9.月の光は今なお明るく
カリフは救護の手を軽く振り払った。
「すまんな。大丈夫だ。私はそれどころではない」
銃弾で割れたプラスティックの破片が腕をかすっただけ、血も出ていない。
カリフは自分の執務席に座った。
幸いスタッフに怪我人はなく、彼らは持ち場のチェックに忙しく立ち働いている。警備隊の一部が副官に指示を受けて、ユニット交換を手伝っている。
「姿勢制御システムに被害ありません」
「通信システムに一部損害、間もなく処置完了します」
「雷流圏演算カリキュラム、リロード再チェック終了、問題ありません」
報告が次々に入る。
どうやら「740計画」続行に支障はないようだ。銃撃戦は激しいように思えたが、恐らく銃弾を使ったのは最初だけで、演習弾を使っていたのだろう。機器の損害は最小限だった。銃弾も電撃もここでは致命的だとカザトは知っている。
だが、警備隊だけではなく、反乱軍も演習弾を使っていたようだった――本来は自陣での戦闘で、敵方の戦力を削ぐために使われるものだ。敵地に侵入した反乱軍が使う武器としては、似つかわしくなかった。
カリフは、シエラと呼ばれていた少女を思い出した。
ユティエスの乗組員を見た時の愕然とした表情。
ラミアという少女とよく似ていた。
――まだ互いに子供だろうに。
正面のメインモニターには夜空が映し出されたままだ。このどこかにユティエスがいるはずだった。
「ワグナム教授……」
喧噪の中、カリフは細く呟いた。
15年ほど前、王立の科学研究院でカリフはワグナム教授の助手として働いていて、准教授になったばかりだった。まだ電離物性変化が研究分野として存在していた頃だ。
「このように、特殊な電磁波を照射することにより、物性は変化する。また、無重力化ではさらに複雑な変成を起こすことが確認されている」
カリフの「電離物性変化を生成する力場」についての実験形式のゼミ。
研究員が何人か、ノートを取りながらカリフの話を聞いている。
ワグナム教授は電離物性変化について公的に関わることができないので、オブザーバーとしてカリフが参加を乞うていて、通常の授業とは逆に助手の席に座って微笑んでいた。
研究員のひとり、オルカが手を挙げて質問した。
「では先生。アマトティハトを分解するような性質の物質も、できる可能性があるのでしょうか?」
「ふむ。ハクスロッド結晶体を直接に分解、というのは難しいかもしれない。現にイソラでその研究が始まって久しいが、かなり迂遠な方法を取るしかないようだから」
カリフはそっけなく答えた。
「アマトティハトをどうにかする物質か」
「いいね。イソラを出し抜いてさ」
「複雑過ぎるだろう? ハクスロッド結晶体に直接働きかけるのは難しいよ」
研究員たちが口々に言い始める。
レダ・イルハルトが手を挙げた。突飛なアイデアを言う天真爛漫な娘で、実験の糸口につながることも多く、直観力が優れていることはカリフも認めざるを得ない。
「無機物だけで考えるのは無理があるんじゃないのかな。『鎖蝕』でも生きられる細菌とか考えあわせないと」
「鎖蝕」で生きられる細菌。そんなものがあったら、とっくにイソラで開発されている。カリフはこめかみに手を当てて少し強く言った。
「そんな夢物語みたいなことを……! 電離物性変化は魔法じゃない。そう都合のいい物質ができるわけがないだろう?」
研究員たちは肩をすくめて一様に下を向いた。
ワグナム教授が面白そうに笑った。
「はっはっは、まあそう言うなカリフ君。科学者なんてものは夢見がちな楽観主義者でないとやっていけないだろう。どうにもならないことを、都合よくどうにかならないものかと研究するわけだからね」
研究員たちはほっとしたように笑った。
「諸君、大いに夢を見よう。夢を見ることが科学の第一歩なのだから」
ワグナム教授が全員を見渡して言う。カリフもレダもオルカも、全員が彼の大事な教え子なのだ。
――そのわずか3年後、ワグナム博士がユティエスに上がっている頃、電離物性変化の実験の最中に研究棟が大破する事故があった。死亡者はなかったが、研究棟の一部が結晶化したために電離物性変化とアマトティハトの関連がささやかれるようになり、電離物性変化は研究として縮小する傾向にいたる。
カリフは苦く思い出していた。
結局自分は、ワグナム教授やレダのような発想力はなかった。
オルカやエージスのような、実験後に体重が減るほど思考に没入する集中力もなかった。
カリフでは、電離物性変化の新しい局面を拓くことも、違う側面を顕わにすることもできなかった。自分は髪の先から足の爪の先まで凡人だった。例えわずかにレダたちをリードしているからといって、地位や功績など近いうちに必ず追い越される、という確信だけがあり、カリフは誰にも言えないまま焦燥に駆られていたのだった。
科学者が最も熱望するものは発見や発明だ。それは彼や彼女の名前を『不死』にする。科学者が科学者である理由、誰もが認める存在証明になる。
――自分はそれには届かなかった。
やがてカリフは、敗北感に満ちたまま分子の応用方面に研究を変えた。夢を見る科学者ではなく、現実に足を着けた研究者に変わった。現時点で最も可能性が高いものを使って解決を図ること、それが必要なことなのだ。そして、その延長線上に「740計画」がある。
カリフはその道を誇りに思って進んできたはずだったのに、少女たちの姿を思い出すと、ここにきて自分が揺らぐのを感じる。
私は諦めるべきではなかったのか?
凡人なりに夢を見続けるべきだったのか?
私は、私は?
――いや、自分の果たしている役割は必要なはずだ。最も可能性の高い方法の精度を高め、現実に遂行する。凡人なりのやりようはあるのだ。
モニターをもう一度見つめながら、カリフは自分に言い聞かせるように呟いた。
「今必要なのは、夢を見る力じゃないんです、教授。明日を救う力なんです」
応えはない。
応えを求めているわけでもなかった。
ふとワグナム教授の悲しそうな笑顔が見えたような気がした。カリフが別れを告げた時の笑顔が。
カリフは見えないように目をつぶった。
「カリフ長官」
カリフが振り向くと、カザト大尉が立っていた。
「申し訳ありません。カリフ長官。私のミスです」
「……君が指示してくれていたおかげだろう。損害は少なかった。過ぎたことを言うつもりはないし、むしろ気遣いに礼を言おう」
「いえ」
「……『740計画』は予定通り進める。彼らが軌道計算カリキュラムを奪ったとしたら、ユティエスを撃ち落とすつもりだろう。不可能だとは思うがね」
カリフは大尉を覗き込んだ。
「不安の芽は早いうちに潰しておくのが得策、と考えているかね?」
「はい。反乱軍の車両にふたつトレーサーをつけるのに成功し、内応者にも連絡済です。先ほど追跡隊が出発しました。間もなく本隊が出発します」
「結構。気を付けてくれ」
カリフは会話の終わりを示すように、軽く手を振ってモニターに向き直った。
☆
マエナス州とエナリム州の州境、元マエナス州軍基地リゾ支部がある。
バスティアの国家間弾道弾を擁する西側唯一の基地だ。その地下には、弾道弾を制御する管制システム「チャイルド・ダッチ」――今はスタンド・アローンだが、本来は名前通り「マザー・ダッチ」の端末を兼ねる――がある。
かつてマエナス州軍の半分が反乱軍となった時、王軍にとってこの基地は早急に取り戻さなければならない、もしくは破壊し尽くさねばならないものになった。当然だ。王都の喉元に剣を突きつけられるに等しい――時を置かず、西部方面軍が攻め込んだ。
が、予想されていた衝突はなかった。
反乱軍がリゾ支部を念入りに破壊して、放棄していたのだ。
管制システムダウンを始めとして、周囲の施設は徹底的に破壊してあり、縦坑の周囲までが破壊済みだった。4基あるミサイル発射場は3基までが扉を破られ、残りの1基も無残な骸をさらしていた。
王軍の熱探査やエコー探索、徹底的な捜索を経ても何も見つからず、「廃墟」と結論づけられた。反乱軍が物の価値も分からない烏合の衆であるはずはなかったが、何らかの内部抗争による破壊ではないかと言う者が多数を占めた。
今は、リゾ支部は基地の廃墟として忘れ去られている。
……だが、実際にはリゾ支部は基地としての機能を失っていなかった。
反乱軍には、王軍に拮抗する力が必要だった。
彼らには、簡単に揉み潰される程度の兵力しかなかった。しかし、それを手に入れるために基地を占拠すれば、西部方面軍だけでなく、全力を以て破砕しに来るのが見えていたのだ。そうなれば、抑制力ではなくミサイルを使わなければならなくなる。
その時の反乱軍に必要だったのは、使うための力ではなく、時間だったのだ。
リゾ支部が建造された時に掘られ、その後使われていない空洞を基地化し、「チャイルド・ダッチ」の移設、司令部機能の再構成。
王軍が踏み込んだ時には既にそうした作業が完了していた。
加えて、基地を1km四方にわたって敷かれた、熱遮断高分子シート(「ワグナム最後の弟子」であるナガサキが発明したものだ)。電磁波も通さないから、王軍の最先端の機器も探知できない。
――そうした綿密なカモフラージュによって、リゾ支部は「廃墟」になっている。
幸か不幸か、ノエルタの合流によって反乱軍が殲滅される心配はなくなり、ミサイルを使うのは文字通り最後の手段となった。
今は大隊が詰めているが、王軍との遭遇戦もここ1年はない。
苦労して保った反乱軍唯一の高性能演算装置だったが、実際にはロブクラフとナガサキしか扱える人間がおらず、普段は岩場の中にある極めて平穏な砂漠監視所だ。
☆
そのリゾ支部の指令室では、反乱軍の主だった人間がモニターを鋭く見つめていた。
ナガサキが無表情のまま、アルクたちの持ち帰ったデータを読み込んで作業している。PFSが発する空気を柔らかく切るような音が間断なく聞こえてくる。
ナガサキはまだ20代前半だろうが、女っ気のない基地にいるせいか、外見に一切気を遣っていない。髪は伸び放題、無精ひげもそのまま。白衣を着ていたが、先ほどまでグラフィティを描いていたと言われた方が納得できるような色味だった――科学者ってのはこうじゃないといけないって決まってんのか? とアルクは思う。
ロブクラフがナガサキの肩口から覗き込んでいて、おもむろに声を上げた。
「間違いないわね」
シエラがビクッと反応する。
「今のユティエスにはラミア・イージスが乗っているわ」
ロブクラフは画面を見つめたまま沈黙した。肩を落とすシエラ。
「そんな……ユティエスは無人制御じゃないのかよ?」
アルクが遠慮がちに声を上げると、ロブクラフはそのままの姿勢で軽く首を振った。
「ユティエスは無重力実験室でもあるのよ。電離物性変化のね。これを見ると、ずいぶん長い間、常駐チームがあったみたい」
ナガサキが作業を続けながら低い声で付け加えた。
「……ワグナム教授から聞いてた。極秘だが、さすがにチームごといなくなればわかるし」
「! ナガサキは知ってたの?」
「……俺が次に上がる予定だった。中止になったんだ。全部白紙になったはずだったんだ。まさか、教授が上がってるなんて」
「そう……」
ナガサキは唐突に手を止めた。
無表情にルーロンを振り返って言う。
「ミサイルはもう完成して、固形燃料も積み込み済みだ。軌道計算もこのデータを参考に修正できる。いつでも打てる」
シエラが顔を上げた。
ナガサキの無機質な視線を受けても、ルーロンは眼をつぶったままだった。
ロブクラフは傍らのホログラフスタンドを見てひとりごちた。
「レダ……」
スタンドにはワグナム教授とカリフ、レダ・オルカチーム、ロブクラフとその他何人もの研究員がすました笑顔で写っていた。前列のワグナム教授の足元に「第38期卒業生記念」と書いたプレートが置いてあるが、後列のレダが、それとは別に頭上に1枚のプレートを掲げて笑っている。
「夢と愛とが科学者の超能力!」
ロブクラフは少しの間、それを見つめていた。
皆が無言の間、モニターには様々なデータが映し出されていた。ユティエスの搭乗者記録、その軌道計算、ここ半年に送られた実験結果。
アルクが小さく言う。
「あいつ、こんな研究してたんだな……頭いいとは知ってたけど、全然わかんねえよ」
「そうね、無重力下の電離物性変化実験。特殊な電磁波と被照射物質の性質、どれほどの組み合わせがあるのか、万のオーダーには乗るでしょうね。膨大なサンプル数だわ」
ロブクラフが思いに沈んだまま言った。
アルクは手首に巻いてある青いバンダナを見た。色褪せて青灰色になっているそれは、今はもうラミアと自分をつなぐ唯一のものだった。
自分が王立教科練に入ると言った時、シエラはかつてないほどに怒った。
王軍に入るなんて、と彼女は泣きながら怒り、アルクを殴った。予想していたことだったが、予想以上に痛かった。アルクは黙って殴られるままにしていた。
その当時の西側から王立の施設に入ることは、裏切りと言って差し支えないことだったからだ。
シエラが殴り疲れ、音立てて2階に上がると、アルクはゆっくりと孤児院を忍び出た。
カンナ湖の周囲、街灯もない暗い道を歩きながら頭を冷やしたかったのだ。言いたいことはいっぱいあった。でも、言ってしまったら言い訳になるような気もしていた。
その時の星空は今でも覚えている。
満天の星空はアルクを祝福してくれているようだった。アルクはひとりうなずいた。
「大丈夫」
いきなり、近くで声がした。
「大丈夫だよ」
アルクは声を上げて飛び退った。
ラミアが小首を傾げて面白そうに笑っていた。
「なんだよ、驚かすなよ」
ラミアは笑ったまま、柔らかくうなずいた。
「アルクは大丈夫だよ。本当はシエラもわかってるの……王軍に入るのって、軍属手当が出るからでしょ? 家のみんなに」
「いや、そんな」
「違うって言う?」
「いや……」
ラミアはアルクの照れた沈黙を受け取って、バンダナを取り出した。そしてアルクの手首に巻いて言う。
「これね、お守り」
ラミアはにっこりと笑った。
「アルク、忘れないでね」
「……何をだよ」
「色んなこと」
ラミアはそれきり黙った。
アルクはバンダナを見つめて、星空を見上げているラミアを見た。そして、聞こえないように、うん、と返事をした。
だから、アルクは今でもあの満天の星空を覚えている。
☆
ラミアは、ライカの声で現実に引き戻された。
「ラミア、関連付けの調査はどうしましょうか?」
「続ける。ライカ、今までやった12個だけでいいから、アマトティハトの変化に限ってシミュレーションして」
「承知しました。処理完了まで90秒」
ラミアは眼下のバスティアを見つめたままだ。
「……ラミア、少し休んだほうがいいのでは?」
「ううん、いいわ。調査を続けましょう」
「しかし、今日だけを見ても、心拍数、アドレナリン生成量など、かなり精神的に負担がかかっていると思われます。少しの時間でもいいので休んだほうがいいと思われます」
気を遣うAI。ラミアは微笑んだ。昔の小説では反乱を起こすのがAIらしいというのに。
「大丈夫だよ」
「しかし……」
星を見下ろす時に、おじいが決まり文句のように言っていた言葉を思い出した。
「ほれ、綺麗なもんだろう」
まるでそこにいるかのように、おじいの幻が語りかける。
「あそこで、色んな奴らがうまくやったり、しくじったりするんだ。私らと同じようになあ。何としてでも、それを守らなければなるまいよ」
「そうだね、おじい……」
ラミアは声に出して言った。
「こんなに綺麗なんだ」
自分でも驚くほど涼やかに笑えた。
もう一度決心できた。
私はもう「遭難」したのだ。
誰にも助けられないけれど、誰にも邪魔はされないから。
私ができることをするだけ。
誰にも、他の誰にもできないことをするだけ。
「ライカ、交換回路の値を最大にしておいて」
ラミアは立ち上がった。
☆
リゾ支部からピックアップトラックは走り出した。飛ばせば20分ほどで本拠に戻る。
アルクは荷台でシュートアーツの治具の手入れをしている。シエラはずっと無言のまま、隣で星空を見上げたままだ。
干上がったカンナ湖に差し掛かってイージス孤児院が見えると、シエラはアルクの裾をつかんで嗚咽を始めた。泣くことがない彼女でも耐えられなかったのだろう。
アルクは治具を脇に置いて、シエラの頭を撫でた。
シエラの泣き声がわずかに高くなった。
髪の毛は栄養もなくバサバサだ。陽に焼けて化粧っ気もなく分隊長として飛び回る日々。反乱軍では水が最も貴重品だから、お互い汗の匂いが凝っている。
それほどまでに捨ててなお、どうしても救おうと思っていたラミアは、撃ち落とすべきステーションにいる。
なぜ救われないのか。
普通に生きることさえできれば、シエラに言い寄る男など引きも切らないだろう。エグリーダでさえ、この姉妹より容貌も性格も勝る娘などいなかった。
それがなぜ?
なぜこれほどに俺たちは失うのだ?
アルクは、かつてシルバ院長がしてくれたように、絶望に打ちひしがれたシエラの頭を乱暴に撫でた。小さな声で囁く。
「それでも、な、ラミアが生きていてよかったな……」
シエラの肩が震え、何度もうなずく気配がした。
何度も何度も。
アルクは思う。どうしても譲れない時なんて、誰にだってやってくる。