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タビーと騎士の犬  作者: 弾正
タビーと決闘
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42



 倒れ込みながら、タビーは青い空を見ていた。

 空を見ていなかったら、きっとその黒い『もの』には気づかなかっただろう。


 反射的に体を回転させる。瞬間、乾いた音が石の道を打った。

 咄嗟に手をつき立ち上がろうとしたところで、また黒い『もの』が見える。

 地面についた掌に刺す様な痛みを感じながら、タビーはどうにか立ち上がっ

た。


 彼女の前に立ちふさがったのは、ローブを纏い、口元を布で覆った者だ。そ

の手には鞭の様なものを持っている。

 ひゅっという音がして、タビーの足下すれすれを鞭が叩いた。脅しだ。

「……」

 誰だ、と聞く気にもならない。風体から言って怪しすぎる。

 手に持っている鞭の長さから、間合いを取るのは諦めた。多少取ったところ

で、その攻撃からは逃げられないだろう。

 訓練用の木剣で相対するのは慣れているが、鞭は初めてだ。巻き付かれれば

動きが取れなくなる。強引に引き倒される可能性も大きい。

 タビーは、少しだけ喉を鳴らした。緊張で汗が浮かぶ。周囲に教官はおらず

後続も来ない。


(またか)


 順番で行けばトビアスが来る筈だ。さほどでもない間隔を詰めてこないのは

理由があったからだろう――――タビーと目の前の怪しい者を対峙させるため

に。

 相手の手が動く。鞭は軽快な音を立てた。タビーは、自分が獣になった気が

する。もっとも、調教される趣味はない。

 鞭が動いた所でそれを避ける。

 ローブが若干破れたが、体に傷はつかない。布の間から覗く目が、面白そう

に細められた。


 一撃、二撃。


 立て続けの攻撃をタビーは交わし続ける。遊ばれているのが嫌でも判った。

 手の甲が熱い。血が指先に向けて這う感触が判る。

 特に武器を持っていないタビーは、逃げるだけだ。だが背を見せれば、何処

に鞭が巻き付くか、わかったものではない。足や腰なら転倒するくらいだろう。

 だが、首に巻き付いたら間違いなく命はない。


 なぶるだけか。

 命まで必要か。


 相手の目をみるが、どちらか判らない。再び振るわれた鞭を避ける。頬に衝

撃が走って倒れ込んだ。じんわりとした、だが強い痛みが頬に広がる。


「……何が、目的?」


 時間を稼ぐしかない。教官達が気づかずとも、この街道を使う商人や人がい

る筈だ――――そこまで考えて、タビーははっとする。

 最初に歩き出した頃は頻繁に見えていた馬や馬車、人が全く通り掛からない。

 王都へ続く街道だというのに、これはあまりにも不自然だ。


 それだけの策を弄しているのであれば、なぶるだけとは思えない。


 タビーは再び立ち上がる。血の熱さ、鼓動に連動する痛み、その全てが現実

だ。

 襲撃者は何も口にしない。ただその手だけを動かし、鞭を思いのまま操る。


(逃げよう)


 タビーは油断せず、鞭を避け続けた。あちらこちらに傷が出来るが、それを

気にしてはいられない。避け損ねれば、急所を直撃する可能性がある。だが、

背を向けることもできない。とにかく鞭を封じねばどうしようもないのだ。


「!」


 避け損ねた一撃を右腕で受ける。鞭が綺麗に巻き付いた。本能的にタビーは

腕を引くが、相手は目を細め、ぎりぎりと鞭を引き絞る。ローブが裂け、布越

しに鞭が食い込む感触がした。

 深く息を吸い込み、足を踏ん張る。力を込め、両手で鞭を引っぱった。少し

だけ動くが、相手は動じない。それでもタビーは力を緩めなかった。


「くっ……!」


 ぎりぎりと引き絞られる鞭に、皮膚が裂ける感触がする。だが、タビーは耐

えた。全身を火が灼いた、あの瞬間を思えばまだまだだ。

「ふ、ううっ!」

 歯を噛みしめ、もう一度強く引く。鞭が、さらに引き絞られる。


 その瞬間、タビーは全身の力を抜いた。


「!」


 鞭を引く力に従い、タビーの体が襲撃者に突っ込む。

 まとめて倒れ込んだところで、タビーは目一杯頭をぶつけた。顎らしき所に

入ったのか、襲撃者が呻く。

 鞭を掴む力が弱ったのを感じたタビーは、急いで立ち上がる。鞭は、腕に巻

きついたままだが、その持ち手は襲撃者から離れていた。


 それだけを咄嗟に確認し、タビーは走り出す。逃げるなら、敵とは反対方向

へ、王都方面へ、だ。


 休暇を全て訓練に費やしたのは伊達ではない。鞭を巻き付けたまま走り出し

たタビーを襲撃者が追う。

 体中の、あちこちが痛い。

 手や頬から流れる血が煩わしかった。だが、拭いている時間はない。襲撃者

は後を追ってきている。足音も近い。


「何をしている!」


 声が聞こえた。顔を上げると、馬に騎乗した男がいる。見覚えのない顔だが

救いの手だ。振り向けば、襲撃者は踵を返して草原に消えて行く所だった。


「待て!」


 男は襲撃者を追い始める。馬と人では馬の方が早い。タビーは荒い息をつき

ながら、それでも逃げるのを止めなかった。突然現れた男が味方とは限らない。


 とにかく、前へ。逃げられるところまで。


 タビーは走り続けた。息が上がるが、足は止まらない。


(怖い!)


 何らかの感情を向けられるのであれば、まだ我慢できた。だが、襲撃者の様

に一方的な害意を投げつけられるのは恐怖だ。


(早く、早く!)


 自分で自分を叱咤する。ここは、ダーフィト。タビーの生まれた国。夜の散

歩を楽しめた日本ではない。自分の身を守れるのは、自分だけだ。


 前を歩いているであろうヒューゴの姿は見えない。教官の姿も。

 もしかしたら、ヒューゴや教官までもが共犯なのだろうか。

 貴族であるトビアスががタビーに嫉妬するというのであれば、やはり貴族で

あるヒューゴも同じなのではないか。

 学院内では出自の差はないと言われても、教官には貴族派もいるだろう。そ

の教官達もグルではないのか。味方はいるのか、王都は、学院は?


 とりとめもない考えが、タビーの脳内を駆けめぐる。

 背後からやってくる馬の足音が聞こえた。振り向けば、先程の男がタビーを

追ってきている。

 襲撃者と対峙した時以上の緊張が走った。

 馬に蹴られればひとたまりもない。馬上から斬りつけられれば、避けるのも

難しいだろう。必死に足を動かすが、人と馬では適わない。タビーを追い越し

た馬は、彼女の前で制される。


「大丈夫か?」


 男は馬から下り、タビーに近寄ってきた。


「だ、駄目!」

「うん?」

「だめ、だめです。実習中なんです、ひ、一人で王都に行かなきゃ……!」

 こうやって話しているのを見られれば、失格になるかもしれない。襲撃者か

らは逃げられたが、この男が何者か判らない段階では気を許せなかった。


「実習……学院生か」

 タビーは必死で頷く。放って置いてほしい。今更ながらに恐怖がわき上がる。

 明確な殺意、それに対抗する術を持たない自分。

 誰が敵で味方か、わからない恐怖。

「わかった」

 男は頷くと騎乗する。タビーをそのままに、馬は王都に向けて走り去った。

 気が抜けて座り込みそうになるのを抑え、震える手でエルトの袋から包帯を

取り出した。鞭は右腕に巻き付けたまま、とにかく左手の傷を押さえる。包帯

は直ぐに赤く染まった。取りあえず長さ分を巻き付け、ローブの袖を破いて左

手をくるみ、押さえる。頬の方は出血量の割りに軽傷の様だった。血が流れる

感触はしない。

 タビーは、再び歩き出した。

 足は重く、疲労感も大きい。何より精神的に疲弊していた。

 それでも、タビーは歩き続ける。しばらく歩いた所で、先程の男が戻ってく

るのに気づいた。

 逃げる間もなく、男は再びタビーの前で馬を止める。その後ろには、教官が

乗っていた。

「タビー!大丈夫か」

 馬から下りた教官が駆け寄ろうとするのに、思わず身を引いてしまう。

 この教官は、味方だろうか。近づいて短剣を出したりしないだろうか、首を

締められたり、暴力を振るわれたりは?

「だ、大丈夫です。王都まで行けます」

 座り込んで泣きたかったが、それでは駄目だ。実習をやり遂げなければ。

 実習を中止しても挽回の機会はあるだろうが、それよりも今は誰にも近づい

て欲しくない。得体の知れない恐怖が、タビーの身の内を貪る。

「しかし」

「大丈夫です!」

 タビーの声に教官と男は顔を見合わせた。

「怪我は、大丈夫なのか?」

「手当はしました」

 包帯を巻き付け、ローブの一部でさらに押さえ込んだだけだが。

「……大丈夫なんだね?」

「はい」

 青ざめた表情で頷いたタビーに、教官は溜息をつく。

「わかった、実習を続けられなければ、近くの教官に言う様に」

「はい、ありがとうございます」

 教官は溜息をつくと、再び男の馬に同乗した。そのまま王都とは逆方向、タ

ビーが襲われた方向へと向かう。


 蹄の音が遠くなるのに従って、全身から力が抜けそうだった。

 だが、彼女はどうにかそれをこらえる。王都は、さほど遠くは無い。出血が

不安だったが、今はとにかく歩きたい。倒れたら、その時考えようと決意する。


 一歩一歩を踏みしめた。

 自分は、生きている。

 生き延びて、いる。


 それだけで、泣きたいほどの感情が胸に満ちた。

 こんなにも、生きていたいと思うことは無かった様に思う。嗚咽をこらえな

がらタビーは王都への道を辿っていく。


 歩きながらタビーはふと、視線の先に立つ者に気づいた。人ではあるが、微

動だにしない。

 警戒しながら、タビーは足を進めていく。一歩、また一歩。

 鼓動に共鳴する様に傷が疼いた。深呼吸をしながら、もう一歩。

 ようやくその姿を確認できる距離になり、タビーは思わず足を止める。


 ――――ヒューゴ・ギルベルトが、立っていた。



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