメなんだからねっ!」
シャトルはみるみる加速して、すぐに夜闇の中、彼方で点になった。
シエラは夜空を見上げたまま、ふと隣に誰かが立ったように思い、傍らを見た。同じように夜空を見上げているのは――シルバ院長だった。
「……先生……?」
幻だった。
幻だったが、懐かしさに息が止まりそうになった。身動きすると消えてしまいそうで、シエラはそのまま院長を見つめていた。
シルバはシエラを振り向き、微笑んだ。シエラは思わず笑い返し、それから少し涙が出てきて、慌てて眼をこすった。
☆
王都の中心部の街路は、火がまだちろちろと燃えていた。消防車も来ない。火勢の激しい地域、今は南西部に集中しているためだ。
暴動は北西部を除いてほぼ全域で起こったが、立ち直った警備隊や軍に烏合の衆がかなうはずもなかった。商店も家々も多かれ少なかれ破壊されていて、住人は逃げ出したのか、道のそこここで呻いている重傷者を助ける者もない。小競り合いする叫び声や、掃討の指示の声が遠くから風に乗ってうっすら聞こえてくる。
暴動は終焉を迎えようとしていた。
難民たちは結局自分たちには希望などなかったのだ、とあらためて思い、立ち上がった理由を失いかけていた。暴力に暴力で応えられ、その上を暴力が覆う。
どうせ、と自暴自棄になるものが大半だった。どうせ希望なんてないんだったら、こんなこと終わらせよう。もう、疲れた。生きていてもしようがないだろう。それなら、ひとりでも多く俺たちの苦しみをわからせようじゃないか。
そんないびつな倦怠感が王都全域に充満していた。
難民たちの多くは捨て鉢になって、思い思いに警備隊に飛び込んでいっては次々に叩き伏せられていた。
――暴動は、孤独と憎悪を産み出し、何もかもが不毛に帰そうとしていた。
そのざらついた空気の上に、大音量の放送が聞こえてきた。声は公共放送を見るようにと指示していた。少し遅れて、街路のモニターが一斉に切り替わる。同時に全ての放送も同じ画面と音声に切り替わった。
「バスティア国民の諸君、緊急放送である。静聴を願う」
ナヴァク首相だった。
情報管制が敷かれている中、暴動の趨勢を伝えるのだろうと思った者が大半だったが、首相が直に国民に語ることはついぞなかったことで、家の中で震えている住民もキャンプで震えている難民も、モニターに見入った。未だ押し合っている警備隊と難民たちさえ一瞬手を止める。
画面が変わって、正装したノエルタが映った。
「……前王ラガスタ王太子、ノエルティン・イリス・バスティリスである」
みたことがある……確かに王太子だ! 反乱軍に出奔したはずの! 誰もが驚いて手を止めた。
ノエルタは父ラガスタ王の礼装を身に着けていた。
「偉大なる前王ラガスタの崩御から5年、広がるアマトティハトに対策を施せず、同じ民同士が争う中、何もできずにいた己の不明を恥じている」
父は自分より大柄だったと思っていたが、礼装は自分にあつらえたようにぴったりだった。
ノエルタは右手を胸に当てた。王であることを示す大粒のアクアマリンが左胸にはめ込まれている。かつて父は自分を鼓舞する時によくこうしていた。父の仕草は思ったよりノエルタを落ち着かせてくれた。
ノエルタはカメラに向かって言う。多くの人間たちに届けたかった。
「無力ながら、王家の者として全ての民に伝えたい。もう戦う必要はない――空を見上げよ」
バスティアの各地で、訝しげに様々な人間たちが空を見上げた。
西部では細々と暮らす住民が、南部では早起きの農民が、東部では酔っ払いが、そして王都では警備隊と難民が、等しく空を見上げた。
「混迷する我が国を救う、ついに答えを見つけた者たちがいる……今、彼らが瀬戸際にある希望に手を伸ばすために、命を賭けて宇宙へ飛び立った」
ノエルタは自分の言葉を噛みしめた。
命を賭けて宇宙へ飛び立った。
そうだ、アルク――君は命を賭けた。成功率があまりにも低い作戦のために、君はシャトルに何の気負いもなく乗り込んだ。
ノエルタは今までの全てを、永かった今日のことを思い出す。
ルーロン。有能な司令だった。
反乱軍は誰も殺さないことを徹底した。敵には敬意を払わないといけない、と言った。やがて手を携えなくてはならない時がくる、と言った。
ロブクラフは、王家に連なる貴族の出でありながら、不自由などない身でありながら、全てを捨ててついてきてくれた。希望を持ち続ける優しい心に何度助けられたことだろう。
シエラとリオ、そしてアルク。まだ幼いのに、心にも身体にも傷を負い重責を背負い、それでも前を向いていた。その姿を私は全霊をもって賞賛しよう。
そして、自分のいない間、ナヴァクは国民をたったひとりで背負ってきた。『紅雷』の罪さえたったひとりで背負ってきた。
カリフは科学者として現実に向き合い、解決策だと信じた困難な仕事を遂行しようとした。
カザトは結果が全てだと信じ、自分を殺して汚れ役に徹した。
反乱軍に与した者と政府を保とうとする者、その覚悟。彼らを支える人々の努力。
――私は、君たちに、何で報いようか。
「われらバスティアの民は、数々の苦難を乗り越えてきた。この痩せた土地に国を建てた祖先たちの魂は、今も我らの中に息づいている」
シャトルは雷流圏を超え、最後の外部燃料タンクが切り離された。青い星の丸みがモニターから見える。アルクは目を見張った――美しい星。誰もが還るべき故郷。
「本日をもって、私、ノエルティン・イリス・バスティリスは、バスティアの第28代の王として即位する」
――――遅ればせながら、私も命を賭けよう。私は、長く長く、泥にまみれてなお、王として生きよう。
ノエルタは胸を張った。カメラに語りかける。誰もがそこにいると信じて。
「もはや戦いをやめよ。戦いを続ける意味はない――私は、バスティアの民の最も先を歩く者であり、もしこの国が沈みゆく船だとしても、最後まで、必ず、皆を見届ける者だ。しかしてなお、私は希望を持つ……皆、私を、信じてくれ」
――ノエルタもまた、見えない戦いを戦う者だ。
そして、そういう人間に相応しく、誠実で美しい。
☆
多くの人間が争っていた街路は声もなかった。
からん、と音がした。
誰かが棒を取り落したのだ。
それは、石畳の上を軽やかな音を立てて跳ねた。
呼応するように、ガシャンと金属音がした。
誰かが銃を取り落したのだ。
かすかに嗚咽を抑える声がした。
そしてまた、棒を落とす音がした。
それらに続くように、幾つもの音がした。
武器を、落とす音がした。
さざなみのようにそれは広がり、囁き交わす声がざわめきに変わり、やがて明るい歓声が響いた。
誰かが、反乱軍の歌を歌いだした。
とまどいがちに誰かが唱和し、さらに誰かが加わり、歌声はうねりのように街路に響き始めた。
夜の帳は我を止めない
月の光は我をいや増し
つないだ手を握り締め
幸せ君に届くを願わん
祈るにはまだ早い
佇むにもまだ早い
漕げ、漕げ、進め
我らの未来はその先にある――
――――『エグリーダの奇跡』の始まりだった。