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タビーは王女の髪をブラシで梳いていた。
綺麗だったが念のため湯船を軽く洗い、湯を貯めている。お湯の音が響くだけ
のゆったりとした時間だ。
「殿下、服を……」
そこまで言いかけて、タビーは迷った。服を脱いでください、という言い方は
失礼だろう。『お召しものをお脱ぎください』か、それとも?
「……タビー?」
手が止まった彼女を、王女が呼ぶ。疑いのない眼差し。
「その、殿下。お風呂に入られるときは、服を……」
「ああ、そうね」
頷いた王女は立ち上がり、タビーの前に進み出た。手を横に上げる。
「……ご無礼を」
一礼して、タビーは腰元の紐から解いていく。王女の服を脱がせるなどという
経験はもう二度とないだろう。緊張して手が震えた。
王女は全てを脱ぎ去っても美しい。
形のいい首から鎖骨、そこから伸びる胸、腰、太腿、足首。全てが芸術品の様
だ。
洗い場にある椅子に軽く湯をかけてから、王女を座らせる。桶で湯を汲み、少
しだけ足下を流した。
「熱くはないでしょうか」
「大丈夫よ」
前世にあった風呂椅子とは違い、こちらのは背もたれのない高い椅子だ。滑ら
ない様にか、重そうな焼き物で作られている。
「失礼いたします」
少しずつお湯をかけ、王女の体を流していく。温まったところで、手拭いと石
鹸を手に取った。タビーが触った事も無い、上品な香りのする石鹸だ。手拭いに
こすりつけ、水を含ませながら泡立てる。タビーの使っている石鹸とは泡立ちか
らして違った。細かい泡を潰さない様にして、王女の肩から背を洗っていく。
「痛くはありませんか?」
「大丈夫」
「……ご希望があれば、仰ってくださいね」
逃亡生活の間、風呂等入っていなかっただろう。だが、王女の体からは臭いも
しなければ目立つ汚れもない。泡は多少色づくが、それだけだ。背中から腰、腕
や足を洗ってから、タビーは困った様に王女を見上げた。
「殿下、ご自身でお体を洗われた事は……」
「ありません」
「……」
覚悟を決めるしかない様だ。
「殿下、私は人の体を洗った事がないのです」
「そうですか」
「気持ちが悪かったり、痛かったりしたら仰ってくださいね」
頷いた王女の前に回り、首元から胸、腹と辿っていく。
「申し訳ありませんが、立ち上がってください」
王女が立ち上がった。石鹸の泡を押しつけない様にしながら、王女の体を隅々
まで洗っていく。座っていた時には洗いきれなかった膝裏や、足首、足裏まで。
いつしか、タビーは静かな気持ちになっていた。
王女といえども女だ。女同士が体を洗うのだから、恥じらう必要はない、と思
いこもうとしていたが、いつしかそれも消えていた。王女が人形の様に、言うが
ままにしているせいか、タビーの羞恥心も消えている。
王女の体を洗い終えたタビーは、静かに湯をかけ、泡を流していく。美しい体
の線が益々際だった。
「殿下、こちらへ」
湯を吐き出している口を閉め、手を取り湯船へ誘導する。広い湯船は王女が足
を伸ばしてもまだ余裕があった。
「こちらへ首を」
前世で売っていたバスピローの様なものはない。タビーは棚にあった手拭いを
何枚か重ね、王女の首元へ置く。
「髪を、お流しいたします」
王女は無言で頷く。
あらかじめブラッシングで汚れを浮かせていたので、まずはお湯で何度も流し
た。汚れが取れていく。白金の髪が輝きを増した様に見えた。
タビーは、この世界に生まれてシャンプーやリンスというものを使った事がな
い。洗髪用の石鹸を使い、仕上げに柑橘系の果物を混ぜたものを使っていた。だ
がここには髪用の石鹸と、仕上用のゼリーの様なものまである。タビーは見たこ
とがない。辛うじて、外側に書いてある名前で判断できるだけだ。
石鹸を頭皮につけ、ゆっくりと洗っていく。マッサージをするかの様に揉み込
み、泡で汚れを絡め取る。今まで何度も自分でやっていたが、人にするのは初め
てだ。
「痛くありませんか?」
少し頷いた王女にほっとして、マッサージを続ける。流し終わってからゼリー
状の仕上材をさっと髪につけ、よく流していく。
王女の髪は本来の輝きを取り戻した。白金の糸にも思える髪は、優しい香りを
漂わせている。
ふと王女の顔を覗き込めば、気持ちよさそうに目を閉じていた。
どこか気位の高い猫を思わせる様なその表情を、タビーは幸せな気持ちで見つ
める。
この時間を留めておきたいと、タビーは強く願った。
■
「もう、待てぬ!」
ドン、と机を叩いた王子に、ディヴァイン公は渋い顔をする。先代でもある彼
の父は『王子は待つ事を覚えた方がよい』と常々言っていたが、今更ながらその
通りだと思った。その父が急死し、ディヴァインの公爵位と領地を受け継ぎ、王
子後見となったのが数年前。
政治能力には全く問題がない王子だったが、王族として、また後継者候補とし
て育てられた割には短気な傾向がある。その都度、収めるのがディヴァイン公だ。
「殿下、早まってはなりません」
「早まる?ルティナが消え、父が倒れて何日が過ぎた!?」
「殿下」
「これでも私が継承者になれない、王権の代行者にすらなれない!」
今日の王子は気持ちを爆発させていた。この部屋には王子とディヴァイン公し
かいないが、外には警備の近衛もいる。ここで焦りをみせては、王子の評判に傷
がついてしまう。
王女の失踪、王都での謎の爆発、国王の病。
これら全てが起こりうる偶然など、もう二度とないだろう。念のため何度も調
査をしたが、そのいずれも王子派の誰かが手を下したものではない。
その偶然から王位を掴み取れない苛立ちは、ディヴァイン公にも理解できた。
王女ルティナはまだ12歳だ。聡明との評判が立っていても、後見人がいない
状況での政治は無理だろう。王子は18歳、成人後、治政にも参加しそれなりの
結果を出している。貴族達も王子派が圧倒的に多く、残りは中立だ。王女派はい
ないと言ってもいい。いたとしても、旗印になる王女がいなければどうしようも
ないのだ。
「こうなったら……」
「殿下!」
鋭い声が飛ぶ。近衛騎士隊を統括するディヴァイン公のそれに、王子は口を噤
む。
「お言葉には、ご注意頂きます様」
「……わかった。今日は、もういい。下がれ」
「かしこまりました」
一礼をし、ディヴァイン公は部屋の外へ出る。念のため警備担当に王子の動向
に気をつける様告げ、身を翻した。
王子が国王になるのはいい。
王子は今現在の国王と三公が中心になる政治から、もっと国王が権限を強く持
つ政治体制へ移行させたいと思っている。三公の一角であるディヴァイン公が彼
を支持するのは、王子から近衛と彼の権限は今まで通り、とする約定を得ている
からだ。
騎士団と、シュタイン公。
ディヴァイン公にとっては目の上のたんこぶである。
軍の大きさでは騎士団には適わない。近衛はまず貴族であることが求められ、
出世にも家格が関わってくる。それでも以前よりは能力主義に移行してきてお
り、騎士の質的にも向上していた。
三公の力を削ぐ、即ちシュタイン公と騎士団の力を削ぐことになる。
王子としては、騎士団を統括するのは国王、その委任を受けて将軍が騎士団を
動かす、という形にしたい。それはディヴァイン公の希望に適うものだ。
過去の歴史を紐解けば、元々騎士団はシュタイン公の私軍だが、今は違う。
騎士団の様な大きい力を、三公とはいえ一人の公爵が担うのは不公平だ。もし
反乱を起こそうとすれば、国は呆気なく制圧されるだろう。力づくではなくとも
王都や各都市の警邏を止め、魔獣や魔人討伐を控え、犯罪者を見逃す様な行動に
出られれば、国は立ちゆかぬ。
王子が国王となり、騎士団の統括権をシュタイン公から取り上げれば、全ては
上手くいく。騎士団の将軍にも王子派、ひいてはディヴァインの子飼いを任じれ
ば、軍権は統一される。
元々、近衛と騎士団を分けているのがおかしいのだ。戦うための騎士は、国王
が持つべきものである。英雄の血筋が如何ほどのものか。
ディヴァイン公は拳を握りしめた。
父である先代は、可能なかぎり騎士団と協力し、国を守ることを口にしていた
が、協力などしなくても国は守れる。騎士団を近衛傘下におけばいいだけなのだ。
(父は、甘かった)
その急死は多くの貴族に悼まれたが、彼からすればそれは甘さでしかない。
断固たる王権とそれを守る騎士たち。
それこそが、ダーフィトのあるべき姿なのだ。




