957
「チーズといえば、ホトだな。私の故郷だ」
王宮魔術師のひとりが口にする。彼の手にはふわふわの白いパン、その上には少し焦げたチーズが乗せられている。
「は?ティーパの水牛が一番だって」
「え?水牛なんているの?見たことない…はい」
「お、ありがとう。ティーパの限られた地域で育ててるよ」
とろけて落ちそうなチーズをパンで受け取った女冒険者は、嬉しそうにパンにかぶりつく。
「ティーパ…ティーパ…」
学院時代に地理の講義もあった。こればかりは前世も今世も変わらず、試験にはその地の名産や土地の特徴などが出て必死に覚えたものだ。その記憶にはティーパという地名は残っていない。
「南寄りの東で、何にもないんだよね」
「水牛は硬いだろうが」
「混ぜ物しているのは硬いけど、水牛だけだったら柔らかいんだよ」
「柔らかいチーズなら、アレだ、ディド」
メラニーの後ろからパンを差し出したのは、騎士団の騎士。
「俺はラールで食べた、凄い匂いのチーズが好きだな」
「ラールのチーズって」
「あの青いヤツだな、あれはヤバイ」
更にその後ろからカッシラーがパンを差し出した。それぞれにチーズを少しずつのせる。温められたチーズ、柔らかいパン、乾燥野菜を多めに入れたスープ。久々に晴れた夜空は冷たい空気のおかげで星が良く見えた。
塔の中ではない、門の外だ。晴れているおかげで冷えも厳しいが、タビーをはじめとした魔術師達が薄明かりを浮かべ、温石を作り、いくつかの火を焚くことで凌いでいる。冷めやすいスープは保温機能を持った魔術師の壺に入れ、一定の温度を保つよう魔術で管理されていた。
「代わるよ」
スロが戻ってきて、タビーを促す。ありがたく交代し、側にいたメラニーと焚き火を離れた。彼女の虎の子ならぬチーズは、既に半分がなくなっている。
「タビー」
リリーが手招いた。小さな木の椀を手渡される。ほんのりと香る果物の匂いだ。
「これで終わりだから」
「大切にのまないとね」
そう言いつつ、タビーは木の椀に注がれた酒を一息に飲み干した。喉を過ぎ、胃に届いたあたりで熱くなる感触が心地いい。ほうっと吐いた息が真っ白だ。
「大切に?」
「大切に」
リリーと、そしてメラニーと顔を見合わせて笑う。
「タビーさん」
フォルカーが少し離れたところで手招きする。
「内緒ですよ」
笑いながら差し出されたのは小さな瓶。薄明かりに照らされた中身は――――。
「くれるの?」
唇がにやけそうになるのをこらえて、タビーは手を差し出す。
「ヴェルフェンで買ったんですよ。差し上げます」
「何か、怖いな」
重みのある瓶を開けると、柑橘系の匂いがする。そしてとろりとした黄金色。
「チーズですね、貰ってきます」
後ろからひょいと手元をのぞき込んだメラニーが、焚き火へと戻る。
「蜂蜜か」
どこで見ていたのか、コンスタンタンもやってきた。リリーは微笑みながら、磨き込まれて表面がなめらかな木匙を取り出す。
「これ、何の実?」
「カルだな」
「正解です」
パンの上にとろけたチーズをのせてメラニーが戻ってくる。
「そーっとだから」
「大丈夫よ」
リリーが木匙で蜂蜜をすくい、チーズの上に細くかけていく。口の前に差し出され、タビーはパンをかじった。
「…美味しい」
うっとりとした表情につられて、リリーも木匙を持ったままパンをかじる。二人の脳裏を掠めたのは、王立学院で礼儀作法を担当した教官の顔だった。
「多分、見たら倒れる」
「凄く怒られそう」
野営とはいえ同じパンにかじりつくなど、貴族として、学院生としてあり得ないと言われそうだ。
「何これ」
いつの間にか、コンスタンタンもチーズを貰ってきている。差し出されたそれに躊躇うのは、仕方あるまい。本当に久々の甘味なのだ。
「少しだけだからね」
「景気づけにたっぷりでも構わないぞ」
タビーが肩をすくめると、リリーは少し笑ってコンスタンタンのチーズに蜂蜜をかける。
「ここのパンの部分にもかけて貰えるか?」
「タンタン」
咎める様な眼差しを向けたメラニーに小さな笑いが起きた。
「タビーさま、タンタンに蜂蜜は危険です」
真顔で言う彼女に、タビーは吹き出しそうになる。
「ピリピリするだけ無駄だろうが」
蜂蜜をかけたチーズを一口かじったコンスタンタンは、珍しく柔らかい表情を浮かべた。
「ほら」
差し出されて、メラニーは躊躇う。タビーに軽く背を叩いて促されて、ようやくそれを受け取った。
一口かじった瞬間、彼女もうっとりとした表情を浮かべる。
「そろそろしまった方が良さそうですね」
「同意だけど、これは?」
フォルカーの手にも、パンとチーズがあった。
「たっぷりでお願いしますね」




