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宰相府の廊下を歩いていたザシャは、ガラス越しに見える空を見
上げた。
ダーフィトのガラスは、全体的に厚い。冬の寒さを通さない為だ
と聞く。雪が王都を覆う頃には、外側から鎧戸が下ろされる。昼で
あっても部屋の中が薄暗くなることもあった。
その厚いガラス越しに、青空が広がっている。
秋ももう少しで終わり、冬が来るのだ。王都に住む民達も、それ
ぞれの冬支度をしているだろう。
『ザシャ、見に行く?』
毎年行われていた秋の祭りは、中止になった。
学院にいた頃、よく誘われて――――断っても連れ出されたが、
何回か見た事がある。着飾った若い女性達、あちらこちらで開けら
れる酒樽、香ばしい匂いを思い出す。
最も、ザシャが正しい意味で、祭りを楽しんだことはなかった。
祭りに行かない、と告げた瞬間、相手の目がきらきらと輝いたの
だ。吟遊詩人の比喩表現は、あながち間違っていないと思ったこと
を覚えている。
傍目からは、祭りに繰り出す様に見えただろう。だが、彼が連れ
て行かれたのは商業ギルドの物置だ。そこには沢山の袋や包みが整
然と積み上げられていた。
『じゃ、ここ座って。これと、これね。渡すのはこっち』
そもそも、ザシャに売り子の様な真似ができるとは、本人は無論
のこと、相手も考えていなかった様だ。
物置で簡単な説明を受け、作られた表を見れば『誰かに』『何か
を』『頼まれた』なら、どうすればいいか一目で分かる。表の出来
映えに感心している間にも、物置には次々と人が出入りしていた。
『ザシャ、8番で何かあったみたい。行ってくる』
止める間もなく出て行く相手を見送り、ザシャはひたすら物置の
一角で待機するだけだ。
『すみません、3番なんですけど粉が足りなくて』
ザシャよりも年上の男が駆け込んでくれば、金と引き換えに材料
を手渡し、その記録を羊皮紙に書き込む。
道具が壊れたと聞けば、適当な道具を貸し出し、それを記録につ
けていく。
つまり、臨時雇用で、屋台の管理を任されたのだ。
ザシャは材料となる物品を渡す役目、相手は同じ役目をこなしつ
つ、何か問題が起これば仲裁に赴いていた。
祭りの期間中は、目の回る忙しさ。
寮に帰る余裕もなく、ギルドの部屋で泥の様に眠った。
普段なら躊躇する、誰かと同じ部屋で寝ることさえも気にならな
かったのだ。
他人と同じ部屋で寝るなど、落ち着かず、なかなか眠れないとい
うのに、その時ばかりは何か考える、感じる前に寝てしまったのだ。
『終わった!』
終われば、余った材料の精算と道具や屋台、売上金の回収、そし
て給金の支払い。
『じゃ、これ分け前ね』
その後、ギルドから支払われた、安くはない給金を2人で山分け
した。
正直にいえば、ノルドの伯爵位を持っているザシャは、金に困る
ことはない。罪滅ぼしのためか、バーデン伯爵家には家の格を守る
ための金が、ノルドから支払われている。幸い、特待生だから学費
はかからず、招待状の来る様な夜会は全て断っていたため、金には
ほとんど手を付けていない。
そんなザシャだからこそ、山分けされた給金の重みは格別だった。
その相手が学院を卒業した後、ザシャは祭りに行っていない。
騒々しい祭りは、その雰囲気だけでも疲れる。ザシャは人混みが
苦手だった。祭りが終わるまで、可能であれば部屋か学院の図書館
にでも引きこもっていたい方だ。実際、卒業までの3年間は騎士寮
で静かに過ごしていた。
それでも、彼女と共に過ごした祭りは、いい思い出になっている。
今年は、ノルドとの戦争もあり、祭りは中止された。
商業ギルドから屋台を借り、冬支度用の金を稼いでいた者達は、
嵩む出費に頭を抱えているだろう。ダーフィトはある程度の自給自
足が可能な国のため、ノルドとの交易が出来なくても、直ぐに影響
が出る事はない。
ただ、食料や資材等は全て戦地が優先になる。
商人達も王都で物を売る前に、西である程度を捌いていた。必然
と物価は上がり、食料は不足する。
臨時の統治者でもある王太后と宰相で検討し、城の備蓄を拠出し
ているが、全員に行き渡るかは微妙だ。配給制を検討したものの、
商業ギルドの穏やかな反対もあり、結局は少々休めで売る事になっ
ている。
その代わり、商業ギルドは日に一度、炊き出しを行う事になった。
ノルドならば、炊き出しなどしなかっただろう。領土拡大を狙う
今の統治者が、許すとは思えない。貿易で財を成し、ノルドという
国になったのだ。統治者も、貴族達も、物資は戦争へ回すだろう。
不足した分は、相手国から奪うなり、安く買いたたくなり、好き
な様に出来る。今頃、高見の見物をしているノルドの貴族達は、自
給自足が可能なダーフィトから、何をどの様に奪うか、思案してい
るだろう。いつも通りに。
ガラス越しの青空は、今が戦時とは思えないほど穏やかだ。
ザシャは空から目を離すと、再び廊下を歩き始めた。




