13.泥濘は君を躊躇させるか
シエラは眼を覚ました。
夢の中で、初夏にラミアは出発し、冬の夜にマリーとシルバ院長を亡くし、何人もの弟妹達を送り出してきた。長い夢だった。
頬をつけていたのは石の床だった。顔を上げると、中途半端に張り付いているような不快な感触が残る。
「気づいたか、シエラ」
アルクの声がした。
月明かりがわずかに差し込んでいて、真っ暗闇ではない。向かいの鉄格子の向こうにアルクが座っているのが見えた。
シエラは頭を振りながら起き上がった。首筋が痛む。やった、と銃を取った時にはカザトが目の前だったことを思い出す。
――『教授』ね。なるほど?
「どこ?……て聞くまでもないか」
「収容所の地下牢だ。この施設を見たことがある」
「そう」
多くの仕切りで隔てられた牢は反乱軍でいっぱいだった。今は荒い息遣いが聞こえるのみだ。もうひとわたり暴れて疲れたのだろう、
シエラは、皆が協力してくれると言った先ほどの高揚が、あっさりと奪われたことを思い出して肩を落とした。
もうラミアを助ける術はない。『紅雷』が失敗しようが成功しようが、もう自分たちは会うことはないだろう。あの子の性格からして戻ることはないから。
ラミア。
私の半身。
簡単にひとり、と数えられない彼女。
自分と正反対な性格を不思議に思ったこともある。でも、それは当然だった。時に同期して時に補完して、ふたりはそうして「ふたり」であり、別の人間だった。
私たちは双子として、結構理想的にできている、とシエラは思う。
それが失われようとしている。
シエラはぼんやりと思った。
ラミア、もう私たちはどこにも行けないね。
ダメなお姉ちゃんでごめんね。
アルクは考えていた。ルーロンの示した時間まであとどのくらい残ってるだろう。
気絶して運ばれていた時間は、本拠から計算して1時間ほどだろう。とすると、まだあと1時間ほど猶予がある。ルーロンは用心深いから、最終コード発令まで余裕を見ているはず――まだだ。まだ終わらない。
アルクは壁に背を持たせかけて、手元にあるシーツを引き裂き始めた。
監房入口の鉄格子が開く、耳障りな尾を引く金属音が響いた。扉のしまる音。靴音が反響しながらゆっくりと進んでくる。
アルクは何食わぬ顔でシーツを腰の後ろに押し込んで、憔悴したふりで顔を伏せた。
靴音はゆっくりとアルクの房の前で止まった。アルクが横目で見ると、シュートアーツ使いが好んで使う、前と左右に滑り止めがついたブーツが目に入った。
驚いて顔を上げると、カザトが脇に抱えた折りたたみの椅子を広げるところだった。カザトは無表情のまま、丁寧にゆっくりと椅子を広げて座った。そのまま、アルクを見つめる。
アルクの視線とぶつかった。
お互いに無言だった。
――カザトは必要十分なだけしか口を開かない。多くを語らず、感情を顕わにした彼をアルクは見たことがない。昔はそうではなかったと教科練の校長が言っていたが、その訳は教えてもらえなかった。
いつかアルクが思い切って聞くと、カザトは少し自嘲気味に、たしなみだ、と言った。
「アルク、軍人にとって勝敗は常に傍らにあるが、勝ち誇れば恨みを買い、負け屈すれば恨みを呑む。どちら側でも戦いは容易に人を蝕むのだ。大事なのは、勝った後負けた後何ができるかであって、それは軍属の血に塗れた不浄な手が触れていいものではない。軍は必要悪なのだから」
そのカザトが、敗者の中にわざわざ足を運ぶとは。
口火を切ったのはカザトだった。低音が牢の中にこだまする。
「……どうして、反乱軍に入った?」
カザトは真っ直ぐに人を見る。アルクは自らを奮い立たせるように見返した。
「……政府のやり方が許せなかったからです」
「正論では国を救えん。軍は国を保つための必要悪だと言ったはずだ」
「西方第2管区は……西方第2管区の仕事は、国民を護るためのものではありませんでした。人々を撃ち崩し、強制収容するのが仕事でした」
「……」
「護るために、時には非情になる必要もある、と俺は教えてもらいました。でも……」
カザトは黙って聞いている。
アルクは言葉を探して眼をそらし、思い直してもう一度カザトを見上げた。
「でも、理想を描けないのに、なぜ撃ち崩すのを耐えられるのですか……俺は慣れたくなかった。言い訳をしたくなかった。多くの人たちを救うのだから、少数の人を見殺しにするのもしようがないんだ、と言いたくなかった」
「目の前の嫌なことから目を閉じて逃げるつもりか?」
カザトは不動だった。
「そうかもしれません……そうかもしれませんがでも、本来、軍は人を護るものだと教えてくれたのは、教官、あなただったではないですか……!」
アルクの脳裏に一年半前の光景が浮かぶ。
住民の蜂起を撃ち崩すために出向いた二度目、乱入してきた反乱軍と戦うことになった。どうしても崩せない右翼側を、アルクはシュートアーツを駆使して切り込んだ。指揮者と対峙してみればそれはシエラだった。アルクは、その手強い敵がシエラだったと知って、嬉しいような苦しいような複雑な気持ちになった。
そのまま、配属されてわずか半年足らずでアルクは軍を出奔し、反乱軍に合流した。
「反乱軍には俺の家族が大勢いました。軍は必要悪だ、とわかったような顔をしていたら、家族まで切り捨てなくちゃならない」
カザトは額に手を当ててしばらく黙った。そしてぽつりと言う。
「……アルク、今はまだ「戦闘中行方不明」のままにしてある。原隊に復帰しろ」
アルクの眼から挑戦的な色が消えた。
カザトが今、ここに訪れた理由がわかった。こんな時だというのに少しだけ嬉しかったけれど、むしろその分だけアルクははっきりと応えた。
「俺には無理です。家族や仲間たちを見捨てることはできません。その住む場所を見捨てることも、もうできません」
カザトは予想していたようだったが、声音に苛立ちは残った。
「収容所に行くことになる人間がほとんどだろう……だがアルク、軍に所属していたものだけは、軍紀違反と反乱画策の罪を負うのだ」
アルクは無言だった。
「反乱軍のうち軍属だった者は、全て処刑になるんだぞ……!」
☆
イソラにおけるナヴァクの執務室は西端にある。
西日で色褪せた調度も申し訳程度しかなく、夜だというのに照明も粗末な木の机の上のスタンドだけだった。
ナヴァクは第一次コード発令前から、可能な限り官邸ではなくここに詰めている。今のバスティアに最も必要なことは、ここイソラで行われているからだ。
ノックの音が鳴った。
「ナヴァク首相、連れて参りました!」
「入ってくれ」
ノエルタを連行する兵が大声であいさつしながら入ってくる。少し頭に響いた。
「手錠を解いてくれ」
「はっ! しかし……」
ナヴァクがあまり好意的な目つきとは言えない目のまま、無言で兵を見やる。
「……いえ、はっ、ただいま」
兵が急いで手錠を外したのを確認して、ナヴァクは兵を手振りで追い出した。
ノエルタが両手首をもむように触る。
それを見たまま、ややあってナヴァクは口を開いた。
「ご無事で何よりです。ノエルティン王太子殿下」
ノエルタは微笑んだ。
「久しぶりだね、ナヴァク」
ナヴァクは机を廻ってノエルタの正面に出ると、恭しく首を垂れて一度膝をついた。
「……数々のご無礼、どうかご容赦いただきたい」
ノエルタは黙って首を横に振った。
長い間一緒に過ごしたふたりの三年ぶりの再会だった。
ノエルタが出奔してから、ゆっくりとだが確実に離れていった日々。
前王ラガスタ、すなわちノエルタの父親が、太子の身の回りの世話をする太子傅に、軍属であるナヴァクを任命したのはかつて前例のないことだった。太子傅になるということは、立憲君主制のバスティアにおいて、政治に間接的に関わることになる。
まさか、それを文官ではなく武官から選ぶとは。
ラガスタ王の側近たちは色めいた。古今、軍属が政治を握って成功した試しはない、力を握れば使ってしまうのが人だ、等々。当時はちょっとした騒動になった。
ナヴァクは、北方のヌミディアの脅威に正対する第1方面軍で、高い評価を受けた司令代理だったから、軍でもまた誰もが耳を疑った。
なぜ? 軍のエースをなぜ子守に……?
周囲の騒ぎを知ってか知らずか、当の本人は変わらずしかめ面をしたまま王宮に異動し、太子傅の責務を果たすばかりだった。
ナヴァク本人に何の企てもなければ騒ぎも鎮まる道理で、その高い忠誠心とストイックな人柄に触れた者から順に警戒を解き、結局、王が治世の大半を慣れない軍事に費やさざるを得なかったことから、ヌミディアとの緊張関係を次王には感得させておこうという親心だったのだろう、というところに落ち着いたものだった。
ノエルタは、ナヴァクに最初から慣れていたと思う。
ナヴァクは軍と政治の両立を料ることができる稀有な人で、ラガスタはそういう部分を見込んだのだと後に思い至る。結果、通り一遍の帝王学ではなく、ノエルタは自分が無力なひとりの人間であることと、王であり全てが手の中にあること、の両方を得ることになる。
その教育がよかったことなのかはまだわからない。そのためにノエルタは反乱軍に属することになっているのだから。
「王太子殿下……どうあっても、お考えを変えてはいただけぬのでしょうか……?」
ノエルタは悲しみの漂う眼差しでナヴァクを見た。
「ああ。『740計画』はできないのだよ、ナヴァク」
「そうおっしゃると思っておりました」
「『紅雷』は、怒りと悲しみしか生まない。怒りと悲しみは不毛しか生まないのだ。アマトティハトに先んじて、むしろ我々こそが何も生み出せぬようになるとは思わないか?」
「先々の不毛を約束するとしてもなお、今この時には必要なのだと思っていただくわけには参りませんか」
「私がこういう考え方をするようになったのは、誰のおかげだろうか?」
ノエルタが問いかけると、ナヴァクは首を振った。
「最初から殿下は聡明でした。前王と同様に」
――ふたりは長い時間を共にしてきた。
ノエルタの成長と同じだけの長い時間を経てなお、互いに理解できないことがあるとは。「740計画」は、巨大な岩のようにふたりの間を遮り、もう姿も見えなければ声も聞こえない。
「どうあっても? ……殿下」
ナヴァクは知らず知らず声を押し殺した。もしそこにナヴァクを知る者がいれば、叫び声に聞こえたろう。
「どうあってもなのだよ……ナヴァク」
そして、ノエルタもまた、静かに言い切った。
わずかな光に照らされたふたりは、例えようもなく心細く見えた。
☆
カザトは椅子に座ったままアルクを見つめていた。
「アルク、お前はまだ若い。生きてさえいれば、やり直せる……犠牲が生じる可能性は否定できん。多くの犠牲が生じる可能性があるのは、私も知っているのだ」
「では、なぜ……? 教官……!」
アルクは向き直って思わず鉄格子をつかんだ。
「なぜ……知ってるのになぜ。知ってるのに、どうしてですか……! 『紅雷』が落ちればバスティアは終わりです!」
「『740計画』はこの国を救う計画だ。リスクはある。だが、犠牲も危険も無しに何かを得ようなどと、そんな都合のいい話はない」
カザトは少し早口で言った。
「でも、成功率はとっくに半分を切ってるって! 教官! みんなを賭けるなんて、そんな……俺たちは誰かのための盾になるんじゃなかったんですか?!」
「ただのあがきは何も生まない。戦闘に奇跡はない。現実を見つめ、己のできることを見極めろ。私はそう教えたはずだ」
「……あがき、ですか……どうにか生きてるヤツらなんて捨てるべきですか。東部の収容所に行きたがらないヤツなんて死んでもいいんですか! そんなヤツらなんて、生きている価値、ないですか!」
アルクの内奥に青白い炎が灯った。
怒りで目の前が真っ黒になった。今までだってそうだった。怒りに突き動かされてきた。
それでも、孤児であることをからかわれることには耐えた。教科練のしごきも平気な顔をした。アマトティハトに住処を奪われ去っていく住民も掌を握りしめて見送ってきた。耐えて耐えて、足を踏ん張って耐えてきたのに――どうして、どうしてあなたがそう言うのか。兄のように尊敬するあなたが、自分がようやく見つけたものを否定するのか。それも、血の通わない論理で。
アルクは手の甲が白くなるほど鉄格子を握りしめた。
「……俺は諦めません。それもまた、あなたに教わった大事なことのひとつです」
☆
ナヴァクは肩を落として、小さくため息をついた。
「父祖から受け継いだ国が亡びるのを、手をこまねいて見ているわけにはいかないのです。そう思いませんか?」
「父祖から受け継いだ国だからこそ、恥ずべき手段を用いてはならない。そうは思わないか?」
ナヴァクはふふ、と笑って顔を上げる。
「殿下もお人が悪い……しかし、それは理想論にすぎません。我々に残されている選択肢はいつでも少ないのです。気がつかないうちに最善は通り過ぎ、いつでも次善を選ぶしかないのです」
ノエルタは静かに言った。
「真に意志あるものは、自ら選択肢を作るものだよ。そうではないか、ナヴァク。理想論だと政府が言っているうちに、反乱軍ではアマトティハトを緑化する努力を怠らなかった。アマトティハトは緑化可能なのだ。あともう少しの時間さえあれば」
ナヴァクはもどかしそうに、胸に手を当てた。
「時間……殿下……もう時間がないのです。あとわずか1年足らずでバスティアは国として立ち行かなくなるでしょう」
☆
「ふざけないで!」
鉄格子をたたく鈍い音が響いた。
シエラだった。
カザトが椅子に座ったまま首だけ後ろを振り返る。
「ふざけないで! 最後まであがくことの何がいけないのよ! みんなが幸せになって、誰もが犠牲にならなくてすむやり方を探すことの、どこがいけないのよっ!」
鉄格子を叩きながらシエラは叫んだ。カザトを睨んでいる。火を噴くような眼だ。いつもの彼女とは違って捨て鉢な色あいが見えた。なおも無言で鉄格子を叩き続ける彼女を、誰かが止めた。
カザトは立ち上がって、シエラのいる房に近寄る。
「お前の言うことは正しい。否定はしない――だが、誰もが幸せな時はいつ我々を訪れる? いつになれば我々はその国を作れる? ……結果論だとしても、時間を稼ぐだけになるならば、それは罪悪だ。善意で始まったことでさえ、時がたてば腐臭を放つ」
収まりかけていたシエラが再び暴れ出した。誰かが羽交い絞めにする。
「わかったようなこと言うな! 軍人だから命令に従うって言えばカッコいいと思ってんの! アンタはそれで満足かもしれないけど、そんなの、アンタ以外誰も幸せにしないのよ! 誰も! 他の誰も!」
言い募るシエラから離れ、カザトは椅子を畳んだ。光る眼をアルクに向ける。
「アルク、考えろ。考える時間はまだある……反乱軍に殉ずると言えば聞こえはいい。だが、何もかも生きてこそだ」
カザトはそう言ってから、表情を崩した。
「あれが、お前の家族、というわけか。よくよく……」
「教官……」
それきり、カザトは無表情に戻り、アルクを見ることもなくゆっくりとした靴音で去った。再び監房の扉が閉まる音と鍵をかける音が響いた。
シエラは鉄格子にすがりつくように寄りかかっていた。
「ごめんね、ごめんねラミア。私は家を護るって決めたのに……」
「シエラ……」
「みんなが帰る場所を護ろうとしたのに、私はできなかった。院長だって……」
シエラは鉄格子をずり落ちて床に手をついた。その右手が力なく石の床を叩く。
「あの子は、あんな所にひとりなのに……帰ってこられないかもしれないのに……私は……私は、こんなにも力がない……」
アルクはおもむろに立ち上がった。怒りが静かに燃え続けていた。
シエラにこんなことを言わせていてはいけない。
彼女は太陽であることを選んだ。雨の日も風の日も太陽であることのつらさをわかっていてなお、太陽であることを選んだのだ。シエラこそがアマトティハトと全身で戦ってきたのだ。
「シエラ」
「……」
「シエラ!」
シエラが顔を上げる。
アルクはシーツを引きちぎって結び合わせ、先に石壁の破片を仕込んだ、粗雑な星錘を見せた。静かに、という合図をしてみせる。
房から監視の様子を窺う。監視はこちらに横顔を見せていて、注意を払っていない。鉄格子の間からじわりと右手を出して軽く振る。
マド=ウィルガには、猛獣に追い詰められた際の対処法として、短い反動で強い打撃を与える「虎倒」という手法がある。人差し指を絡めては離し、楕円形の軌道を描く星錘は、わずかの始動距離しか必要とせずに、20m先の人間を昏倒させることができる。もちろん、相当な技量が必要とされるが。
アルクは細心の注意を払ってそれを加速し、監視に気づかれる前に放った。正確に彼の首筋に当たって椅子から転げ落ちる。そのまま動かない。アルクは苦労して簡易版の星錘を引き寄せた。もう一度。今度は鍵束を狙って手元に引き寄せた。その行動をかたずをのんでいた面々から、無音の歓声があがった。
アルクは、手早く鍵をあたって自分の房を開けると、静かに、の合図をしながら、次々に反乱軍が収容されている房を開けた。皆、囁き声でアルクを賞賛する。
シエラの房の前に立った。シエラは一連のアルクの行動を、目を丸くして見ていた。
「あ、アルク……」
「……まだ、何も終わってない。時間はまだあるはずだ」
「え?」
「まだ、ラミアを助ける余裕はあると思う……いや、必ず、ある」
アルクはシエラの房を開けた。鍵束を反乱軍のひとりに渡し、全部の房を開けるように身振りで指示した。
「行くぞ、シエラ」
「アルク?」
「イソラへ行く」
「でも、アルク……だって……」
「シエラ、最後まであがくって言ったのはお前だろ?」
アルクが片方の眉を上げておどけてみせる。
シエラは思わず笑いかけて――先ほどの絶望が胸に迫った。
私たちはどこにも行けない。
もう、私たちには行くところはない。
……いいえ、いいえ。
違う。
私たちはどこにも行けないと思っているだけだ。
本当は、本当はいつでもどこかに行く途中なのだ。