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王子ルーファンは、苛ついた様に書類を置いた。
既に日は高い。予定では今頃戒厳令を出す筈だった。国王が倒れたとなれば、
政治に混乱を来す可能性がある。それを理由に一時的な戒厳令を敷き、その間に
自派体制を確固たるものにしようと考えていたのだ。
「ディヴァインはまだか」
苛ついた言葉に、室内で護衛の任を任されている近衛達は目を見合わせた。
先程から何度も何度も聞かれている。
「申し訳ございません、閣下は……」
近衛は言葉を濁した。事が済んでいれば、ディヴァイン公は直接この部屋に来
る筈だ。だが、彼は未だに姿をみせない。
「くそっ!」
国王が倒れた事は、秘密にされている。
枕頭には専属医師と王妃が付き添っており、ルーファンの母は後宮で待機して
いるらしい。
王妃は正妃でもある。何事についても、彼の母は控えている事が常であり、看
病の為に直接付き添うことは許されていなかった。
王子である自分を生んだのに、何事についても王妃より優先される事は無い。
それはひいては王女ルティナと自分も同じになる可能性を示唆している。
(亡国の王女如きが)
王妃の母国はダーフィトより海を越え、ノルドを縦断した先にある、小さな国
だ。その国は既にない。王妃が嫁いですぐに、ノルドへと併合されてしまった。
後ろ盾のない王妃は、だが誰よりも王に信頼されている。側室である王子の母
を娶ったのは、なかなか子が出来ない王妃の代わり、という触れ込みだったが、
実際は亡国の王女を疎んだ貴族達の差し金だ。
それのどこが悪いのか、とルーファンは思う。
王に嫁げば、子を産む事を要求される。王は血を継いでいく為に妻を娶るのだ。
ルーファンが生まれて6年後、王妃はやっと王女であるルティナを産んだ。王
の喜びは大きく、生誕の宴は3日間催された。その華やかな雰囲気を、ルーファ
ンは覚えている――――青ざめた表情で参加した母の顔色と一緒に。
王女ルティナの行方は杳として知れない。近衛以外に王子を支持する貴族達も
協力しているが、その足取りはまったく判らなかった。
どこかに逃げたのであればそれでいい、一生そのまま出て来なければいい。
母が違うためか、ルーファンには妹への愛情はない。寧ろ妹が産まれてから、
国王の愛情は全て王妃へと向かった。月に数度は彼の母を訪れる国王だったが、
それもおざなりの様に思える。
(私が、王になればいい)
いつしか、ルーファンはそう考えていた。年齢からも性別からも、彼が優先さ
れてもおかしくない。女王を認めているとはいえ、後継者を決めずに王が倒れた
のであれば、治政に参加している王子が有利な筈だ。
戒厳令を敷き、王子派の貴族で御前会議を開き、ルーファンに暫定的な統治権
を委譲する決議を行う。1年もすれば、体制は固まる。その間に王が亡くなれば
尚のこと。
そのためにも、王女に出て来られては困る。せめて御前会議が開かれるまでは
どこかに行って貰わねばならない。
(せめて、ノルマンを味方にせねば)
三公の一角であり宰相でもあるノルマン公は中立派だ。王子にも王女にも与し
ない。日和見貴族の中にはノルマン公に同調し、王子派への参加をしない者も多
い。ノルマン公さえ引き入れる事が出来れば、旗幟を明らかにしていないシュタ
イン公を数で押さえられる。
ルーファンには近衛を統括するディヴァイン公がついており、そのディヴァイ
ン公と反発する立場のシュタイン公を引き込む事は難しい。それであれば、後は
数で押さえ込むのみだ。
「殿下、閣下がお戻りになりました」
「通せ」
待ちかねた連絡に、ルーファンの顔が緩む。
王冠まで、あと少しだ。
■
クノール家は子爵家だった。
ダーフィトに数多いる貴族の名前や爵位など、全部覚えてはいない。流石に何
も知らないまま食事に同伴するほどタビーも間抜けではなかった。
昼食まで残された時間を、子爵家の情報を聞き出す事に費やす。マルグリット
は嫌な顔一つせず、タビーの疑問に一つ一つ答えてくれた。
だが、付け焼き刃の知識は危険でもある。
なるべくこちらからは話さない様に、といっても貴族であり目上でもある相手
にタビーから話しかけるのは失礼だ。
悶々と悩みつつ、部屋に通される。
食堂では無く、どちらかと言えば居間の様な部屋だった。固めのソファとテー
ブル、ここにも絵が飾ってある。連なる山並みと深い森。
「失礼する」
軽いノック音の後に入って来たのは、短めの髪を撫でつけた男性だった。
その後ろには数人の侍女がついて来て、テーブルの上に手早く料理を並べる。
どこか青みを帯びた白い皿の上には、柔らかいパンに野菜や肉が挟まれたもの
と、酢漬けと思われる野菜が少々。カップにはスープが入っている様だ。
侍女達は食事の支度を終えると、足音を立てること無く出て行く。
タビーは居住まいを正し、深々と礼をした。
「顔をあげなさい。堅苦しいことは、なしだ」
低い声に顔を上げる。
「さ、かけなさい。私も時間がないので、簡単なもので済まないが」
「お気遣い頂き、ありがとうございます」
勧められるままソファに座り、タビーはクノール子爵と向き合った。
「戒厳令の発令は、ぎりぎりだが止められている」
パンをつまみながら、子爵は呟く。
「宰相であるノルマン公が首を縦にふらない。近衛だけで戒厳令を敷くことも可
能だが、後々の事を考えてる様だな。強引に勧めてノルマン公が王女派についた
ら面倒だ」
「……」
タビーもパンを口にした。いままでに食べた事がない程柔らかい。チーズと鶏
肉、酸味のある野菜が口の中に広がる。
「騎士団は王都内の警備で手一杯、という所だな」
彼女はちらりと子爵を見た。彼はパンを噛んでいる、タビーの視線など気にし
ていない。
「まぁ、このままいけば、3日以内には戒厳令が出るだろう。そうすれば終わり
だ」
王子派が権力を握るということだろう。だが、この国の政治は国王の独裁では
ない。国王と三公が政治・軍事を担い、貴族達はそれぞれに携わる。例え王子が
権力を握り継承者となったとしても、三公を排することはできない。
――――否。
タビーはパンを皿に戻した。胸が一杯になり、喉を通らなくなる。
「……その様なことが、できるのですか」
子爵は静かな眼差しでタビーを見返した。マルグリットと同じ空色の瞳。春の
空の色。
「できなくもない」
明確な否定や肯定ではない。
「騎士団の長であるシュタイン公は、英雄の末裔だ」
古い話だ。王国の歴史を紐解けば、英雄伝説に突き当たる。
――――英雄は剣で空と魔人を切り裂いた。
有名な一文だ。学院の基礎課程でも習った。
「だが実際、王の政治に三公が邪魔になることもある。それでも英雄の血筋を気
にして、せいぜい遠ざけることしかできない」
ダーフィトの長い歴史には、そういうこともあったのだろう。だが騎士団とい
う巨大な軍を持つシュタイン公を排除することは出来なかった。
「近衛と騎士団を比較してみれば、数では圧倒的に騎士団が多い。だからこそ、
歴代の王はシュタイン公の血を恐れ、時にはその力を削ごうとした」
だがそれは適わず、シュタイン公は今も三公としてあり続ける。
「今度はルーファン殿下が、それを実行しようとしているだけだ」
心臓がどくり、と音を立てた気がした。口が渇き、慌ててグラスを手に取る。
少し口に含んだ水の冷たさで、ようやく落ち着いた。
「……新しい王が誰か、など、私は興味がありません」
震える声でタビーは呟く。
「そうだな。道化の様に踊るのは貴族だけだ。だが己が道化だと気づいている者
は思うより少ない」
「……」
沈黙がその場を満たした。タビーの食欲は完全に失せる。政治関係のごたごた
に巻き込まれる理由はない。タビーが誰であったとしても。
「……シュタイン公は、動かれない」
ぽつりと子爵が呟いた。
「内戦になればまた別だが、恐らくご自身の進退を天命に委ねている」
「天命?」
「公の手元には、全ての切り札がある。殿下は知らない筈だ」
それさえ使えば、今の状況は変わる。だが、シュタイン公はそれを良しとしな
い。切り札は、使わなければ意味がないのに。
子爵はタビーを見つめる。
「だが、我らにも矜恃がある。公が何を考えようが、我らは騎士団。王都と民を
守るのは我らの勤めだ」
相手が魔獣であろうと、王子であろうと、それは変わらない。
「タビー」
子爵が身を乗り出す。タビーは手をぎゅっと握りしめた。
「我らに協力してほしい」




