五十年前のプロローグ
ワグナムへ
思い返すと、お前と会ってからもう10年になるのだな。
確か、お前のおかげで翌年に電理物性変化の理論が完成したのが81年、選択的に炭素結合を助けるタンパク質を初めて合成できたのが82年か。
あの時お前が、嬉しさのあまり机の上に登って歌いだしたことを思い出す。
長い付き合いになった。
私は何も相談せずにこんな大それたことをするわけだが、いつもの通り「先生はいつも勝手にやってしまう」と笑って看過してくれることを願う。
あの頃、私の「電理物性変化理論」は学会で異端だった。
誰も理解してくれないことに、私は苛立ち、さんざんに怒り吠え狂い、そして絶望し、意固地になっていた。
いや、そんな風に言うと私が正義のように聞こえるな。
もともと偏狭な人間だったのだよ。
多くの人間にとって、「自分」というものは度し難いものだし、私も含め科学者にとっては、「自分の研究」が上積みされてしまうから、最初から鼻持ちならないヤツばかりになる。
だから、弟子をとるつもりはなかったのだ。職人でいいと思っていた。
雷流圏モデルと変圧器の精度を上げる職人で、一生を終える覚悟をしていた。
そんな私に、お前が「世界を変えたいのです」と言いに来た時は、年甲斐もなく震えたものだ。
本来、「RS計画」と我らが呼び習わしていたあれは、雷流圏に存在する莫大な電気エネルギーに指向性を与え、収束した超高圧な電磁波の力場を地上に作ることで、砂漠を肥沃化する計画だった。
ユティエスからもたらされる超高圧の力場により、サンプルNO.89はわずかな水と炭素からタンパク質を生じさせ、それは選択的に有機化合物を合成し、表層土壌を形成し、水分を保つ。砂に覆われた土地が緑なす土地になる。
そのはずだった。
理論上は成立していた。
が、雷流圏からもたらされる力場の圧力は予測を超えていた。
ワグナムも今年の調査の結果を見たろう。
人為的に作られたタンパク質は、私の実験によれば9年ほどしかもたない。NO.89は経年変化により炭素の結合肢を護る機能に特化し、珪素と化合してアモルファス化することになる。その過程で熱量は均衡し、水分は失われ、高分子体のまま半透明な白い砂に変わっていく。
ほぼ確実に、砂漠より始末の悪い「鎖蝕」が国土を覆うだろう。
私がしたことは世界を悪化させてしまうことだった。
電理物性変化。
人間ごとき卑小な存在が、神の手によるこの世界を、予定通りにできるものではないのかもしれぬ。
人生には、欠いてはいけない大事なものがいつも少しだけ足りない。
神の時間は我々のそれより少しだけ早く動いていて、人はいつもバスに乗り遅れる。
――だが、それでも、私は思うのだ。
世界を本当に変えたいと思う人間だけが、世界を変える、と。
もはや私にそれを言う資格がないのは知っている。
癌で、取り戻す時間もない。
残念だ。
本当に、本当に、本当に、残念だ。
私のせいで崩落するこの世界を、わずかでも止められたら。
そのためなら、全て引き換えにしてもかまわないのに。
もはや、望むべくもない。
恐らくこの先、誰かがこの実験結果を使おうとするだろう。
世界を取り戻そうとして、無能な科学者が考えた、悪化を招くだけの無能な実験結果を。
その轍を誰かに踏ませたくない。
せめて白紙に戻したいのだ。
あと1分で、私のなすべきことは終わるだろう。
願わくば、お前がこうならないように。
――誰もが、ほかの誰かのために生きたいと思っている。
そうではないか?
幸せであるように
エイリー
☆
【デクター通信発:】
18日、王立ジスティナ科学研究所が爆破された。
同所所長・エイリアル=イブナーによる自爆テロとみられ、王都警察は容疑者の死亡を確認した。容疑者以外の死傷者はいない模様。