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「おはよう」
いつもと変わらず、バイアー男爵は宰相府に出仕した。
バイアー男爵家はそこそこ長めに続いている貴族家だ。代々、さ
ほど大きくはない領地を、堅実に治めている。その領地は騎士団領
とも呼ばれる北と接した東の地だ。
現在のバイアー男爵は、宰相府で領地の統轄を行う部門にいる。
ダーフィトの領地は、王族直轄領と、それ以外に区分けがあり、
直轄領以外は貴族達に与えられていた。
貴族達は領地を管理するが、どの様に管理するのかは、各貴族達
に委ねられている。
何らかの見返りに、神殿に寄付として土地を寄付する。
分家になる子どもに、小さいながら土地を割譲する。
借金を重ねていた貴族が、商人に土地を差し押さえられるという
みっともない話しは、数年に一度くらい聞くことがあった。
税収とは別に土地の統轄を行う部門では、多くの技術者を引き連
れての現地調査や、新しい土地の算定で貴族達と折衝するなど、目
立つ部分が少なくないが、男爵はそのいずれも経験したことがない。
男爵がいる部署では、今、その土地を誰が持っており、どの程度
の収入があるか、どの様なものが育つか、生産できるかという基本
的な情報を収集したり、土地にまつわる過去の経緯を遡る様な地味
な調査が主体だ。
つまり、根気強くコツコツと堅実に、だが指定された期日に間に
合う様に調べ物をする部署である。
ほぼ、個人で出来る仕事であり、報告書を書く方が手間がかかる
と陰で陰口を叩かれる様な仕事でもあった。
表向きは、一年の半分近くを領地で過ごすバイアー男爵への配慮
の結果、決められた配属である。
本当の所は、秀でた部分がなく、貴族では最下位の彼を手元にお
く意味を見いだせなかった、人事部門の適当な判断だ。
バイアー男爵は、王立学院の財政課程を卒業している。
留年などはしなかったが、成績も中庸、ちょうど順位の真ん中あ
たりをうろうろとしていた。卒業後に宰相府の仕事を得たのも、特
になりたいものもなく、代々東で宰相傘下の末席にいたから志望し、
無事に通ったというだけだ。
『倫理に反しなければ、男爵であっても好きに生きて良い』
バイアー家の初代が、子孫に残した言葉だ。
その倫理の範囲や、世間との折り合いはどうするのか、と幼い頃
彼は考えたが、すぐに止めてしまった。
いずれにしても、男爵で中庸な彼自身は、上位貴族達のいざこざ
や政争に関わることなく、この部署で働いている。
この部門にいるのは、バイアー男爵と同じく、時間に制限のある
者が多い。
全員が顔を揃えるのは難しく、次に出勤したときには同僚が退職
して田舎に引っ込んだ、どこかに異動した、等を確認する作業から
始める。学院卒業後に入学した新人が、将来を悲観して異動届けを
出し、無事認められて異動、等という経緯を確認する様なこともあっ
た。
宰相府の政争等は基本的にかかわらず、のんびりとした雰囲気の
この部署も、今では少々違っている。
彼があいさつをしても、返ってくるのは僅かだ。
地理的な情報や参考資料は、きちんと書棚に収められている。そ
の傍らに立っているのは、資料探しを手伝ってくれる補佐だ。彼ら
の数も少なかったが、室内にいる者達は更に少ない。
バイアー男爵家の領地は騎士団領と呼ばれる北側に面している。
最近のきな臭い事情のため、領地には彼の妻、そして嫁に行った
娘達とその子どもが避難してきていた。男爵の家は、それほど部屋
も多くはないが、頼ってきた娘達を受け入れない筈がない。
裕福な商家に嫁いだ娘は、子どもの世話を母親に託し、日当たり
のいい庭に野菜を植えて育てている。時間が空けば繕い物や機織り
の内職を手がけ、家にいてもダラダラすることはない。ほかの娘達
は彼女ほどではないが、内職等をして小金を得ていた。
まもなく、冬が来る。
そうなれば、男爵領は雪に覆われてしまう。家族が増えた分、冬
支度に必要な物資は増えていた。避難の際に、どの娘も婚家から持
たされた避難費用を持ち込んでいたが、有事の際にとっておくとい
う。その代わり、追加が必要になった食材や資材を買うため、自分
達で働いている。貴族としては相応しくない行動ではあるが、男爵
家では気にしていない。
「男爵」
彼の姿を見た同僚のひとりが手招いている。
「なにか……」
「お客さまが来られてます」
同僚は周囲を見回し、更に声を顰めた。
「ディターレ伯の、ご子息です」




