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ヒューゴ・ギルベルトは、ただそこに立っていた。
顔が確認できる位置で、タビーは立ち止まる。
実習を開始した時と変わらない姿をした彼を見て、ぼろぼろの自分の格好を思
い出す。
羞恥で顔が赤くなった。同時に、怖くなる。
(なぜ、彼は先に進まないのだろう)
タビーが襲撃された所からヒューゴまでは相当の距離があった。鞭の音が彼の
所まで届くとは思えない。
(まさか)
タビーの身に巣くう猜疑心が頭をもたげる。
(あの男は、ヒューゴが?)
だとすれば、この距離は危険だ。いつでも逃げられる様に足下を確かめながら
タビーはヒューゴを見つめる。
そんな彼女を見つめ返した彼は、少しの後頷いて歩き出した。
「……?」
何なのだろう、という疑問は残るが、二人の距離は開いていく。ほっとしてタ
ビーは全身の力を抜いた。距離を保ったまま、彼女も再び歩き出す。
倦怠感が全身に満ちていた。貧血かと思ったが、幸い左手の出血は止まった様
だ。足しになるか判らなかったが、ポケットに入れていた菓子を取り出す。前世
でクッキーと呼んでいたものに酷似したそれは、だがぼろぼろに崩れて掌に落ち
た。
「はは……」
あれだけ逃げ回り、倒れ、鞭で追い回されたのだ。考えてみれば当然だったが
そこまで考えが回らなかった。欠片になってしまったそれをまとめて口に放りこ
み、水袋を取り出すと水で流し込む。
甘さよりも中に入っていた木の実の味が強い菓子は、あっという間に無くなっ
た。空腹ではなかったが、食べた事により少し緊張が解けた気がする。
ふと、前を進むヒューゴが立ち止まっているのに気づいた。こちらを見ている。
今日の実習では生徒同士の会話、連携は禁止されていた。それを考えれば彼が
話しかけてくることはないだろう。勿論、タビーから話しかける気もない。
意を決して、タビーが歩き出す。するとヒューゴも再び歩き出した。
タビーが止まると、ヒューゴも止まる。
彼女が歩き出せば、彼もまた歩き出す。
二人の間の距離は一定のままだ。
(……まさか)
タビーを気遣っているのだろうか。だとしても、なぜタビーが襲われたかを
知っているのだろう。あの男が教官に知らせたからか、それとも襲われることを
知っていたからか?
信頼と疑念とが渦を巻く。だが、それを突き詰めるにはタビーは疲れすぎてい
た。王都まで、学院までは辿りつけるだろうと思うが、明日はどうか判らない。
「しっかりしろ、タビー」
自分で自分に言い聞かせる。教官に言った筈だ、助けてくれた男にも。今は実
習中で、タビーはそれを成し遂げなければならない。タビーが目指す魔術師への
道が、そこにあるから。
足に力を込める。
等間隔を保ちながら歩き続けるヒューゴは、少なくとも今は敵では無い。
だから、タビーも歩き続けるだけだ。
■
学院に到着したタビーを待っていたのは、馴染みになってしまった救護室の教
官と、黒い騎士服を身に纏った男達だった。
「タビー!」
到着を担当教官に報告した直後、駆け寄ってきた男達にタビーは思わず後じさ
る。
「大丈夫だ、タビー。彼らは、騎士団の騎士だから」
救護室の教官が告げて、タビーにそっと歩み寄った。それですら怖い。
「大丈夫、タビー。傷を見せてくれないか」
辛抱強く声をかけながら近寄ってくる教官に、だが震えが止まらなかった。今
まで押さえ込んでいた恐怖感がこみ上げてくる。
「タビー、傷を見せて欲しいだけだ。大丈夫だ」
私は何も持っていないよ、と続けた教官は手を広げ、何も無いことを見せてき
た。そこでようやくタビーの足は止まる。
「少しお待ちください」
騎士に声をかけた教官はタビーに近づき、まず左手を持ち上げた。ローブの袖
でぐるぐる巻きにしていたものをはずすと、血に染まった包帯が出てくる。教官
は表情を変えず、ただゆっくりと包帯をはずしていく。
「少し、痛いよ?」
予告して、最後の一巻きをはずす。血で固まっていたそれは、傷口に響くがタ
ビーは耐えた。
教官が右手を翳すと、水が流れて血を洗い落としていく。撫でる様なその感触
に心が緩んだ。
「タビー、騎士団の人たちは、君のそれを取りに来たんだ」
ゆっくりと水を流しながら、教官はタビーの目を見つめる。
「それ……って…」
「右腕のそれは、邪魔だよね?はずして貰おうか」
忘れていた訳ではないが、見ない振りをしていた。右腕に巻き付いたままの襲
撃者が振るった鞭。
「……はい」
「ありがとう」
教官が頷くと騎士達は何事かを話し合い、そのうちの一人が腰の剣を外して近
寄ってきた。その厚意に、タビーは感謝をする。
「ゆっくりと外すが、痛かったら言ってくれ」
「はい」
鞭の食い込みを確認してから、騎士はその持ち手を取り上げる。ゆっくりと回
すと、するすると鞭が外れていく。締め付けられていた腕が解放されて、思い出
した様に痛んできた。
最後の一巻きが外れると、騎士はタビーから離れる。また何事かを騎士同士で
話し合うと、右腕を見せる様に要請された。
「手伝う」
左手は教官に治療中、右手だけでどうしようかと思っていたタビーに声をかけ
たのはヒューゴだった。
「え、でも……」
「手伝うだけだ」
同期とはいえ歴とした男性にローブを脱がされるのは何となく抵抗があったが
背に腹は替えられない。紐は自分で外し、背中側からローブを抜いて貰う。袖の
釦を外し、ヒューゴが袖をそうっとまくり上げた。
「……」
右腕には赤黒い鞭の痕が残っている。強く締め付けられた時のものだろう、痣
の様な痕は広範囲に広がっていた。
騎士達はその傷をじっと見ると頷く。ヒューゴがタビーの袖を下ろした。
「ご協力に感謝します」
鞭を持った騎士の一人がそう告げると、学院の出口へと向かっていく。その背
を見送りながら、タビーは意識が遠くなるのに気づいた。
「タビー!」
「だい、じょう……」
大丈夫です、と言ったつもりだが、口が回らない。足からも力が抜けていく。
「タビー、しっかりしろ!」
側にいたヒューゴに手を差し出された様な気がした。
その手を掴んで良いかどうか、迷っているうちにタビーの視界が黒く塗りつぶ
されていく。
「タビー!」
■
目を覚ますと、そこは見慣れてしまった救護室の天井だ。
ゆっくり体を起こす。左手と右腕には包帯が巻かれている。
「……」
救護室には誰もいなかった。室内はがらんとしていて、薬草の匂いがする。
「リタ、だ」
薬術基礎の講義で使った事がある。様々な傷薬の基本となる薬草だ。万能薬と
言っても良いくらい、幅広く使われている。その匂いにほっとした。
体を動かすと、あちらこちらが痛い。誰もいないのを良いことに、行儀悪くワ
ンピースの裾をめくってみる。足のあちらこちらにも痣が浮かんでいた。
溜息をついて裾を戻す。外を見る限り昼間の様だったが、何時なのだろうかと
考えつつ、ベッドから降りた。痛みはあるが、耐えられない程ではない。
それにしても、こんな頻繁に救護室を利用するとはタビー自身、入学前に思わ
なかった。自分自身のせいではない、と言い切れないのが切ない所だ。あの決闘
に負けていれば、恐らく今回の事は無かっただろう。特待生としての成績は維持
しつつも首席でなければ、そもそも巻き込まれなかったと思う。
それでも、決闘に負けたくないと思ったのはタビー自身だったし、特待生にな
りたいが為に勉強も頑張った。首席はそのおまけの様なものだ。故意に手を抜け
るほど器用であれば、今頃ここにいないだろう。
つらつらと考えつつ、タビーは窓辺に寄った。秋の日差しが暖かい。少しだけ
ほっとした。
ここには、誰もいない。タビーを傷つける者は、誰も。
治療用であろう椅子を引っ張ってきて座ると、彼女は窓辺に寄りかかった。
暖かく、静かな空気が心地良い。ささくれ立っていた神経が落ち着いてくる。
深呼吸を一つして、タビーは静かに目を閉じた。
 




