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王都には王宮があり、王宮の傍らには後宮がある。
執務を終えた女王が過ごすのは、王宮と後宮の間にある離宮のひ
とつだ。正確には離宮というよりも、王宮の奥の間に近いその場所
は、代々の王、女王が私室としてきた場所である。代が変われば調
度品も内装も一掃され、主好みの部屋が作られるのだ。
その離宮には、女王の身の回りの世話をする女官や侍女がいる。
彼女達は許可無く離宮を出ることが出来ない。国政の秘匿事項に
関わることもあるため、家柄だけではなく身上や思想まで全て調べ
られ、選ばれた者達だ。
いつ、王に選ばれ、その寝所に侍り、側室として迎えられても問
題の無い女性達。
主が女王ならば、その相談相手や女王の子の世話、家庭教師など
と様々な仕事が与えられる。幅広く対応できるだけの知識、相手が
何を望むか察することのできる気配り、女王への忠誠心。何もかも
を備えてなければ、女官などは務まらない。
女王の離宮は、名を付けられていなかった。
その即位は、前国王の崩御と次期国王とされていた王子の自害に
彩られている。
いずれも女王が望んだ事では無いが、即位の際に血が流れたのは
事実。さらに女王は若く、国政に携わるには足りないものが多すぎ
た。様々なことに忙殺される女王には、己の離宮に名を付ける余裕
もないのだろう。
「ねぇ、お聞きになりました?」
「ノルドとのことでしょう。私も驚きました」
一通りの仕事を終え、自室に下がろうとしたアイゼン・シーラッ
ハは、サロンに続く廊下で女官達が顔を寄せ合っている様子に、溜
息をつきそうになった。
『負けてしまうのかしら』
『そんなこと……でも、ここにいた方が安全では?』
『ノルドが攻めて来たら、逃げられないわ!』
つい先刻、テラスの片付けをしていた侍女達が、同じ様に話しを
していたのを思い出す。
それだけ、関心を集める出来事ではあるが、仕事の手を休めてい
いものではない。
アイゼンは引き返すことなく、廊下を進む。
彼女の姿に気づいた女官達は、何事もなかった様に取り繕い、歩
き出す。
廊下の先にはサロンがあるが、ここの点検はもう終わらせていた。
先程の侍女達はいない。いつも通り整えられたサロンを一周し、
彼女は再び廊下に戻る。
人気のなくなった廊下は、静かだ。
この離宮は女王が寛ぐためのもの、だが今、女王は王都にいない。
女王の出陣は、女官や侍女達にとって想定外のものだった。
彼女達が使える主が、戦場へ赴く。その理由を『士気をあげるた
め』と、取るか『どうにもならなくなったから』と考えるかは、人
それぞれだろう。
女王は女官や侍女達を、誰ひとりとして同行させなかった。
女官達は当然、侍女達も選ばれたから女王付きとなれたのだ。そ
の中から同行者を選ばない理由は、誰にでも判る。
女王、またはその後見人は、離宮にいる女官や侍女達を信用して
いない。
最終的に、騎士団の女性騎士達が数名、護衛兼身の回りの世話を
する事になった。アイゼン達とはまったく違う、女性でありながら
鍛え上げられた騎士達ならば、女王を守るだろう。戦場では、女官
や侍女など役に立たない。
アイゼンの実家であるシーラッハ伯爵家は、代々国政の重職につ
いている。戦地には赴かず、領地には私兵を配しているらしい。推
測ではあるが、本当の事を確かめようとは思わなかった。
アイゼンは、もう何年も実家や領地に帰っていない。
帰る理由もなかったが。
彼女は学院卒業と同時に、女官見習いとして出仕した。
シーラッハ伯爵は、年齢的に釣り合いのとれるアイゼンを出仕さ
せ、いずれ王子の目に止まることを期待したのだろう。その結果が
出る前に、王子は内乱を起こし、自害という道を辿ったのだ。
娘を次代の王の母にすることは出来なかったが、亡国の王女を母
に持つ女王には、信頼できる側近がいない。伯爵は、アイゼンが女
王の近くにいることを期待しているのだ。
磨き込まれた窓、そこに映った己の顔にアイゼンは立ち止まった。
女官に選ばれたのだから、それなりの顔立ちだ。控え目にした化
粧も、あと数年すれば衰えを隠せなくなるだろう。花ともて囃され
る時期は、とうの昔に過ぎ去った。
アイゼンの知人達は皆、嫁いだ。
彼女は女官になったため、祝いの席に顔を出すことは出来なかっ
たが、それはそれで仕方ない。
ただ、彼女達の様に伴侶を得、子どもを産み、育てるということ
を、アイゼンは経験できないだけだ。
貴族の中では行き遅れ、伯爵令嬢だが伯爵位は妹が婿を取って存
続すると聞かされていた。旨味の無い令嬢など、選ばれない。
だから、アイゼンはここにいる。
ただ、それが何時出られるかわからないだけのこと。
静かな空間にいると、そのような事を考えてしまう。小さく溜息
をついたアイゼンは、窓の縁を軽くなぞってから歩き出す。
その背が消える頃、侍女のひとりが同じ様に窓に近づいた。
目的のものを見つけると、彼女はそれを隠しポケットに入れる。
女王のための離宮は、今にも崩れそうな緊張感を孕んでいた。




