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「え?」
何を言われたか判らず、タビーは思わず聞き直した。
「はい、僕は経験がないので」
グレイの瞳を和ませ、フォルカーは少しだけ笑う。
「タビーさんは、応用出身ですが問題無い、と聞きました」
「え、あ、それは……」
アロイスやライナーに比べれば、タビーはまだまだだ。
「今までは、どうしてたの?」
フォルカーは笑いながら足を指さす。
「結構、筋肉ついていますよ、見ます?」
冗談のつもりなのだろうが、神官のそれを真に受けるほどタビーも愚か
ではない。
「そ、それって先輩たちには……」
「え?話していませんよ」
彼女は思わず目を閉じた。直ぐに開けたが現実は残酷にもそこに存在す
る。
「最初に言った方がよかったんじゃ」
「そうですね」
肯定してはいるが、悪いとは思っていない様だ。彼にとっては、優先度
が低いことなのか。
「ほんとの、本当に!経験ないんですか?」
一度でも経験があれば違ってくる。
「嫌われてはいないと思います」
「フォル自身は?」
「好きですよ」
タビーは唸った。嫌いではないし、相手に好かれているのにできないの
が不思議だ。そして今、急にそんなことを言い出すというのも困惑する。
「教えて貰えませんか?」
「ええと、それはいいけど……」
まずはアロイスかライナーに相談したい、と思ったタビーは間違ってい
ない筈だ。
「よかった、では行きましょう!」
強引に手を引かれて報告できなかったのは、嘘ではない。
「……」
「……」
いたたまれなかった。
目の前でフォルカーが落ちる。何回目か、タビーももう覚えていない。
「あのぅ」
彼女は恐る恐る、隣にいる二人に声をかけた。
「あの、私の教え方ではダメみたいなので……」
できれば彼らに教えて貰いたい。タビーでは、彼のどこが悪いのか全く
判らないのだ。
姿勢はお手本と言われてもおかしくないくらい綺麗だった。相手を怒ら
せる様な仕草も行動もしていない。
それでもフォルカーは、馬から落ちる。
馬に嫌われてはいないと思う、と言った彼は間違っていなかった。馬房
に馬を選びに行ったとき、ほとんどが彼に興味を持ち、さらに半分は彼に
頬をすりつけて甘えている。馬好きのタビーにとって、羨ましいことこの
上ない。
何頭かの馬を連れて馬場に向かったときも、すべての馬がフォルカーに
甘えようとして酷い事になった。手綱を掴んでいたタビーが振り回された
ほど。
なのに乗って3歩、歩いただけで、馬はフォルカーを振り落とす。
フォルカーは慣れているのか、足から身軽に落ちているが、タビーにし
てみれば肝が冷える。
馬を変えても同じ。あれだけ甘えている馬たちが、彼を乗せた途端変貌
するとしか思えない。
とにかく、彼のどこが悪いのか、彼女にはまったく判らなかった。
振り落とした後でも、馬は彼の事が好きな様だ。馬から降りれば、また
甘えようと近づいてくる。
何がどうしてこうなるのか判らない、悩んでいるタビーと落ち続けてい
るフォルカーを、丁度馬の訓練に来たアロイス達が見つけたのだ。
「防具は?」
「脱いでます」
神官服の下に着込んでいたそれは、馬場の外に置いてある。これを着た
まま歩いているのだ。思った以上に体力も筋力もあるのだろう。
「どこもおかしくないけど……タビー、引いてみた?」
「はい、ダメでした」
フォルカーを乗せタビーが手綱を引き、馬場をゆっくりと回ろうとした
が、馬はさっさと彼を落とした。それを何度も繰り返している。柵の外か
ら見ていると、馬に乗る形も乗ってからの姿勢も見事だ。タビーは杖を持
つせいか右手を強く使う事がある。そのせいで、馬に変な癖をつけてしま
い、教官に何度も注意された。フォルカーの姿勢は、お手本で見せてもら
う『いい姿勢』そのものだ。
「本人は、なんか笑っているけど」
ライナーは苦笑する。
アロイスは無言で馬場に入り、一頭の馬に乗った。馬は少し驚いた様だ
が、直ぐになれ、馬場を回り始める。振り落としたりしない。
「なんだろう、俺にも判らないな……」
フォルカーが、また落ちた。
隣に併走したアロイスが支えようとしたが、見事に反対側から落とされ
る。
それを何度も繰り返しているうちに、日が暮れた。
■
ミーシカが、テーブルについている。
夕食を摂る為に1階におりたタビーは目を丸くした。
彼は最初にぐったりとしていた時と同じく、生気がない。生きていると
は思うが、死人が蘇ったと言われても信じてしまいそうな顔色だ。
スープが配られ、パンが置かれる。今日の夕食は鶏肉を野菜と炒めたも
のとゆでたいも、果物。ここに来て毎日果物を食べている。タビーの好き
なものの一つだ。
今日の当番はライナー。彼が席に着くと、フォルカーが胸に右手を当て
ながら何事かを祈る。周囲もそれに倣い、ようやく夕食だ。
つい先程まではとてもお腹が空いていた。今は胸が一杯で、何を食べて
いるのか味もよくわからない。きょろきょろする訳にもいかず、タビーは
下を向いて黙々と食事をしていた。
どうにか食べきったところで、ようやく力が抜ける。このまま部屋に戻
りベッドに潜り込みたいところだが、状況はそれを許さない。片付けと皿
洗いの間も、ミーシカはただ黙って座っていた。食欲はある様で、彼の皿
は空だったから、取りあえずは元気なのだろう。あの顔色さえなければ、
そう信じてしまいそうだ。
片付けを終えたライナーとフォルカーが再び席につき、場は一気に静ま
り返る。
「来週、出ようと思う」
アロイスが呟いた。
「天気が雨でも雪でも……来週の、終わりに王都を出る」
タビーは思わず彼を見た。あと、一週間。
「閣下と参謀本部には、昼のうちに知らせた」
であれば、本決まりだ。準備期間は二ヶ月という話だったが、半月と少
しで旅立つ事になる。
許されているとはいえ、いつまでも箱庭の中で訓練ごっこをしている訳
にはいかない。この間にも魔獣はダーフィトを跋扈している。片手で足り
る討伐隊だが、それでも任務は任務だ。
「明日から出発の前日まで、護衛付きだが外出が許可された。手紙の検閲
も終了だ」
「ちょ、待ってください。フォルはまだ馬に……」
「無理だと判断した」
アロイスは端的に応える。
「む、無理……」
討伐隊は馬で移動するのだ。乗れなければ歩くしかない。
「タビーさん、大丈夫です。私もそれなりに速いので」
本人はそう言うが、王都でのんびりと歩くフォルカーしかみたことのな
いタビーには信じられなかった。
「アロイスとも話したけど、フォルは馬車で移動させるよ。あんなに落ち
たら、馬も落ち着かない」
「ば、馬車って」
彼女は思わず身を乗り出す。
「うん、タビーがよければ、あの馬車と馬を連れて行こう、って」
ライナーはアロイスに視線を移す。タビーに向かって、彼は頷いた。
「大丈夫なんですか、その、騎士団的には」
「問題ない筈だが、明日、許可を貰うつもりだ」
それだけいうと、アロイスは強い視線を向ける。
未だ沈黙したままの、ミーシカへ。




