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ミーシカは口を開かない。
白とも銀ともとれる髪は、きちんと手入れをしたのだろう。初めて見た
時とは違う艶があった。
タビーはミーシカを気にしつつも、アロイスの言葉に心を躍らせる。
ブレドを置いていかなくていい。
後の事を騎士団に頼めば、ブレドも荷馬車も有効活用されるだろう。も
しくは信頼のおける誰かに引き取られるかもしれない。
だとしても、ブレドを置いていきたくなかった。彼には申し訳ないが、
許されたならこのまま一緒に、行けるところまで行こうと思う。
「ミーシカ」
アロイスの低い声に、タビーは我に返った。
ミーシカは相変わらず俯いたまま、顔を上げようとしない。
「来週にはここを発つ。時間がない。お前は、どうしたい?」
促され、彼はのろのろと顔を上げた。目の下が落ちくぼんでいる。肌の
色は相変わらず悪い。なのに、額には汗が浮かんでいた。
フォルカーは黙っているが、その表情は普段と違って厳しい。ライナー
は努めて無表情でいる様だ。
「今なら、まだ抜けられる」
訓練中の怪我や病気の発症、建前はいくらでも用意できる。あとは本人
の意志だけだ。
「俺は、ミーシカの意志を尊重する」
アロイスの低い声に、ミーシカはびくりと体を動かした。
「わ、私が……」
絞りだした様な声に、張りはない。
「いらないなら、そう、そう言えばいい」
そう言ってアロイスを伺う目は、怯えた様にも見える。
こんな時は助け船を出す役のライナーも、黙ったままだ。
「閣下と参謀本部にも確認を取った。今ならまだ、戻れる。近衛に」
タビーは目を丸くし、慌ててミーシカを見た。彼が近衛騎士とは思えな
かった。
王族を守る近衛であれば、血統は勿論のこと外見も重視される。艶のあ
る髪は王宮でさぞかし映えたことだろう。顔は整っている様に見えるが、
あの顔色はいただけない。本当に具合が悪そうだ。
「近衛……」
呟いたミーシカは、俯き、そして嗤った。激情に駆られた様な、どこか
壊れた笑い声。
「戻れる訳がない!」
断言した彼は、直ぐに咳き込んだ。タビーはフォルカーを見るが、彼は
普段の穏やかさが嘘の様に厳しい顔をしたままだ。
「戻せるものなら、戻してみろ、アロイス!私に毒を飲ませるなら!」
芝居がかった様な言葉と嗤い声。タビーは耳を塞ぎたくなる。感情をす
べてのせた言葉は、強烈だった。
「ミーシカ」
アロイスはそんな彼の言葉にも動じない。
「ミーシカ、今しかない」
真剣な声音に、彼の嗤い声がぴたりととまる。額から頬に向けて、汗が
流れた。
そして、いつかかいだ甘い匂い。
「近衛に戻りたくないなら、それでもいい。できる限りのことをする」
「そう言って、俺を追い出したいのか」
今度は皮肉まじりだ。
「ミーシカ、目を逸らすな」
アロイスの言葉に、彼は下品と言われても仕方の無い舌打ちで応える。
近衛騎士は貴族しかなれない筈だが、目の前のミーシカはとても貴族だ
とは思えない。
「閣下につき出せばいいだろう。それで私は終わりだ」
はは、と乾いた笑い声は、どこか歪んでいる。何が彼をそうさせている
のだろう。少し強くなった甘い匂いに、タビーは目を閉じた。
院生時代、薬術を選択していた彼女は様々な薬や薬草を学んだ。ある程度
の成績がなければ教えられない様なものも知っている。
何かに近い。タビーは目を閉じて記憶を探ろうとする。
パン、という軽い音がした。
集中していた彼女は慌てて目を開ける。
音の主はフォルカー、テーブルに置かれた手を見た瞬間、集中は途切れ
た。
(未熟だ)
タビーは自分自身に情けなくなる。この程度で集中を途切れさせるなど
あってはならないことだった。
「ミーシカ」
こんな風に長く話すアロイスを、タビーは見たことがない。
騎士寮の寮長だった彼は、寮生達の話を良く聞き、相談にものっていた
が、必要以上に喋る様な人ではなかった。
「お前が決めなければ、俺はお前を連れて行くしかない」
「貧乏くじか、犬野郎にはお似合いだ!」
瞬間、タビーは自分でも思っていない素早さで、ミーシカに杖を突きつ
ける。立ち上がるという行動をした覚えもないが、今の彼女は彼を見下ろ
していた。
「犬の仲間は犬か」
小馬鹿にする様な言葉に、タビーの首筋を何かが走り抜ける。
「タビー」
静かに呼んだのは、フォルカー。だが、彼女は杖を下ろせなかった。
「タビー」
辛抱強く、もう一度。タビーは唇を噛む。
下ろしたくない。
「タビー」
宥める様な、そんな呼び声に彼女は溜息をついた。杖を引き、椅子に座
ろうとしてそれが倒れている事に気づく。倒れた音も認識しない位、一瞬
で頭に血がのぼり、反射的な行動を取ったのだ。
行きたくなければ、行かなければいい。
それ以前に、討伐隊に志願しなければいいのだ。少なくとも、今回はそ
れが許された。
重い空気に耐えかねたのか、ミーシカが立ち上がる。その足下はふらつ
いていた。
(本当に近衛なの?)
タビーが見たことのある近衛騎士には程遠い。
「ミーシカ」
フォルカーが呼ぶ。それを気にも留めず行こうとした彼の背に向かって
もう一度、呼びかける。
立ち止まったミーシカは、振り向かない。
「どこへ行っても同じだ。私の先にあるものは」
貴族の癖なのだろうか、独特の言い回しが嫌な記憶を蘇らせる。
「行くんだな」
アロイスの念を押す様な言葉に、彼は少しだけ頷いた。そしてそのまま
階段を上がって行ってしまう。ぱたん、と扉が閉まる音が聞こえた。
「……決まりだな」
アロイスの言葉に、ライナーが溜息をついて首を横に振る。
「いいのか?あのままじゃ……」
「ミーシカのことはミーシカが決めるでしょう」
いつもの様に穏やかなフォルカーが呟く。先程までの厳しい顔とは別人
の様だ。
「タビー、お前はいいのか?」
アロイスが何を問うたのかを理解して、彼女は直ぐに頷いた。王都を出
る、少なくともその目的は果たせるのだ。その選択を後悔する日が来ると
しても、今は今だ。先の事はわからない。
「5人か」
アロイスは背中と肩の力を抜き、椅子の背に寄りかかる。寮長だった頃
の彼の癖を思い出した。談話室にあった、アロイスが好んで座ってた椅子
は、今ではジルヴェスターの定位置になっている。
「討伐隊、と名乗るのは、少々気が引けますね」
フォルカーの言葉に、ライナーも笑う。
「隊長に副隊長、神官に魔術師と近衛」
指折り数える彼に、フォルカーが吹き出した。
「明日からは、慌ただしくなるな」
「武器の調整と馬の選択と荷物と……」
「荷馬車の中身は、参謀本部が手配するそうだ」
「変なもの入れられたりしないか?」
「わからん。それを知ってるのは、お前の方だろう?」
二人は顔を見合わせて少し笑う。理解出来ない内容もあったが、いつも
の彼らに戻ってほっとした。
「共用の道具も必要ですね」
「布団や毛布はいらないが、防寒用の羽織り物は欲しいな」
「冬はどこかの村か町で過ごせれば一番いいが」
アロイスは壁に貼った地図を見る。騎士団が使う、詳細な情報が記載さ
れたものだ。
「……西は難しいだろうな」
ディヴァイン公爵とその傘下の貴族たちが所有する領地。近衛と騎士団
は数年前の継承権争いでますます溝を深くした。近衛は騎士団を見下し、
騎士団は近衛に反発する。
「だったら、西はさっと抜ける?」
ライナーが立ち上がり、壁の地図を指さす。
「王都を出て、こう……」
最短距離で南の港町に向かうルートだ。その道なら街道沿いに村や町も
多い。宿を探すのも楽だ。
「どう?」
「余計に面倒だ」
アロイスの言葉に、ライナーは肩を竦めた。いつものやりとり。
タビーのささくれだった感情も、少し落ち着いてきた。
あと一週間。
その間に何をすればいいのか、何をしたいのか。
任務だとは判っているが、どうしても浮き立つ心を抑えられない。討伐
隊だというのに。王都を出られる、ただそれだけで嬉しいのだ。
タビーも振り返り、地図を眺めた。
彼女の生まれた国、ダーフィト。
そこにある沢山の都市、街、村。南の港町には大きい船があると聞いて
いる。見ることくらいはできるだろうか。
それを見るまで、討伐隊にいられるだろうか。
不安と興奮が入り混じった感情を、タビーは抑えられずにいた。




