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その瞬間、何が起こったのか判らなかった。
耳の奥でキーンという音がしている。椅子から立ち上がろうとして、自分が床
に座っていることに気づいた。
煙で目が開けられない。
「……去れ」
咳き込みながら杖を振る。煙が窓の方へ流れていった。涙がぼろぼろと出る。
「だ、大丈夫?」
声をかける。うめき声や泣き声がした。歪んで見える視界、どうにか這いなが
ら手探りをしていく。
手に、何か触れた。人の手だ。
「私、タビーよ。大丈夫?」
手を掴んで揺さぶる。うめき声が返ってきた。
「どこか、痛くない?息、出来る?」
手から腕、肩、顔まで辿る。男子生徒の様だ。見る限り出血はないが、内臓を
傷つけているかもしれない。
会議室の作りを思い出す。
扉は一つ、椅子と机があり、タビーは扉から遠い窓際の隅近くにいた。
「お母様……お母様……」
か細い声で呼んでいるのは、女生徒の様だ。やはり近い。
「どこ……?」
手探りで近寄る。魔術で煙を排出したが、足りない様だった。
「来たれ……」
こういう時、タビーが使える魔術は非常に少ない。主に攻撃やそれに近いもの
ばかりで、補助魔術が少々と付与魔法。緑や青の魔術に風を動かすものがある。
それを何度か使って、とにかく煙を会議室から出していく。
これだけの音がしたのだ、教官達も直ぐ来るだろう。
タビーは杖を支えにして立ち上がる。
「水、水を……」
「痛いよ、痛いよう」
うめき声に、彼女は震えた。
「誰か、誰か、いない?」
声をかけ続ける。
「タビー?」
何度目かの問いかけに、反応がある。聞き覚えのあるその声は。
「ヒューゴ?」
騎士課程の特待生であるヒューゴの声だ。
「どこ?」
「こっち、こっちだ」
声を頼りに進む。足下には椅子や机だったものが飛び散り、生徒達が倒れている。
注意をしながら声を辿ると、壁に寄りかかったヒューゴが見えた。こめかみから
血が溢れている。
「ヒューゴ!」
「大丈夫だ、机の角か何かにぶつかっただけ」
頭部の出血は見た目より多い、と聞くが、それにしても多すぎる気がした。
ヒューゴの側に膝をつき、エルトの袋を開ける。ガーゼがあれば良かったが、タ
オルくらいしかない。
取りあえず、タオルを縦半分に引き裂いた。生地が弱っていたせいか、思ったよ
り楽に切れる。それを何度か折って、こめかみの傷の上に置いた。
「強く、おさえて」
「すまない」
「他に痛みは?」
「大丈夫だ、それより皆を……」
「わかってる。教官ももうすぐ来るよ、きっと」
「ああ」
出血は止まっていない。取りあえず座っている様に告げ、思い出した様にエルト
の袋を探る。
「これ」
「なんだ?」
「傷薬。血が止まったら塗って」
以前、アロイス達に餞別で贈ったものの残りだ。エルトの袋の中では時間が経過
することはない。効き目も問題ないだろう。本当に基本的な傷薬だから、血止めの
効果は少ししかないが。
室内の煙は随分と少なくなった。魔術が効いたのだろう。タビーは出血している
生徒がいないか確認しつつ、意識がありそうな生徒へ近づいていく。
「ああ、あなた……助けて……」
うっすらと目をあけて喘ぐ女生徒は、汚れていても美しかった。教養課程の生徒
だろうか、ほっそりとした腕の先、手の甲に大きな擦り傷がある。
「大丈夫、大丈夫だから」
袋に入っている傷薬を取り出す。本当は傷口を洗ってからの方がいいが、応急手
当だ。軽く薬を塗ると、タオルの切れ端を巻き付けた。
「立てる?」
少女は僅かに頷く。タビーは彼女の脇の下あたりに肩を入れ、立ち上がる手助け
をする。
「廊下まで……頑張って」
会議室の損傷は、窓際の方が酷い。廊下はまだ大丈夫だろう。
廊下に至る扉は爆風で歪んだのか、中々開かない。
「もう、もう駄目よ、もう駄目なのよ」
悲観的に泣き出す少女を宥めつつ、タビーは何度か扉を蹴飛ばす。だが、人を支
えたままでは力が入らない。
「すぐだから、待ってて」
縋りつこうとする少女を座らせ、タビーは扉と向き合った。魔術で吹き飛ばす方
が簡単だが、一歩間違えると反動がくる。会議室内には、まだ生徒がいるのだ。
「ふんっ!」
少しだけ助走をつけ、扉に体当たりをする。扉は軋むが、なかなか開かない。
「開いて………!」
何度か扉に体当たりをするうちに、隙間が出来た。タビーはそこに杖を挟み込み
ぶら下がる様に全体重をかける。繰り返すうちに隙間は大きくなり、やがて大きな
音をたてて壊れた。
「大丈夫か!!」
再び少女を支え、廊下に出たところで、声がする。
「教官」
走ってきたのはカッシラーだ。ほっとして気が抜けそうになる。
「怪我人は?」
「ヒューゴが。他は、わかりません」
「直ぐに応援が来る」
「はいっ!」
女生徒を廊下に座らせる。体を震わせたのを見て、タビーはローブを着せかけた。
「これ、使って」
震えたままの女生徒は頷き、ローブに顔を埋める。会議室に引き返そうとしたと
ころで、男子生徒を抱えたカッシラーが出て来た。
「とにかく、廊下へ」
「判りました」
タビーは主に女生徒を中心に運び出す。幸い、意識不明の者はいなかった。何度
か促せば、支えが必要ではあるが立てるし歩ける。爆発の衝撃でショックを受けて
いるだけなのだろう。
カッシラーと協力して、生徒を廊下に出す。だが、応援は来ない。
「大丈夫か、タビー」
「私は。でも、なんで誰も来ないのか……」
「王子様の方が大事なんだろ」
吐き捨てる様に告げたカッシラーに、タビーはようやく王子が学院視察に来てい
た事を思い出す。一個中隊の騎士団派遣、さらに王子自身には多くの近衛がついて
いるというのに、これ以上どうしろというのか。
湧き上がってきた腹立たしさを封じ込め、タビーは黙々と生徒を運ぶ。特待生だ
けとはいえ、各学年に複数人いる。特に基礎課程は多い。子どもと言うべき年齢の
せいか、泣きじゃくる生徒もいる。それを宥めつつ、次々と廊下に連れて行く。あ
と少し、となった頃、ようやく騎士団が駆けつけてきた。
「大丈夫か!?」
「遅いッ!!」
怒鳴りつけたカッシラーの声に、廊下にいた生徒達が震える。
「すまない、怪我人は」
「中にあと数人」
「直ぐに運び出せ」
白髪の交じりはじめた髪を後ろに撫でつけた男は、ついてきた騎士に指示を出す。
「君は……魔術応用の生徒だね?」
「は、はい」
他の騎士達より上等の騎士服とマントを身につけた男に、タビーは頷く。
「生徒達を見てくれ。酷い者から救護室に運ぶ」
「はい!」
タビーはほっとした。人手があれば、救護室に運ぶ事もできる。女生徒や基礎課
程の生徒程度であれば、彼女でも支えて救護室に行けるだろう。
騎士達が動き出してから、ようやく他の教官達が駆けつけてきた。気が緩みそう
になるが、心の内で自分を叱咤する。
(まだ、終わっていない)
時折、嗚咽を漏らす生徒や放心したままの生徒もいた。タビーは動けるだけまし
だ。
教官達が怪我人を救護室に運び出す。
「これで、全員か」
息をつきながら、カッシラーが見回す。
「はい」
既に会議室に人はいなかった。ただ、滅茶苦茶に壊れた椅子や机があるだけだ。
「運ぶぞ。女生徒を頼む」
「はい!」
騎士や教官の手を嫌がる女生徒もいた。教養課程の生徒なのかもしれない。先程
ローブを貸した女生徒も差し出された手を拒んでいる。
「あの、私が」
「すみません、お願いします」
騎士は申し訳なさそうに告げ、タビーと入れ替わった。
「さ、救護室に行こう。少しだけ、歩ける?」
ローブの合間から瞳を覗かせた少女は嗚咽をこらえつつ頷く。
「ゆっくりでいいよ、さぁ」
女生徒に手を貸し、立ち上がらせる。細い体だった。
徐々に人が集まってくる。
「あの、手伝えることありますか?」
下級生だろうか、小柄な少女が顔を強ばらせながら聞いてくる。
「みんなを救護室に運んでいるの。できれば、女の子を運んであげて」
「わかりました」
数人の女子達が生徒達の所へ向かう。上級生達は野次馬の様に集まる生徒達に教
室へ戻る様指示を出し、怪我人や騎士達が進みやすい様にしてくれた。
「お母様、お母様……」
タビーが支えている女生徒は、泣きじゃくっていた。そのまま意識を失ったのか
急に重みが増す。
「うわっ」
「大丈夫か、タビー」
「な、なんとか」
気づいたカッシラーが一緒に支えてくれた。
「……背負えるか」
「たぶん」
怪我人の運び方は薬術基礎で習っている。女生徒は細く軽そうな体だが、タビー
もそれほどがっしりしてる訳ではない。少しだけ魔術を使ってから、女生徒の体を
背負う。高い場所に移動するための魔術だが、体重を支える事にも使えた。これだ
けで随分楽になる。
女生徒を背負ったタビーは、救護室を目指して歩き出した。
■
王子は、無事に王宮へ帰り着いた。
教官長であるベックからそれを聞いたタビーは、何とも思わない。むしろどこか
残念な気持ちさえした。
爆発が起こったのは会議室の側で、少し前に王子が通過した場所だ。某かの仕掛
けがされたが、発動が遅れたのだろう、という見解である。
王子は自分が狙われた事に激昂し、近衛騎士隊に犯人捜しを要求した。
騎士団ではなく、近衛に、である。
そもそも近衛は王族の警護を任される者達で、今回の様なことは騎士団の管轄だ。
案の定調査は進まず、犯人は不明という扱いになった。
この件に騎士団が関わる事は何故か許されず、曖昧なまま片付いた事を、貴族達
は新たな噂として囀る。
曰く、この事件で得をするのは誰か。
曰く、学院に仕掛けるだけの人を雇えるのは誰か。
曰く、騎士団が事件を回避できなかった事には、何らかの理由があるのでは?
学院内も同様で、無責任な噂が流れている。
幸い会議室にいた特待生達は全員が軽傷だった。とはいえ、事件に巻き込まれた
ショックで、寮に引きこもっている生徒が数人いるが。
そして、あの日以来、フリッツは姿を消した。
寮にもどこにもいない。外出許可も出されていない状況は不穏な噂の元になる。
寮長のヒューゴからカッシラーに確認してもらったが、返事は無かったという。
フリッツが消えて、10日後。
王女ルティナもまた、後宮から姿を消したのだった。




