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人が谷に落ちる事は、たまにある。
無謀な冒険者、己自身の感情で落ちた者、好奇心が高じた者――――いずれにしても谷は深く、落ちた者は底にたどり着くまでに意識を失っていただろう。
谷は純粋な力の坩堝。魔人や魔獣達によっては心地よいが、人の器では馴染む前に四散する。
ティモは、既に人ではない。
それでも感傷じみたものがよぎることがあるが、人にすべて拒絶されたことを思い出せば霧散する。
彼を助けたのは人ではない、今、目の前にいるリディだ。
その彼女の前に、巨木と朽ちかけた縄がぶら下がっている。
『あそこにぶら下がった人が、私の母様を産んだのよ』
いつだったかの言葉が甦った。その時に感じた何かは、今のティモにはない。
「ちょうだい」
巨木の前、リディが手を差し出す。まるで菓子をねだる幼子の様に無邪気に。
「母様も父様もいないの。ね、だから私にちょうだい」
ふわり、と風が動いた。ぶら下がった縄が揺れる。
「ね?」
首を傾げた幼女の姿、だが差し出したその手に何かが集まっていくのがティモにも感じられた。
巨木が震えて枝を揺らす。朽ちた縄は風とともにリディの手へ、巨木も続く。
空間が収縮する。
一瞬、その場の空気が消えた。もっとも、今のティモにそれは何の影響も及ぼさない。
「ありがとう」
無邪気な声、リディは振り向くとティモに駆け寄った。
「おすそわけ」
「え…」
促され、幼女の重ねられた手の下に己の掌を差し出す。
「ちょっとだけだけど、これで十分よ」
「!」
途轍もない熱量を感じたが、それは直ぐに消えた。戸惑うが、その力が何か、どの様に使えばいいかはなんとなく判った。リディの顔を見つめれば、彼女は頷いて残された力を己の体へ入れていく。あっという間に終わったが、リディの姿形には何の変化もない。
「うん、大丈夫」
いつものリディだ。瞳孔が縦になり、すぐに戻るのも。
「さ、戻らなきゃ」
予想より長く続いた忌々しい魔術のおかげで、先に進む前に一端谷へ戻ったのだ。
「グリゴリーもそろそろ疲れちゃったかも。おすそわけしなくちゃね」
「それから?」
「美味しくいただくのよ」
少し前にも聞いた言葉に、ティモは破顔した。
■
フォルカー達が移動したその後に、リリーたち支援隊も移動する。
ミーシカと騎士数人が前衛の偵察に向かい、魔術師達は塹壕を作り中を固めていく。タビーが教えた工兵の使う魔術で石を作り出すが、あれだけの大きさを作り出すことは出来ない。ただ、それをいくつか組み合わせれば十分な防御壁となる。
「戦況は?」
「戦ってるのは見えるが…」
薬が馴染むまで待機となっているヘスの男が、防御壁の上から返す。
「デカブツのところに集まってるな」
「タビーは?」
防御壁の下からクヌートが問う。
「魔術師様は見えない」
「先に行ったのか…」
クヌートは側にいた王宮魔術師と視線を合わせる。
「私、行きます」
「ハァ!?」
戦場に、緊張のかけらもない素っ頓狂な声を響かせたクヌートが振り向く。
「リリー!?」
「タビーがいないと、あの巨人は厳しい」
「いや、それはそうだけど」
「行けるのか?」
王宮魔術師の一人が問いかける。
「後方からになりますけど」
「一撃を加えて、その間に攻撃するか」
「武器を狙います」
「一理ある」
「ないよ!」
「じゃ、俺がついて行くわ。向こうに行く頃には俺も戦えるだろ」
ヘスの男が防御壁から飛び降りてきた。
「この魔術石をあの棍棒に…」
「発動までの時間が」
騎士団の魔術師達まで混じって、何かを渡している。クヌートはくらりとした。彼の言葉など、気にもとめられていない。
「ま、待ってリリー!いくらなんでも」
そこまで言いかけて、クヌートは口を噤んだ。誰に何を言われた訳でもない。ただ、その先が言えなかった。
『この戦いに、すべてをつぎ込む』
討伐隊の隊長であるアロイスはそう告げ、全員が同意した――――それは、今朝のこと。あれからまだ数時間も経っていない。
『騎士、魔術師、冒険者、ヘス、神官…この一戦に、誰もが全力を尽くせ』
アロイスは討伐隊の隊長として、様々な立場の者達を取りまとめてきた。難しい立場だと、誰もが理解している。
その彼が、今までに無い強い言葉を使う意味をクヌートは嫌というほど判っていた。彼の言葉は士気を上げると同時に無になる者を生み出すものでもある。
クヌートの目の前で、リリーは預かったいくつかの魔術石をエルトの袋に入れていく。その細身に不似合いな、騎士団でよく使われる重いブーツ。紐をきつく締め直した彼女は顔を上げた。
「いってきます」
手を上げて走り出した彼女を、クヌートは止めるべきなのだろう。せめて一緒に行くと、戦うと。
ヘスの男と騎士団の魔術師がひとり、リリーの後を追う。だが、クヌートはどうしてもその背を追えなかった。
彼も近くでみた事のあるあの巨人が、怖い。
ヘスの男達が吹き飛ばされ、騎士が近づけないほどの力。騎士としては剣術も槍術もそれ以外もギリギリ、得意の双剣は相手の懐に入らないと意味はなく、その得物ですら他の騎士に比べれば劣る。
無力感を振り払い、顔を上げた。既にリリーの背は遠くなっている。気を取り直し、クヌートは物資の移動をしようと振り向いた。
■
タビーの視界に、谷の亀裂がはっきりと見え始める。
既に空は濃い紫に見えて久しい。呪いが見える目だが、谷も呪いの産物なのか判断がつかなかった。
先行していたカッシラーが足を止める。
「随分手薄だな」
タビーも呼吸を整えながら谷を見た。後ろにいたメラニーはさほど呼吸も荒くない。
「言われてみれば…」
記憶にある限り、ヤンはともかく巨人に幼女、ティモ、アンカー、ベルーガ、ラーン、特殊個体はいなかったがラヴィやネッカーもいた。黒い何かが消えたから戦線を下げたのかもしれない。だとしても静かすぎた。
「戻りますか?」
メラニーの問いかけにタビーは迷う。他がいなかったとしても、この先にヤンがいる筈だ。魔人たちを取りまとめている、タビーを待つ魔人。
後ろを振り向く。先程作った石が視界を邪魔しているが、狼煙などは上がっていない。このまま先に進む方がいいとは理解している。
「戻っても、大丈夫ですか?」
「俺とメラニーは問題ないな。どっちかというとお前だ」
「私?」
「体力的にな」
戻るのは容易い。おそらくタビーが加われば勝率は上がる。ただ、そこで彼女が消耗すると谷へ進めない可能性が出てくるのだ。
先に進もう、と口にしかけた瞬間、乾いた音が響く。
「あれは…」
やや赤みを帯びた狼煙が空に漂う。その狼煙を使うのは――――。
「戻るぞ!」
カッシラーの言葉に、タビーは走り出した。




