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ザシャは急な訪問者を目の前に、当惑していた。
身の安全の確保、ということで騎士団に軟禁されているが、今まで誰かが会い
に来てくれた事は無い。学院生は騎士団内に入れないし、それ以外の知り合いは
この国にいない。自分の噂をする学院にいるよりも気楽な生活だった。
そんな彼の元を訪れたのは、騎士団を統括する将軍。シュタイン公その人だ。
驚くべきことに、補佐官や副将軍、侍従等、付き人がまったくいない。騎士団
内なら安全だと思っているのだろうか。
戸惑うザシャを前に、シュタイン公は静かに問う。
「バーデン伯爵位は継がないのか」
ザシャの出身地はノルド国、ダーフィトからは海を越える必要がある。国力は
ほぼ同等と言われているが、ノルド出身の彼からしてみればダーフィトの方が豊
かな国だ。例え、魔獣や魔人がでるとしても。
「……ノルド国王に、伯爵位は認めて頂いております」
事実だ。
両親と兄が横死し、辛うじて生き延びたザシャを、ノルド国王はバーデン伯爵
と任じている。茶番だと思いつつも、彼はその位を受け取った。
「正式な承継後、バーデン伯の紋章は体の何処かに刻まれると聞いている」
ザシャは少しだけ動揺した。いくらシュタイン公とはいえ、他国の、それも伯
爵家程度の事情を知っているとは思わなかったのだ。
「だが、バーデン伯の紋章は刻まれていない」
「仰るとおりです」
隠しても意味がない。ザシャはポケットからバーデン家の紋章を取り出した。
小さいそれは掌で輝く。
「私の中で迷いがあるのです。今更、伯爵位を名乗っても仕方のないこと」
「……名乗らないつもりはあるのか」
シュタイン公の言葉に、ザシャは首を傾げた。
「端的に言おう。伯爵位を、ノルドの縁戚に渡す気はあるのか」
シュタイン公の瞳は暗い。黒色なことも理由だろうが、何を考えているか読め
ないのは苦手だった。
「……ない、と言ったら」
「それまでだ」
その言葉の意味を図りかねる。それまで、というのはザシャの事だろうか。そ
れとも、何か他に含む所があるのか。
この国で、ノルドの伯爵位がどれだけの価値を有するというのだろう。せいぜ
いがあるかないかの敬意を払われるだけだ。そもそもダーフィトとノルドは国交
こそあるものの、友好とはいえない。間に海があるから戦争になっていないだけ
だ。
「わかりません」
ザシャはポケットに紋章をしまい込む。
「伯爵でありたいのか、それ以外の者になりたいのか。私自身、わからないので
す」
「渡したくない、と思ってはいるのか?」
シュタイン公が指しているのは、縁戚が差し向けた者の事だろう。あの後、死
体で見つかったが、犯人は未だに捕まっていない。
「少なくとも、刺客を送りつけてくる様な親戚には」
ザシャに接触があっただけでも三人。うち一人は死んだが、残り二人はどうな
のか、彼が知る由もない。ただ、ザシャの紋章を欲しがる縁戚が、最低でも三家
あるとだけ、わかる。
彼の答えを聞いたシュタイン公は沈黙した。ザシャの答えは、恐らく公の欲し
い答えではないのだろう。
「……邪魔をしたな」
沈黙の後、シュタイン公は部屋を出て行く。それを見送ったザシャは、再びポ
ケットから紋章を取り出した。
バーデン家の紋章。
これは、ザシャが経験した優しい記憶に繋がるものだ。
父と、母と、兄と。
何も知らずにただ笑っていた日々。その記憶。
ザシャは紋章を握りしめた。
これ以外、もう全てないことを思い出して。
■
深い琥珀の色だった。
うっすらと開いたその瞳は、白金の髪と違い濃い色。白金の睫毛に縁取られた
瞳は、どの様な褒め言葉も陳腐になるほど。
タビーは、息を呑んだ。
その瞳は引き込まれる色。あり得ない甘ささえ感じさせる様な煌めき。
「……」
目覚めた少女――――王女ルティナは、ぼんやりとしている様だった。天蓋を
見回し、側にいたタビーにようやく視線を合わせる。
「……楽園では、ないのね」
ダーフィトでは死者の国を楽園と評する事があった。タビーは静かに頷く。
「ここは、どこなのかしら……」
タビーに問うているか判らない眼差し。それは再び空中を見回している。
「安全な場所です」
騎士団の宿舎、というのが何となく憚られた。
「そうなの?」
「はい」
「そう……そうなのね」
放心した様に、王女は呟く。
「どこか、痛みますか?」
王女は夢見る様な眼差しで、首を横に振る。
「お水は、いかがですか?」
「……ちょうだい」
どこか甘えた声にタビーの心が温まる。王女とはいうものの、まだ幼い。
タビーより少し下くらいか。
王女の背をささえ、枕を積み上げて寄りかからせた。はらりと落ちた髪を王女
は気にすることもない。
水差しからコップに移した水を差し出す。コップも、薄青だ。この部屋を用意
したのはシュタイン公だから、彼の趣味なのかもしれない。
水を受け取った王女は、そっと唇をつけた。
ゆっくりと傾けられ、水は王女の乾いた唇へと吸い込まれていく。その仕草さ
え愛らしい。
水を飲み干した王女の瞳が、再びタビーをとらえる。先程よりはしっかりとし
た眼差しだ。差し出されたコップを受け取る。
「私、馬にのったの」
記憶を確かめる様に、王女はつぶやく。
「不思議なの、馬にはなにもなかったわ。鞍も、手綱も」
「……馬も、休むときには鞍や手綱を外します」
「そうなのね。でも、とても可愛かった。茶色でちいさくて」
「馬は、お好きですか?」
「ええ。良い馬とかはよくわからないけど……」
王女の言葉が段々としっかりしてきた。完全に意識を取り戻したのだろう。
「乗せてもらおうとしたのよ」
「馬に?」
「どこかに連れて行ってくれると思ったの。馬なら」
遠い遠いどこか、自分が知らないどこか遠く。
そう呟く王女は、タビーよりも大人びて見えた。
「……そうでしたか」
「あなたは……」
何か言いかけて、王女は首を傾げる。
「失礼しました、私はタビーと申します」
コップを戻して立ち上がると、タビーは最敬礼を取った、練習着なのが、残念
であるが。
「そう、タビー……あなたは、馬に乗れるの?」
「はい」
「そう……ああ、そうなのね。助けてくれたのは、あなたね?」
タビーは少しだけ頷いた。
「馬にお乗りになりたいのであれば、誰かに申しつけた方が安全です」
「でも、誰もいなかったのだもの」
「……お一人でしたか」
王女たる存在が一人で失踪し、逃げ続け、隠れることが出来る等、到底想像が
つかない。逃げられたとしても、食べ物は?寝る場所は?逃亡した王女が用意で
きるものではない筈だ。
「そう。一人だったの……」
「皆様、ご心配されております」
「そう、そうね」
王女は溜息をついた。物憂げなそれは、タビーの胸を締め付ける。これ程庇護
欲をかき立てる存在はない。この世にある全ての汚いもの、辛いもの、苦しいも
のから遠ざけ、守ってあげたいと思わせる。
二人の間に、沈黙が落ちた。タビーはただ、王女を見守っている。
「ここは、どこなのかしら。王宮ではないわね?」
「安全な場所です、殿下」
再度の問いかけにも、タビーはそう答えた。ここが騎士団本部だと、彼女から
伝えていいものかも判らない。いずれシュタイン公が来るのであれば、その判断
に任せたいと思った。
「殿下、もしよろしければ、お風呂を使われますか?」
「……?」
「せめて服だけでもお着替えになった方が」
そう言われて、王女は自分の服を見下ろす。質はいいものだろうが、あちらこ
ちらが綻び、汚れていた。
「……そうね」
頷いた王女がベッドから出るのを助ける。心配したが、シーツはそれほど汚れ
ていなかった。だが、タビーとしては交換したい。シーツの予備があるか、後で
クローゼットの中を見てみようと決める。
王女の前に手を差し出してみた。それがごく自然であるかの様に、王女は手を
乗せてくる。整えられていたと思われる爪が割れていた。逃亡生活は、やはり楽
ではなかったのだ。
だが、そうまでして王女は逃げようとしていた。
手を握り、些かふらつく体を支えながら、タビーは王女を立たせる。
小柄で、華奢な体、痩けた頬を囲む白金の髪。
まるで亡国の王女の様に思えて、タビーの胸は痛んだ。




